移ろいゆくモノたちの優しさに触れて -2020年3月21日

昨日、国公立大の後期の合格発表があり、晴れて大学生になることが決定した。

滑り止めで合格した私大の入学金を故意に振り込まなかったので、事実上の背水の陣で臨んだ試験であった(私学を全部蹴るという荒技を経たが)。

その事もあり、喜びもひとしおだったのだ。

1年間、思い返せば非常に長かった。その中でも、合格発表までの期間は永遠に続くとさえ思えるくらい長かった。その中で考えていたことを書こうと思う。

日々は優しいが、自分を救ってはくれない

これだ。学校も職場もないので、行くべき所、やるべき事も何も無かった。気楽でいいなと思うかもしれないが、これが意外と辛かった。自分が所属している場所がどこにもないということが、こんなにも寂しいことだとは思わなかった。
時間は全ての人間に平等であり、同じように季節を楽しむことができる。しかし、それらの限りなく優しいモノたちでさえ私を救ってはくれなかった。

また、自分の居場所というのは、ただ単に「自分が、物理的に存在している場所」というのとは大きく違う。
自分が自由に過ごせる自分の部屋でさえ、自分の居場所と言える場所とは程遠いものだった。
正しくは、「自分が、他人と社会的繋がりをを持ち、自他共に認知されている場所」が所謂、居場所というものなのではないだろうか(皆、こういう事を既に道徳の授業などで教わっているならすみません。私は道徳の授業をまともに聞いたことがないので、手探りで人生を歩んでいます)。

タイトルに書き、本文でも少し触れたのだが「移ろいゆくモノ」とは時間や季節などの流動的なモノたちである。そういったものは、誰にでも平等に訪れるという点において、限りなく優しいモノたちである。
しかし、だからといって向こうから働きかけて自らを助けてくれる訳ではない。優しさとは、いつだって残酷なのである。

私たちを苦しめているように見える、学校や職場の規則や所属意識、そういうモノたちに目を向けて欲しい。それは何のためにあるのか。それらはある意味、私たちの「居場所」を作る為にあるのだ。だからこそ、こういったモノに反発したところで、かえって居場所を遠ざけてしまう。それが薄々分かっているからこそ、どんな人もなにかしらの職種に就いて、ルールを守っている。
ルールに縛られるのはまっぴらだ!と言って高校を中退したヤンキーも、やがて職場のルールに従わないと生きていけなくなる。最悪、引きこもりになっても、生命のルール(食事や排泄)や物理法則には従わないとならない。

そういうものだ。それが「自由」というものなのだ。規則や秩序から解放されることではない。従うことこそが自由なのだ。

ルールに縛られるな!自由になれ!

こういうキャッチコピーが、心に響きますか?

すべての規則や秩序から解き放たれ、自由になることは、本当に楽なことですか?

では、とことんまで自由になってから教えてください。私は、世間でいう「自由」な状態になりました。そこには所属もルールも無かった。しかし自分の居場所も無かった。それは、自分の思う「自由」とは程遠いものでした。だからこれから、本当の自由を掴むのです。

私は全ての秩序や規則を美しく守り抜いて、自由に生きてゆきます。花などの自然の優しさを享受し、しかしその優しさに期待しないことが私の美学なのです。

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