山中湖の土地を麻布学園が未だ保有している件に関する報告書
1.はじめに
皆さんは、山内(やまのうち)一郎という人物を知っているだろうか。多少なりとも本校の生徒自治、或いは歴史に興味のある方であればご存じかと思うが、簡単に説明をしておこう。
1970年、つまり今から50年以上前。世間でいえば、大阪万博が開かれたり、「よど号」がハイジャックされたりしている。この年の4月、山内は理事長代行兼校長代行に就任した。山内は立場を利用し、生徒たちや教職員に対して高圧的な態度で接し、わかりやすい例でいえば発行物の検閲などを行う。こうした悪事に反発したのがいわゆる第二次学園紛争である。その終結時に結ばれた約束が本校の自由な校風を形作ったという認識は広く共有されていると言えるだろう。結果的に、山内は学園の金銭を横領していたことや、大成建設に勤務する麻布OBと共謀した日本私学振興財団に対する詐欺行為などが明らかになり、逮捕。懲役5年の実刑判決を受けた。その後、1991年に破産宣告を受けている。
何事もなかったかのように「金銭を横領し」と書いたが、このとき横領されたとされているのが、本校が山中湖畔に保有していた「洗心寮」の土地売却資金である。額にして、2億4580万円。今の価値に直すのは簡単ではないが、ある指標を利用すると、およそ5億2800万円程度に相当すると推計できる。
当時について記した資料は多くなく、本校の校史「麻布学園の一〇〇年」にも売却や事件のいきさつについて、詳細な記載はない。しかし、今年(2023年)の1月、ある情報源から「まだ麻布が山中湖畔に土地を持っているのではないか」という情報がもたらされた。詳細についてここで記述することは控えるが、学校の公的な書類に記載があったというのだ。
これを聞いて、私は詳細について公開情報をもとに調べることにした。この寄稿は、「洗心寮」について、独自に収集、分析した結果について報告するものである。
2.年表 —主に一〇〇年史より—
まずは、全体の流れをつかむために年表をご覧いただこう。
1925(T14)
12月15日 理事会.山中湖畔の土地約5,300坪を学校用地として買収することを決定 ※5300坪=17,520.66㎡
1926(T15)
02月10日 山中湖畔の土地を学校用地として買収
1927(S2)
夏 洗心寮建設. 洗心寮生活
1928(S3)
07月23日 洗心寮生活、8月12日まで.生徒有志を募り、山中湖洗心寮でキャンプ生活(水泳・競技・運動・徒歩遠足・富士登山・体操・読書).参加者120名。1929(S4)、1933(S8)1934(S9)1935(S10)1948(S23)にも訪問の記載あり。
1970(S45)
04月04日 理事会.山内一郎理事(1935年卒業)を理事長代行兼校長代行に選任.
04月27日 理事会.⑵山中湖畔の校地売却方針を承認.
1971(S46)
12月31日 山内代行辞任(但し理事として留任).
1972(S47)
04月25日 理事会.(中略)山内理事辞表提出.洗心寮再建中止を決定。
12月12日 東京地方検察庁に山内前代行を刑事告訴.山中湖畔洗心寮土地売却代金流用(2億4,716万円)に関して.
1978(S53)
07月24日 東京地方裁判所にて、山内一郎被告へ検察求刑通り懲役5年の実刑判決. 被告は即日控訴.
1979(S54)
10月25日 東京高等裁判所で山内一郎被告の控訴棄却の判決.
1981(S56)
05月13日 最高裁判所で山内一郎被告の上告棄却.19日に懲役5年の有罪確定.黒羽刑務所に収監.
1982(S57)
03月29日 「山内事件」民事訴訟判決.東京地方裁判所にて.山内一郎被告に対する本校の請求額がほぼ認められる.双方とも控訴せず確定.「山内事件」の裁判が刑事・民事ともに全て終結。
3.そもそも洗心寮はどこにあったのか
先ほどから「山中湖に」「山中湖畔」などと連呼しているが、そもそも洗心寮の住所を明確に提示した資料は今のところ出てきていない。「麻布学園の一〇〇年」にも住所の記載はないし、これは後になってわかったことだが、当時の事件を報道した新聞記事においても「山梨県南都留郡山中湖村」としか記載がない。
最初の情報は、本校社会科教諭、地歴部顧問のS.S先生によってもたらされた。「洗心寮」と検索してヒットする項目の一つに、地歴部OBが訪問した際の画像があったからだ。その画像を引用する。
この写真は、地歴部OBで構成される「よもぎ会」の創設50周年企画の一つとして山中湖を訪れていた時の模様である。後ろに山中湖と船が写っており、さらに後ろには大きな山がそびえていることがわかる。
S.S先生は、写真の左後ろにある山の中腹に写る2つの白っぽい建物に注目した。湖の南西エリアの道路から反対側を見ると、よもぎ会の写真に写る2つの建物が認められることを突き止めたのだ。これにより、よもぎ会が訪れた場所は湖の南西エリアであることが判明し、捜索エリアが大幅に絞られた。
ちなみに、同時に提供いただいた他の地歴部OBの残した文献の中にある、「富士急の富士吉田駅から山中湖(旭ヶ丘)行きのバスに乗る。梨ケ原を過ぎ山中湖にぶつかって右に折れ、湖畔を暫く行くと『麻布学園前』のバス停に着く。バス停のすぐ前の林の中に『洗心寮』があった。」という記載からも、エリアが特定できる。(バス停に着いては後述)
さて、情報がない時は、とりあえずレファレンスサービスを使うに限る。レファレンスというのは、図書館にわからないことを聞くと調べてくれるというとんでもなく贅沢なサービスで、ネットで調べてわからなかったことは、メール一本で総力を挙げて調べてくれる。とりあえずは地元へ問い合わせるのが一番早いだろうから、山梨県立図書館へメールで問い合わせてみる。
(2)で言及しているのは、先ほどの地歴部OBの文献、そして一〇〇年史に記載のある、「麻布学園入口」のバス停だ。注釈によれば、81年、つまり売却が承認された10年後にもバス停自体は残っていたことになる。
山梨県立図書館から3日で答えが返ってきた。
かなり有力な資料である。麻布のことを麻生と誤植している点は気になるが、まあ場所がわかればそれで充分である。先ほどの「南西」という範囲からここまで絞れたというのは大きな収穫だ。
なお、バス停については「富士急行に聞いてみてくれ、富士急行の社史を調べたけど周辺開発についての記事には東大以外載ってなかった」という趣旨の答えであった。とりあえずネットで検索してみると、「高村美術館」という施設のアクセスの中に麻布学園入口から徒歩数分、という風な記載があった(現在サイトは閉鎖したとみられる)。富士急行にメールで①設置されていた場所②設置期間③廃止のきっかけ、の3点について問い合わせてみる。
回答が返ってきた。
うーん。あんまり情報は増えなかった。とりあえず、このあたりのエリアであることまでは確定した。
これ以降、新聞記事やその他資料を当たってみたが、これ以上の情報は得られなかった。
4.いざ現地へ
ここまで調べてわからないのならば、現地へ行くしかない。そう考え、僕は父親に車を出してもらい、この調査のためだけに山梨へ赴いた。
現地に到着すると、一軒の魚屋を発見した。お店の名前は「魚勝」さん。大雨の中、店主に話を聞いてみると、ずっと昔からここに住んでいるという。学校の土地のことを調べに来ていて、というと「ああ、麻布さん?」と言ってくださり、話が早かった。していただいた話は、以下の通り。一部の社名・個人名は匿名とする。
どうも、今話に出てきたあたりの一帯が麻布の土地だったようで、建物の詳しいことは忘れてしまったが、建物があったことは覚えているという。子どもの頃のことだから記憶が不確かで申し訳ない、と言っていただいたが、そもそもこの一帯にあったという確証が取れただけで大助かりである。
なぜ、最初に範囲を特定することが大助かりなのか。それは、この後に出向く「法務局」で払う金額がだいぶ減らせるからだ。
5.甲府地方法務局吉田出張所
法務局、というと聞きなれない人も多いだろう。雑に言えば、不動産や戸籍について管理している、法務省の窓口のようなものである。
日本国内の土地はすべて、住所表示とは別に地番というものが割り当てられており(例えば、麻布学園の住所は2丁目3-29だが地番は2丁目138-6である)、地番ごとに所有者や広さ、使用目的(「地目」)などが記録されている。では、地番をどうやって調べるかというと、インターネット上では公開データとなっていない場合がほとんどなので、法務局に行って専用端末で調べるか、地番の載った地図を450円で買うしかない、ということになる。
まず、最初に地図を購入。現地の状況と照らし合わせたのがこの図だ。
ここからは、地番ごとに書類(全部事項証明書)を請求することになる。
207-1、207-7、212-28の3つについて、全部事項証明書を請求する。全部事項証明書でわかることは、地目(用途)、地積(正確な面積)、所有者、そしてそれらの変更履歴とその日付である。ちなみに1部600円。すでに2000円以上費やしている。もっと言うと、麻布が土地を持っていたころの主な記録は旧式の記録(旧土地台帳)にしか残っていないので、それも閲覧したければ追加で600円を払う必要がある。
全てについて述べていると大変なことになってしまうので、要約して以下の表にまとめる。
207-1と212-28は、元々「学校敷地」とされていたことが判明。207-7は1983年に207-5から分割(「分筆」)された土地で、207-5という土地についての書類を請求しないと、1983年以前については何も把握できないということがわかった(すでに207-5は解体され、他の地番に分割されている)。
とりあえず、ここまで調べてわかったことは、3つとも学校敷地だったことは間違いなさそうだ、ということである。北側の207-1、南側の212-28の両方が学校用地であったならば、真ん中の207-7(旧・207-5)も学校用地として使われていたと考えるのが自然だ。
そして、もう一つ言えることは、この3つの地番は、どれも現在麻布が保有している土地ではないということである。まあ、すでに建物があり何かに使われている時点で、それを麻布が経営しているなどの特殊な状況でない限り麻布の土地とは考えにくい。
ここからは、今までの書類よりさらに古いデータを保存する「旧土地台帳」を地番ごとに請求する。北の207-1は、1926(T15)年に財団法人麻布中学校が所有したことが登記されている。地元の方から買い取ったようだ。第二章の年表で提示した一〇〇年史の記載と一致する。その後、1970(S45)年9月に、小田急電鉄に対し売却の予約、所有権移転の仮登記を行い、10月20日に正式に所有権が移転している。これも麻布側の記録と一致している。
次に、中央に位置する207-7に合併されている212-4を請求してみることにした。207-5を請求しても良かったのだが、最も南の212-28の親であり、現在の207-7の大部分を占めていたので請求してみた。ここの所有者の変遷は概ね先ほどの207-1と同じ。最終的に小田急に売り、その十二年後に地元の方が買っている。
ここまででわかっていることをまとめると、図のようになる。白字で記載したところが、元々麻布の土地であったことが確実と思われる土地である。
ただ、これらのうち面積がわかっているものを足しても11000㎡程度で、一〇〇年史に記載のある、購入時の「約17000㎡」には届かない。可能性として存在するのは、207-1よりさらに北(図の外)にある地番を持っていたことは考えられるが、今回は調査しなかった。
今回の目的は、「麻布が現在も持っている土地を調べる」こと。僕は、これらの書類と法務局でにらめっこしながら(ついてきてくれた父親を横で待たせながら)、何かヒントはないか探していた。すると、面白い情報にたどり着いた。この情報は2つの分かれた場所に記載されていたが、日付を照らし合わせることで前後関係が確認できた。
不思議だ。売買予約をした後に、わざわざ207-3を分筆して、面積を小さくした後に小田急へ売っている。何があったのか。
ひとまず、207-3についての詳細な記録を確認することにする。まずは、旧土地台帳から。
大丈夫そうだ。そして、
ついにたどり着いた。現在も、学校法人麻布学園が山中湖畔に土地を持っていることが証明できた。南都留郡山中湖村山中字薮木207番の3。
地目、学校敷地。地積、115㎡。なぜ、たったこれだけの面積をわざわざ切り分けたのか。
6.現地へ
これを持って、再度現地へ向かう。現地がどうなっているのかワクワクしながら向かった。道路沿いの207-8とされる場所にあったのは、「山中湖ポケットパーク」。公園というほど広くもないし、遊具があるわけでもない。ただのちょっとした広場である。
そしてその裏側、ホテルとの間にはちょっとした林がある。これが207-3、麻布の土地とみられる。この林が、「山林」として記載されていた時代から残っているものなのかは定かではない。ただ、ホテルの敷地とみられる207-19と207-3の間は明確に区分こそされているが、ホテルから207-3に立ち入ることは容易で、ホテルを利用している子どもがちょっと立ち入って遊ぶ、というのは想定の範囲内のように思える。
現地では見落としていたのだが、Googleストリートビューで確認してみると、公園の道路側には「この公園用地の一部は学校法人 麻布学園の協力を得たものです。」というプレートが設置されている。
これはのちに判明したことだが、207-3より道路側にある207-8(ポケットパーク本体)は現在山中湖村が所有しており、麻布の土地ではないことが判明している。
また、本校図書館にある「学園史資料室」に保管されていた1983(S58)年の「評議員会資料 学園報告」に興味深い記述があった。(評議員会とは、学校法人の運営に関する重要事項についての諮問機関)
1983年というと、山内事件の裁判が終結した後である。この時期には、すでに麻布から山中湖村に土地を貸していることがわかる。売却当時、これを想定して切り離したのかは不明だが、麻布学園が積極的に「山中湖ポケットパーク」の設置に協力していることは間違いないようである。
7.まとめ
今回調査した事実関係はこれでまとめられたと思う。今後の調査の方向性として考えられるのは、
①麻布が持っていた土地の完全特定
②分筆された経緯を調べる(どこに?)
③当時の建物の写真を捜索する
……などが考えられるだろうか。売却されたと思われていた土地が実はまだ麻布の資産に残っていた、というあまり知られていない情報を明らかにする、というジャーナリズムもどきは、僕の個人的な興味で調べただけだが、これがもしあなたの好奇心を刺激したのであれば、それ以上の喜びはない。
最後までお読みいただきありがとうございました!
ぜひ既読感覚で♡(スキ)押していただけると幸いです!
2024.07.27追記
当時の航空写真に、それらしき面影が。
同サイトで「山梨県・山中湖村」「1920-1980」あたりで検索をかけると、けっこうな枚数の航空写真がヒットする。特に鮮明な当該資料は1951年10月31日に米軍が撮影したもの。ありがとう米軍。
この寄稿は、2024年度版論集に寄稿したものを再編集したものです