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拝啓 これから職を得る皆さんへ(PTA会報)

僕のことを何も知らない読者に突然文章を読んでいただくのも気が引けるので、せめてもの自己紹介をしよう。とあるSNSでは「#名刺代わりの10冊」として自分のお気に入りの本を紹介している人もいる。それに倣って何冊か挙げてみようと思う。(いずれも本校図書館所蔵)

津村記久子『この世にたやすい仕事はない』/恩田陸『蜜蜂と遠雷』/宮部みゆき『ソロモンの偽証』/三浦しをん『舟を編む』…等々。

面白いと思った本。時間さえ許せば、もう一度読みたい本。「活字があればすぐ読もうとする」と家族に言われ、思えば小1の秋から眼鏡だった。『エーミールと探偵たち』という児童文学の読書感想文を書いたことから、本を読むことが好きになった気がする。


と、ここまでは僕の個人的な面について語ってきた。前置きが長くなってしまったが、さっさと公的な自己紹介を済ませよう。

予算委員会議長、76文実 元・委員長補佐官、68運動会配信全体統括、麻布報道新聞 編集、討論部副部長、クラス委員、等々(2023年夏時点)。いわゆる「生徒自治」に関係する組織に両足、いや、両手両足と尻尾くらいまで突っ込んでいるような人間である。

そうした立場に紐づけられた学校生活を随分長いこと過ごしてきた。クラスや部活関係の友だちはそれなりにいるが、それと同じか、それ以上に仕事がきっかけの知り合いも多く、ありがたいことにそこから個人的に仲良くさせてもらっている友人もいる。

こういう環境なので、LINEは基本的に業務連絡がほとんど。あそこがトラブルだ、とか、議案を提出したい、とか。常に自分の仕事、役職を意識することになる。もちろん、自分で望んでやっているのだから決して嫌なことではない。

嫌なことではない。が。時に息苦しくなることもある。新しいアイデアは好きだし、積極的な「同僚」に感謝したことは数知れない。ただ、ナーバスになるような出来事が起きたり、思い詰めすぎたりすると、すべての連絡を絶ちたくなってしまう時がある。たまに。

例えば、最近では文化祭ソングの公開数時間前がそうだった。例年、文化祭ソングのミュージックビデオ(MV)は音源に文化祭をイメージする写真1枚、凝っていたとしてもスライドショーが限界だった。それを今年は楽曲づくりからこだわってもらい、バンドにバイオリンパートまで入った、歌いやすく、味わいのある一曲になった。そして、MVはミュージシャンの一発撮りで知られる「THE FIRST TAKE」の動画を研究し、オマージュした構図。撮影のカメラは5台体制で、短い納期だったにも関わらず、編集担当の彼はその腕前を遺憾なく発揮し、その出来映えに驚かされた。

ただ、動画の公開当日になって、ここまで力を入れたのに全く受け入れられなかったらどうしよう、ここまでやる必要はあったのだろうか、辛い、仕事を投げ出したい……などと、帰宅ラッシュの東横線の車中で、ひとり延々と考え続けていた。結局、この日の夜8時に公開されたMVは半年で7000回も視聴いただき、公開直後には温かいコメントをたくさんもらうことができた。(現在も公開中。YouTubeで「文化祭ソング 旅」と検索してぜひご覧ください! メイキング映像も配信中です)

仕事を引き受けて、整理して、大量に抱え込んで、たまにふさぎ込んで、嬉しさと達成感もほどほどに次の仕事に手を付ける、というようなサイクルを繰り返しているので、時々、友人に「あなたはいつ仕事から解放されるのか」と心配してもらうことがある。とりあえず、高2の終わりまでは予算委員会議長の職がある(はず)だし、高3になってからも、4月の入学式で前年度議長として、新中1、そしてその保護者にスピーチすることになるだろう。予算委員会を始めとした生徒自治組織は高2で引退することになるが、高3になっても学年行事や卒業アルバムのことでバタバタしている先輩を見ている限り、どうも色々と新しいタスクは……。皆まで言うのはやめておくことにする。先が思いやられるから。


人間は、社会性の強い生き物だ。立場にずっと縛られる生き物、という言い方もあるだろうか。小学生には「年相応」のふるまいを求め、学生には「本分は勉強」と勉めることを強い、社会人になれば、その人がどんなバックグラウンドを抱えていようと「一人前の大人」という責任がつきまとう。

その立場は、一つにとどまらないこともある。例えば、本業とは別に副業をしているという二面性があるかもしれない。あるいは、勤め人であると同時に誰かの家族である、ということも言えるだろう。これは決して大人に限った話ではない。中高生にとって、兼部はその代表例だろうし、塾で出される膨大な量の課題をこなしながら制作活動に熱心な同輩もいる。このような多面性を持っている麻布生は多い。

ただ、それと同時にその多面性に苦しんでいる友人も見てきた。「最高代」としての立場でありながら、ただ部活を楽しむ部員でもありたい。生徒自治の役職者である立場と、一人の文化祭参加者としての立場のずれ。悩み、悶え苦しんでいる姿の数々は、強く印象に残っている。

役割、立場から解放されるのはそれらから引退するときだ、と考えている麻布生は(まだ引退など遠い先だと考えている後輩にも含めて)多くいるだろう。僕もそう思っている部分はある。実際、文実委員長補佐官の立場を離れることで、それまで数か月の間に持ち続けていた文化祭に関する大量の業務と、それに伴う責任感から解放されたことを実感した。

しかし、僕はこの一連の在り方を、ある種不健全だと感じる。つまり、人は常に自分の役割に縛り付けられているべきではないと思うのだ。高2の引退まで、ずっと「部長」であったり、「先輩」であったりすることを目指す麻布生は多い。その要因の一つには部活と人間関係が密接に関連していることもあるだろうし、多くの部活、自治機関からの引退までが5年しかないからでもあるだろう。


ある先輩が言っていたことをここに書き留めておこうと思う。「役職は、成し遂げたいことを成し遂げるための道具でしかない」

そして、ここからは自戒も込めて。先輩である前に、麻布生である前に、一人の人間である。このことを忘れてはいけないと思う。自分が背負う役割をゼロにして、自分を社会的な役割から解放する時間を意識的に確保すること。自分が自分である、という事実をシンプルに肯定する時間が必要なのではないだろうか。

例えば、僕は本に触れる時間を確保することを自分に課している。もっと言えば、定期的に、多少仕事を放置してでも世の中の企画展を見に行ったり(「文化的な営みを確保すること」と呼んでいる)、あるいは店頭で文房具を眺めたりする時間を取るようにしている。そうして、自分の頭と身体をいったん抱えている役割、立場、責任から解放してやるのだ。


これから職を得る皆さんへ。麻布で公的な職に就くことを喜ぶ後輩たちへ。おめでとう。全力でその職を全うしてください。そして、その職を使い倒してください。ただ、その職即ちあなた、とか、あなた即ちその職、と思い込まないでください。誰かからその「職」が恨まれたからといって、「あなた」が恨まれたとは限りません。「その職に就いている自分」で居ることに疲れたら、少し頭と身体を解放してあげましょう。そんな悠長なことを考えていられないほど忙しい時期は、きっと来ると思います。でも、そういう時こそ、まずは「あなた」が肯定される時間を作ってください。必ず、その方がいい仕事ができるはずです。一人の先輩として、いや、その前に一人の人間として。応援しています。



この文章は、PTA会報第51号に寄稿したものをほぼそのまま掲載しています

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