調子に乗っている。
ぼくは、今日、非常に調子に乗っている。
討論部で上手く喋れたからである。
討論にうまいもへたもあるのか、と思われるかもしれないが。あるのである、これが。
わかりやすく、自分の主張が伝わる議論。これが「うまい」なのである。
で、ぼくは「上手い討論」の話をするつもりはない。問題はそれより後なのである。
部活終わり、広尾駅についてふと。
「飲みに行きたいな」と。
当然だが酒を飲んだことなどないし、部活の後食事に行くこともほとんどなかったし、いまはこんなご時世なので食事の場には一切行っていない。
けれど、そんな感情を抱いたのである。これが嘘偽りのない「部活仲間と飲みに行きたい」なのである。(飲みに行くというのは慣用表現。)
かえってきて、なんでだろうかと考えた。
結論は、「今日の討論のアフタートークがしたかったから」である。
アフタートークとは、M-1などで「大反省会」と称してやっている、「あれ」である。
自分がウキウキな気分なので、誰かに気持ちをシェアしようとしていた。それの方法として、食事行くことを望んだ。
けれど、当然学校から食事は禁止されているし、ぼくの親も認めるわけがないので当然却下となった。
でも、自然と「飲みに行く」という単語が出たのはこれがはじめてだし、自分でも驚いた。
そして納得した。これが社会の人々が飲みに行くのをやめられない理由なのか、と。
あれだけ「飲みに行くな」「家に帰れ」と言われても街から人が消えないのも無理はない。
なぜなら、「飲みに行ったことのない人が言っているから」だ。
某知事が、昔は丁重に「お願いします」と言っていたのも、最近は「飲みに行かないでください。GWの旅行も取りやめてください」ともはや命令口調。ものすごい違和感を覚えた。
知事がどれだけ寄り添って考えているかわからないが、おそらく知事はあまり飲みに行くこともないのだろう。サラリーマンの「これくらいなら」を受け入れられないのも無理はない。
うちの母親も妹もなんでみんなこんな飲みに行くんだろ、という非難をテレビの映像に向ける。そりゃそうだ。これが拡散の原因になりかねない「最大の理由」とされている世の中の動きには逆行しているだろう。
けれど、父親はその意見に積極的に賛同はしない。黙っていることが多い。父親は、普段から全く飲みに行かないが、(現在テレワーク)何度か行った時の楽しさを知っているのだろう。そして、時折コロナなんて、と悔しそうにこぼす。
この境遇は、さまざまな事象に当てはめることができる気がした。
カップラーメンを食べたことのない人はその美味しさを知らない。
数独を解いたことのない人は難しさを知らない。
車を運転したことのない人はその難しさを知らない。
ミートソースを自分で作ったことのない人は、何十分も鍋の前で待つことを知らない。
二応のコピー機を使ったことのない人はそのスピードの速さを知らない。
オリエンテーリングの大会に参加したことのない人は森の中で1ヶ月に一度か二度走ることのワクワクを知らない。
規約改正をしたことのない人はその大変さを知らない。
フィナーレに参加したことのない人はその盛り上がり、その場の熱い盛り上がりを知らない。
「その体験をしたことのある人にしかわからないこと」は世の中に溢れている。世の中なんて基本違う人たちが集まっているのだから、分断が起こるのも当然だ。
だけれど、果たして分断=悪、でよいのだろうか。もちろん、それによる暴力行為は決して許されない。
それを乗り越えることによって解決され、これからにつながっていく気がする。一旦分断しても、それを統合してきたのが人間な気がする。
さて、オリテの大会に行くなと言い出した親をどう説得しようか。