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日本には「日本人」と「外国人」しかないのではないか。
人生でもう何度も経験してるのだけど、とてもモヤモヤしていたことがあったので書いておくかと思った。
あまり隠してはいないからリアルで会う人たちはほとんど知っているけれど、私の親は、外国人で、私は純日本人ではありません。
生まれ持ったちょっぴりエキゾチックな顔立ちも手伝って、
「もしかしてハーフですか?」
と聞かれることもあるし、親の話や、幼少期を話す際、文化の違いがあるために自分からそのことを話したりもする。
ここで不思議なのが、自分から言ってもないのに混血なのかと聞いてくるくせに自分から言った時には
「えー、日本人顔だね!」「顔が薄いね」
とか昔は言われることがあった。最近はここまでひどくないけれど。
年々親に似てきたと友達に言われたので、顔立ちが変わってきたのもあるかもしれない。
ていうか、みんな、ハーフになにを期待しているんだ?
だからなんなんだ?と思いつつ、傷付いたりしている。
この背景には、金髪青眼の外国人のイメージでもあるんじゃないだろうか、とかも思ったりする。
とにかくイメージが雑だ。
「この国っぽい顔だよね!」
という偏った日本人の持つ外国人のイメージに勝手に当て嵌められることもある。え、なに、雑すぎない?ちがうけど?
みんなの外国人のイメージ、どうなってるんだ!?
見えない「差別」。
それで「実は親が外国人です」というと、「実は私も!」と本当に外国籍の親族が居る人から言われたりするとほっとする。
でも同じくらいの割合で「実はハーフです、○○県と、○○県の」みたいなおもしろくもない返しが来ることもある。これって、一体なんなんだろうか。
そう言われた時、私はへらへらとしていたりするんだけど、ものすごく嫌な気持ちになる。この違和感は、どうしてなんだろうと思った。
もし、「自分は〇〇県と〇〇県のハーフです」などと言ったことのある人が居たら本当におもしろくないのでやめてほしいのだけど、なにが不快なのか書き残しておこうと思う。
それが意識的でも、無意識化で発されたものであっても差別というものは存在し得ることに気付いてない人も多いように思う。
それは、「暴力を振るう気がなかった」と言いながら暴力を振るっている人間と変わらない。自分の意識とそういった事実(暴力)に因果関係などないのだ。
日本に生きていると日本人には、「日本人」か「外国人(青眼ブロンド)」かしかないのかなと感じる。
なんだそれ~!本当に排他的だ~~!!
私から見たらみんな「外国人」なのだよ。だから、なんだという話なの。
髪の毛や目の色を聞かれることもある。でもここまで黒髪で黒目である人がまるで常識のように多いのは、日本とか少数民族の農村や島とかそういうレベルじゃないのかな。
そうでない「外国人」は、黒髪黒目であっても別におかしいことなどないのに。
日本で生きる中で、外国にルーツがあるということがどれだけ困難か、想像したことないんだろうなぁ、と思う。だから平気でそんな冗談を飛ばせる。
もちろん「羨ましい!」「かっこいい!」というポジティブなことを言われることも最近は多いけど、マイノリティである当事者を生きるというのは困難なことが多いことに変わりはない。
どんなマイノリティであってもその根本は変わらないように思う。
自分の周りには差別がないと思っている人も居るのかもしれない。だけどそんなことあるわけない。
分かりやすいのでセクマイ例えで申し訳ないのだけど、lgbtqに自分の周りが理解的だというのは良いことだけれど、じゃあ社会はどうだろうか?
lgbtqの人が「差別がある」と言った時に、そうでない人達が
「私の周りは理解あるけどね」などと言われる時、どんな気持ちになるだろうか。
「あっそう、社会はそうじゃないけどね」、でしかない。そんなやわな問題じゃなかったりする。
日本社会が程度の差はあれど、どの外国人にも冷たいのは社会を見れば分かるはずだけど。
その中を生きることがどんなに大変か、分からないだろうか。
それはただただ無関心で、着目せずして生きられているだけかもしれない。
分からないんだろうなぁ。ここで記事を共有しておく。
とにかく外国のルーツを持っていると、大変なことばかりだ。私も同じだ、なんて安易に口にしないでほしい。
あなたは、外国人へのヘイトに晒されずに生きてきているのだから。
外国ルーツの子どもたち「日本の学校ではいじめられる」が定説!?|外国人“依存”ニッポン 共生社会の課題や問題を探る NHK
外国にルーツの子どもたち「いじめられる理由を教えてください」|外国人“依存”ニッポン 共生社会の課題や問題を探る NHK
これを読んでも、憧れやかっこよさを安易に語れるだろうか。私も小さな時にひどいいじめに遭ってきた。
そのいじめは無視を始めとする、殴る蹴るの暴行も含まれる。
自分が外国人の子どもという理由で、掃除の時間に箒の柄の部分が身体中に振り落とされ、みんなが笑っている。
私の足や腹を蹴飛ばし、「ガイジンの子ども」と呼ばれる。
教科書は破られ、机には大量の悪口が書かれ、物がいつもなくなる。授業中にゴミが飛んでくる。誰も助けてくれない。
それが私の学生時代の10年ほどだ。10年間、これに耐え続けてきた。
混血が羨ましいという人も居るけれど私からしたらを苦しくつらい体験を話した後に
「その経験があって、良かったね」「羨ましい」「私もそうなりたかった」
くらいひどい言葉だと想像もできないのだろうか。
うーん、でも、できないのだろうなぁ。出来てないから言えるのだろうと思う。
それに自分が言わない限り、ジェンダーのことと同じで、アウティングしないで欲しいとも思っている……これが、マイノリティであることなのだと思う。
自分の選ぶことのできない事実があるだけで、好奇の目に晒され、どれだけひどい目に遭うことなのか。「差別」がどういうものなのか少しでも想像してくれたら嬉しいなぁ。
相手はきっとなにも考えていないのだろうけれど、どれだけ不快なのかを想像してほしい。
世の中には本当にひどいことをする人、言う人が沢山居るのは事実なのだから。
当事者からエンパワメントされる
私は相手がハーフだと知った時に、同じサバイバーに出会えたような気持ちになる。海外で育った人に会う時も同じだ。
外国人の子どもに生まれることがどんなに大変なことか、肌感覚で知っている人とそうでない人は、全然違う。
だから私の付き合う人は、海外にルーツがあるか、海外での生活が長い人でないと難しいなと感じることも多い。
価値観が、圧倒的に違うからだ。
外国人として他国で生きることがどれだけ見えないヘイトに満ちているか、考えてみてほしい。
「では言わなきゃいいのでは」、と言われこともあったけど、なんだそれ。そういうことではないだろうとおもう。
セクシャルマイノリティと似ている。自分たちは選んで来れなかったではないか。自分のことを隠さなきゃいけないのは、つらい。でも話したら好奇の目に晒される。
それが同じハーフの子にはないから安心するのだ。その時に私は、胸が苦しくなるほどに、その人のしてきた経験を感じたりする。
そういう子に出会える嬉しさを、そんなくだらない冗談で、笑いものにされてはあまりに不快だ。
なんだかぐちぐちと書いてしまったけれど、ずっともやもやしていたこと。多様化が広がるのは嬉しいけど、それだけでは足りないように思う。
インクルーシブな社会を今後私たちは目指さなければ、いつかマジョリティを生きる人たちでさえもしんどくなる時が来る。
自分の中にある価値観を知っておくこと、知ろうと努力することは、いつか絶対に周りの誰かを助ける日が来るだろう。
あなたが発した些細な言葉に勇気づけられる人、逆に傷つけられる人が居るように。
私はこれからも自分の言葉の先を見届けていきたい。それがやさしいものであることを静かに祈りながら。