4. 「プロフェッショナル 仕事の流儀」で届いた3つの反応
納棺師の木村光希(きむら こうき)です。
だれかの大切な人である故人さまと、大切な家族を亡くしたばかりであるご遺族の、最後の「おくられる場」「おくる場」をつくることをなりわいとしています。
「プロフェッショナル 仕事の流儀」で届いた3つの反応
映画『おくりびと』の公開から10年以上経った、2019年初夏。
NHKのドキュメンタリー番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』に、納棺師としてはじめて出演させていただきました。
企画を打診されたとき、はじめは黒子の自分が出演してもいいのだろうかとためらう気持ちもありました。
それでも誤解されることの多い納棺師という仕事について、その「仕事の流儀」を伝える意義は感じましたし、なにより、生々しさのない日常で避けられがちな「死」の現場を伝えることへの使命感もありました。
「故人さまとご遺族にとって、最後の儀式がどんな意味を持つのか伝えたい。ふだん死を意識しない現代人にも、なにか感じてもらえるものがあるはずだ」
きっと社会のためになるはずだと考えてお引き受けし、密着されることにも覚悟を決めて撮影に臨んだ、はずだったのですが……。
数ヶ月に及ぶ撮影は葛藤の連続。正直なところ、撮影はとてもしんどい時間でした。
かなしみのさなかにいるご遺族を、世間に晒す。
ご遺族のことばや思いを、電波に乗せる。
これははたして正しいことだろうか?
何度も何度も自分に問いかけました。
いくら集中していても、本来いるはずのないスタッフや、手元をうつすカメラをふと意識してしまう。
故人さまにとって失礼ではないだろうか、それこそ「プロフェッショナル」としてあるべき姿なのだろうかと自問する日々。
何度も、「もうやめませんか」と言いそうになりました。
ご遺体が地上波に乗ることが信じられない気持ちもあり、オンエアも楽しみというより怖い気持ちのほうが大きかったかもしれません。
けれど実際に番組が放映され、視聴してくださった人たちからの反応が送られてくると、「出演してよかった」とこころから思えました。
驚くほどたくさんの方から真剣で切実なメッセージをいただいたのです。その声はおおきく、3つにわけられました。
ひとつは、「やっぱり、葬儀やお墓って大事なんですね」という声。
合理化がすすむ社会においては、必要性が疑われがちな儀式や形式。
けれど「もし自分が死んでもお葬式はしなくてもいいと思っていたが、儀式はむしろ遺されたひとにとって必要なものなんだと実感した」と、あらためて意味を感じてくださった方がたくさんいらっしゃいました。
もうひとつは、「大切な人をおくったときのことを思い出しました」という声。
ぼくが手がける納棺の儀式やご遺族とのやりとりを目にしたことが、それぞれの「おくり」に関する記憶を呼び起こすきっかけとなったようでした。
ツイッターのダイレクトメッセージには、大切な人を失ったグリーフ(深いかなしみ)をいまだ癒やせないでいる方から、たくさんの相談も届きました。
自分が生きている意味がわからない。
ときどき涙が止まらなくなる。
ただ話を聞いてほしい……。
一方で、「大好きなおばあちゃんを思い出して胸があたたかくなった」
「以前お世話になった納棺師さんが、こんな思いでお仕事されていると知ってうれしくなった」といった、ポジティブな気持ちを抱いてくれた方も多くいらっしゃいました。
こうした声を受け止めることで、基本的にはおくる時間までしかご一緒できないご遺族のこころの動きを知ることもできました。
また、「亡くなった方の存在は、時間が経っても人々の中にありつづけるんだな」とあらためて実感したのです。
そして3つめ。「どう生きるか、真剣に考えたくなった」という声です。
死に携る仕事をなりわいとするぼく、収録の数日前までは生きていたであろう故人さま、そして大切なひとを失ったばかりのご遺族。
こうした「非日常の存在」を目にしたことで、いまここに生きていることを強烈に意識した、と。
「みんな、必ず死を迎える」
こうしたことばは、誰しもが一度は聞いたことがあるでしょう。
知識としては持っているわけです。
しかし、意味を「理解」することはできても、「実感」するのはなかなかむずかしいんですね。
そこには、リアリティがないからです。
ただ、「知っている」からこそ、ドキュメンタリーというリアルをとおして「死」に触れたときにドキッとした。
そして、自分の生き方やまわりの人との関係、人生の満足度を振り返るきっかけになったのでしょう。
一方、納棺師であるぼくにとって死は「日常」。
とてもリアルなものです。
「当たり前の日々は決して当たり前じゃない」と理解し、痛いほど実感しています。
だから、この命を無駄にしたくないと思うし、よりよい生き方についても真剣に考えてしまう。
それが、納棺師の「職業病」と言えるかもしれません。
つづく
※本記事は、『だれかの記憶に生きていく』(朝日出版)から内容を一部編集して抜粋し、掲載しています。