芸術鑑賞療法
8/29まで東京都立美術館で開催されていた『デ・キリコ展』になんとか滑り込んできた。
イタリア現代美術を代表する画家の大規模回顧展。これは逃したくない!と夫に息子を預け上野へダッシュ。
デ・キリコの作品や展覧会の内容については別でまとめて書きたいのだけれど、今日は芸術鑑賞という体験で感じたことについて。
まずこれだけのまとまった時間(行き帰り含め4時間ほど)と距離で息子と離れるのは初めてだった。はじめてのおつかいに登場する幼児の様に、家を出てからも何度も何度も後ろを振り返っては息子の姿を確認しそうになった。
後ろ髪をひかれながら側にいれない寂しさと罪悪感を抱えバスに乗ったが、新橋で電車に乗り換える頃には楽しみな気持ちの方が勝っていた。ゆっくり美術館を訪れるのはいつぶりだろう。しかもデ・キリコ!無意識のうちにホームへ続く階段を一段飛ばしで登る。子供といると階段を一段飛ばしで進むことはほぼ不可能なので、出来る人は存分に一段飛ばしで踏みしめて欲しい。
そんなこんなで足取りも軽く都立美術館に到着し展示へと向かう。久しぶりに一人で何かに没入することがてきて本当に幸福だった。
普段自分は社会や家族に属する人間として何らかの役割をかかえている。例えば30代の、日本人で、女性で、母親で、配偶者で。役割はそれを担う要件があり(母親なら子の庇護者であること)、自分がそれを遂行していることを示す相手がいて成り立っている。そのため日常的にどうしても"どう見られているか"を意識せざるおえない。母親として私は今ちゃんとして見えているだろうか?30代女性をそつなくこなせているだろうか?そして特に家の外に出るとその視線は「社会」となって無差別に注がれる(自分もまた誰かに注いでいる)。
そういった数多の赤外線レーザーを掻い潜るような日々から抜け出し、"鑑賞者"という役割だけに没頭できるのが自分にとっての美術館という場所だと思う。
貪欲な視線を芸術作品に投げかけ、作品たちからの無言の返答に耳をすませる。生まれ持った、あるいは成長するにつれて付与されてきた/獲得してきた役割以前の、自分自身という受け皿になみなみ喜びを注ぐような体験。
役割以前の存在そのものである息子が側にいるからこそ、受け皿自体を満たすことの大切さが余計身に染みた(このコメントは母親っぽい)。
まっさらな受け皿を満たすものは、結局自分が持つ他の役割にもプラスに作用するはず。自分にとってはそれが芸術鑑賞であったという話。大袈裟にフツーのことを書きすぎたかも。でもフツーのことを大袈裟に感じられるのは良い場合もあるかもしれない。
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