音楽と身体性
身体性について考える
音楽における身体性といえば演奏行為
と、浅はかにも考えるのだけど
どうやら身体性というのはもっと奥が深いらしい
「身体」ではなく「身体性」
この「性」とは何か
意味を調べると、性質のことをさしている
身体の性質
腕だと、曲がるとかそういう理解でいいのだろうか?
運動などの実際に身体を使って何かするという場合は非常にわかりやすい
しかし、この身体性という言葉は様々な分野で使われる
哲学や心理学においても使われている
改めて、音楽における身体性を考える
一旦、演奏行為を外す
そうした場合、音楽の意味がかなりせまくなる
僕は自分の観点から楽曲における身体性について考えたい
さらに演奏行為を外すとなると、楽曲において身体性とは何を意味するのか
楽曲における身体の使用部分について考えた場合
・作曲
・演奏行為
・聴取
・見る
と4つの視点を持つことができる
ここで、それぞれの立場に分けた場合
・作曲=作り手
・演奏行為=再現者
・聴取=聴き手
・見る=作り手、再現者、聴き手
となる
そして、演奏行為を外した場合
作曲、聴取、見るの身体性ということになるが
聴取と見るについては身体の性質によるものなので、これも外す
結果、作り手における身体性ということになる
作り手の身体性とは何か
楽譜を書くにしてもコンピューターでの制作にしても、手は使われる
これはひとつの身体性と捉えることはできるわけだが、非常に安易で陳腐だ
では、それ以前におきる事柄として思考を挙げることができるのではないか
脳を使っているという点で身体性と言える
正直、ここが僕にとってまだ受け入れがたいことなのだ
思考を身体性と置いてしまうと、すべてにおいて身体性と定義することができるのではないか?
ここが僕の中で整理がつかないところである
とどのつまり音楽における身体性とは演奏行為のことなのだ
と言ってしまうと、それもそれで納得いかない
これは悪いループに陥ってしまっている
ちなみに、僕がこの問題にこだわるのには理由がある
博士論文の研究テーマであり、ライフワークとしていつか完成させたい論文の研究テーマでもある現代作曲家・川島素晴氏の「演じる音楽」について考える場合さけて通れないのだ
これが非常に難しいテーマだ
身体性について、自分の中で納得できるまでまだ時間がかかりそうだ
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