音楽を作るのは算数的思考だけれど、音楽を聴くのは国語的思考なのだ
音楽を作るということは非常に算数的思考によるものなのだが、いざ出来上がった作品は国語的思考によって聴かれているのだな思う今日この頃
算数的思考とはロジカル
国語的思考とはエモーショナル
と置き換えると良い(相変わらず回りくどいな)
音楽に限らず、何かを作るというのは算数的思考で
組み立てる作業そのものに感情はない
建築を例に出すとわかりやすいと思うのだけれど
土台を作って、その上に柱を立てていく大黒柱があった方が建物が安定する
というようなことは算数的思考によるもので
この土台の上に柱を立てることこそ愛情表現で、愛するあまり柱を余計に多く立ててしまった!なんてことにはならない
(あるかもしれないけど)
できあがった家そのものは、「家族が仲良く暮らすため」とか
「みんなが一緒に居られるようにリビングを大きくした」
などの意味を乗せることができる
これは国語的思考と言える
音楽の話に戻すと
作曲をする上で、音と音の関係や構成、構造を作っている時は聴かれることを意識をしているが感情が優先されているわけではない
しかし、出来上がった作品は、誰々のことを想って作りました
という方が聴き手はイメージをしやすい
作り手と聴き手のズレはここにあるのではないかと
聴き手というのは大抵の場合、国語で音楽を聴いているのだ
歌は歌詞があるのでわかりやすい
あれは完全に国語だし
そう考えると即興演奏なんてのはすごく国語的なものだな
ベートーベンなんてのは、ピアノの即興演奏が得意だったわけだけれど
(まぁ、すごい作曲家はだいたい即興もすごいのだけど)
そこで生まれたフレーズを算数的思考によって組み立てて拡大していったと言ってよい
ベートーベンの交響曲はクラシックの最高峰に位置するわけだが、一般的には「エリーゼのために」の方が良く知られているのは、まさに国語によって音楽を聴いているということの良い例の気がする
また、「運命」などの命題のついた作品はその他の命題のない作品に比べて知られているのもこれと同じだろう
これは他の作曲についても同じことが言える
さて、19世紀以降の音楽は響きに感情を乗せることが一般的になるわけだけれど、これは音楽における内容(構成やら構造)と意味論が同一化されてしまい、それが今日まで続いている
良いか悪いかという話をしているわけではない
ただ、作り手としてこういうことは意識的に理解しておかねばならないのだなと思ったわけなのだ
これまでの音楽は、内容と意味が同一化された状態だったが
これからはそれが分けられた上で同等のものとして扱われていく時代になる
つまり、音楽的な構造などの内容も理解されつつ、意味論としての感情表現も重要視された音楽の聴き方を若い世代はしていくだろう
という個人的推測なのだ
まぁ、若い世代のことは若い世代に任せておじさんはおじさん然としていれば良いわけだけれど、理解くらいはしておかないといけないな
という程度の話
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