音楽のダークサイド
音楽理論なんてものがある
まぁ、音楽に限らず理論やメソッドというものは何にでもあるものだ
しかし、こいつは厄介なやつで勉強すればするほど飲み込まれてしまうのである
僕はこの状態に陥ることをダークサイドに落ちると某映画にかけて呼んでいる
(この某映画は好きではないので、あくまで表現だけ借用している)
理論体系化されたものというのは、もっともらしく書かれているのでまさにそれが正義で何よりも一番なのだと錯覚する
特に勉強始めたての頃というのが一番危険で、周りがそれについて知らないと知ろうものなら得意げに語ってしまう
音楽においてコード理論なんてものは一番危険である
できれば僕は近寄りたくない
触るな危険なのである
このコード進行に行ってはいけない
この響きは変だ
音がずれている
だからなんだというのだ?
と、僕は思ってしまうのである
こういった感覚というのは後天的なもので成長段階で身についていく
すなわち、学習によるものなのだ
音楽をやっている人たちは、どこかの段階でこの理論を学習することになる
学習しない人もいるが、理論がわからなくても何かしらの形で音楽から触れることになる
学習しない人はさておき、学習した人というのはたちまちダークサイドに飲み込まれていく
問題なのはここからである
そこから抜け出せるかどうかが、その後の音楽人生を大きく左右する
と、僕は思っている
理論も含めた何かしらのテクニックや技術というのは無意識に使えるようになってこそ一人前であり、むしろそこからがスタートラインなのかもしれない
例えば、音程が狂っていることをひたすらに指摘をする人は、音程が狂っていることが本質的なことであるかどうかをわかった上で指摘しているのかが問題になる
ただ、音程が外れている
というのは愚の骨頂で、音程が外れていても「なんでか良い」ということがあるので、結果として作品にとってどれが良いのかを考えられないければならない
経験上、ダークサイドに落ちた人というのはどうもその柔軟性が欠けている人が多いように見受けられる
音楽というのは理論的にこうで、こういうものだから
こうでなければならない
そんなことはおかしいのだ
と、主張する人はもはや黒いマスクをかぶった暗黒卿に見えてきて
何を言ってもシューシュー言っているようにしか聞こえなくなる
こうなってしまった、こちらももはや話すらしたくなくなるのでもう関係が成り立たないのだ
困ったものである
そういった意味では、こちらもダークサイドに落ちているのではないかと疑ってしまうが、自分のことは棚にあげる
理論やメソッドは、世界共通でそれを知ることは共通言語を習得することと同じなので視野は広がる
しかし、それが全てなんだと信じてしまうのはいかがなものかという個人的意見
例えば、箸を意識せずに使える
フォークとナイフだって無意識に使える
ボタンを留めるのだって意識せずとも留められるだろう
すなわち、本当の意味で習得するということは、無意識に使いこなすことができて、臨機応変、変幻自在に操ることができるということなのではないだろうか
少なくとも僕はそう思っている
ソフイフモノニ ワタシハナリタイ
こうやって見ると大怪我してんな
ダークサイドに落ちるってことは、そういうことなんかな
まぁ、いいか