滝本晃司さん。雨の日の午後。風の谷のナウシカ。 そうしてやっと…いのちの海底(うなそこ)から洋上へと浮かびあがるいのちと性愛のありか*
ナウシカのこの言葉たちが好きだ。
ほんとうに好きだ。
いまここのいのちのいとなみにおいて。
切実に切実に身を明け渡してそう思う。*
2021年6月20日(日)。
滝本さんアピア冒頭曲。雨の日の午後。
ひそかにずっと聴きたかったこの曲。初めてこの曲で泣いた。
当初の5カポから3カポへ格段に下がった滝本さんの歌声の低音の深まりと、アピアの極めて高音質な配信音源の驚きのまま。いのちなる言葉に打たれて。こんなにも底深くいのちの深みに到達する曲なのか、と。
アルバムバージョンの甘やかな温水のエレキが牽引するうるうるしき官能性に対し、ライブバージョンの極めて静謐な官能の序章とはじまり。
本当に本当に静かにひそやかに彼方から訪れくる雨になぞらい、君とぼく、ふたつのいのちがあえかに息づき、そっと花ひらくその姿がこんなにも美しすぎて(泣)…
そうしていのちを使い。みたして。乱して。やっと。
わたしたちのいのちはいのちの海底(うなそこ)から洋上へと浮上できるのだと。
それほどまでにあえかなわたしたちの。
みずなかに透明に囚われ鎖されゆらゆらただよい続けるわたしたちの。
いのちのありようについて。
滝本さんの歌と音の、限りなく優しくいとおしくその深みまで手をのべゆくひそやかな筆致に泣いた。*
薄氷を踏むようにそっと。
限りなく丁寧にそっと。
壊れてしまわないようにそっと。
ただひとりのそのひとの肢体に分け入り。
美しきいのちに分け入り。
みたして。乱して。
いのちを使う。
さあああああああああ…っとさざなむその午後の雨なか。
見つめ合い、見つめ合う。うるんだ裸身のふたりが見える。
そうしてそのひととふたりその午後において。
ひそやかにみたしあい、乱れあい、いのちを交わす刹那。…
ゆれるゆれる。
明滅する明滅する。
あえかに明滅する。
ここにあるいのちにおいて。
濡れて濡れて。束の間に濡れて熱せられて。
いのちに肉薄するその歌とギター。
この地上のわたしたちなるからだにおいて。
いのちはこんなにもさざなみ。さざなむ。
そうしていのちを使い。いのちをつちかい。やっと…。
いのちの深みまで到達していのちの洋上へと浮かびうるいのち。
とても静かな性愛の情景。
ただひとりの綺麗な君と。重ね合わさるふたつのいのちの律動すらも。
さざなむ雨と同化してその曲のうつろいと連動して、終わりへと閉じていくまで。*
そう。上記記事にも記した通り。
滝本さんの音楽がこんなにもからだの音楽でもあること。
さまざまな性愛。その多面体の表象として、性をめぐる滝本さんの楽曲もほんとうにさまざまに存在するなか。(みずいろ、暑い夏、落下、カケラ、窓辺のスケッチ、テーブル、ピンク色のめざめetc)
ライブバージョンの雨の日の午後は、もっとも美しく静謐な雨の情景の。
さざなむ雨の静けさの中に束の間に浮上して炎えゆくふたりのいのちのいとなみにおいて。その不確かで壊れやすきいのちのあやうき明滅とかがよいにおいて。ほんとうに最高の美しさと繊細さといとしさで性を彩る曲だと思った。
そしてじつは今回のこの滝本さんの雨の日の午後の引力ゆえに、
私の中に強烈によみがえり浮上してきたのが先のナウシカの言葉なのだ。
滝本さんとナウシカ。位相も状況も異なりつつ、
それでもなお両者を結びつけてやまないものこそ「いのち」だ。
いのちのあえかさと強さをとても繊細にやわらかく抱きしめ深く深くいとおしむ。両者は間違いなく同じ視座でいのちなるものを見ている。それはいまここに生きる私自身のいのちの反照でもある。
そうして、はかなく。力強く。くり返しその朝へと生き続ける者として。
いのちをめぐる両者が、今生ただひとりの最愛のそのひとの歌と音とともにもっとも深く強烈に私の中で結び合い共振し合うことが、本当に本当にうれしかった。*
それにしてもこの曲をはじめとした、それぞれの滝本さんの曲の口火の切り方というか。世界や空間のさわりかた確かめかた。
実際にご自身マッサージするのがとてもお上手と伺ったけど、ほんとうによくわかる。
はじまりの1音目からとてもやわらかく繊細に世界や対象(この場合は楽曲世界)の姿かたちを察知して、もっともその対象にふさわしき力加減や指先の強弱を駆使しつつそれぞれの旋律や曲調にふさわしき音楽世界を構築していく。ほんとうにそんなふれかたで。
そういう意味でもやっぱり凄く凄くからだの音楽である滝本さん(泣)…
そうして私自身も優しくやわらかく滝本さんに護られ、ふれられる感覚。
だからこそこんなにも深い安心と安堵の繭の中にあたたかく安らいでいけるのだと。
そしてさらに、雨の日の午後の「笑いかけた君の顔をずっと待ってる」という歌詞に登場する「笑いかけた」という言葉。
私はずっと、君がぼくに笑顔を向けてくれたという意味で聴き続けてきたけれど、今回のアピアではじめてダブルミーニングになりうる言葉だと気づきはっとした。
すなわち、もうひとつの意味として「笑おうとしてやめた/笑顔を作りかけてやめた君」とも取れる言葉であること。
そしてむしろこちらのほうがストレートに笑顔を向けた君より、いっそう印象深く君がぼくに向けて残した一瞬の表情の余韻が美しく持続し続ける言葉であること。
さらにこの歌詞が「それはきっと終わりのない点滅」という言葉に接続されることを思うと、なぜ君は笑うことを停止したのか。永遠に笑顔未満の君がぼくの中に明滅し続ける感じで…。
ここでも滝本さんの一瞬を切り取るまなざしの細密さ繊細さと、点景される君の美しき印象深さに驚く。ほんと凄い(泣)…
そして今回のアピアの極めて高音質に高められた音源だからこそ、この曲の細部に至るまで息づくいのちのすべてを緻密に繊細に掬いとり捉え尽くすことができたのだと。いまもその音の示現性をありったけのクオリティで体感し続けた素晴らしき予後にこの身を疼かせつつ、心から身体からそう思う。
あらためて同じ曲であるもかかわらず、これほどまでアルバムと分化されるライブゆえの音楽異聞として。
滝本さんの音楽の奥深さ素晴らしさにいまここの私として出逢えたしあわせと、いまここに横たわるいのちの時間の静謐さがいとしい。
さざなむいのちに掬(むす)び。
さざなむいのちに掬ばれるいのち。*
(2021年8月15 日ツイートに加筆、再構成)
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◎アルバムバージョンに近い2016年10月/広島ヲルガン座「雨の日の午後」バンドバージョンはこちら(奥野も遠征し映像に写る奇跡に感謝( ; _ ; ))
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