徳川光圀が創建した笠石神社
笠石(かさいし)神社は大田原市湯津上(ゆずかみ)430にあります。神社の鳥居の前に「日本考古学発祥の地」の石碑が建っていて、これがこの神社が創建された由来を物語っています。笠石神社の名前の由来は、文字の刻まれた石の上に笠のように石を載せているところから、この石碑が「笠石」と呼ばれ、それが神社の名前になりました。笠石神社の祭神は那須直韋提。那須国造碑が御神体になります。
笠石神社へのアクセスは、那須塩原駅から大田原市営バス雲巌寺線に乗車し、途中の黒羽で黒羽佐良土(さらど)線のバスに乗り換えて、「笠石神社交差点前」下車すぐです。
神社の創建は元禄5年(1692)ですが、それより16年前の延宝4年(1676)、下野国で水戸藩領であった武茂郷(むもごう)小口村(こぐちむら)(現▪︎那珂川町小口)の庄屋▪︎大金重貞(おおがねしげさだ)が、旅僧の円順から「湯津上村(ゆづかみむら)に古い碑がある」と聞いて現地を訪れ、この石碑(那須国造碑)に刻まれた文章を調べて『那須記』という本にまとめ、光圀に献上しました。湯津上村は水戸藩領ではなくて旗本の知行地でした。光圀はこの石碑は那須国造の墓ではないかと考え、この土地が藩領でなかったため折衝を重ね、貞享4年(1687)に佐々宗淳に調査を命じました。石碑の下からは何も出土しませんでしたが、佐々宗淳は石碑を修繕して、雨風による風化を防ぐために鞘堂(さやどう)を建てて石碑を収めました。さらに宗淳は元禄5年に、石碑の近くにあり、那須国造のものと伝承される侍塚(上侍塚古墳と下侍塚古墳)を発掘しました。この発掘の責任者も佐々宗淳で、発掘前に「被葬者の眠りを妨げることを謝する」意味で丁重な儀式を執り行い、出土品は全て図面に記録。作成後、元通りに埋め戻し、松を植えて墳墓の崩壊を防ぐなど、学術調査としての最大級の配慮がなされています。そういうところから、「日本考古学発祥の地」との石碑が建てられているということになります。
この石碑の存在を徳川光圀に知らせたのは、当時水戸藩領であった武茂郷小口村の里正(りせい)の大金重貞ですが、武茂郷というのは、那珂川を西の境界とし、北を固田(かただ)荘と接する合併前の黒羽町南端から旧馬頭町にかけての地域にあった武茂荘が元になっています。『和名抄』には古代に那須郡武茂郷とあり、これが荘園化されたと考えられます。『下野国誌』には「武茂庄十余郷」とあります。小口村は1889年(明治22)町村制施行により、馬頭村(ばとうむら)、健武村(たけぶむら)、矢又村(やまたむら)、和見村(わみむら)と合併して那須郡武茂村(むもむら)となり、さらに1891年(明治24)に武茂村が馬頭町となって町制を施行します。そして平成17年(2005)に小川町(おがわまち)と合併して那珂川町(なかがわまち)が新設されました。那珂川町には鉄道の駅はなく、最寄りの駅はJR東日本の烏山線の烏山駅になります。烏山駅は那須烏山市(なすからすやまし)にあり、この駅から那珂川町コミュニティバスが運行されています。