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「魔女絵の物語 魔女をめぐる図像の歴史と変遷」は役に立つのか

絵がすき。描くのも見るのもすき。
絵が嫌いな人はいないと思う、でも人は絵が好きなことはけっこう隠して生きてると妄想している。
理由はなんとなく、絵はこうまんちきなんだと思う。
絵画について話すのは難儀だ。聖書の知識がいる宗教画、印象派、ポスト印象派、日常の会話に溶け込ませるのはむずかしいし、きちんと表す知識がない。

絵画に関する本は読めば読むほど、教養のなさから頭が硬くなる。
シュルレアリスム・キュビズムなんて特設展がくると「どれどれ」なんて思うが口にはしない。
ロックンロールのジャンル分けなんてシットだよね、と思いつつ絵画については何かの枠組にはめないと、言葉にすることすら難しいと感じてしまう。言葉にしようとすると途端にこうまんちき、になってしまう。
作者で好き、も曲者だ。ピストルズとラモーンズは聴き間違いはしないが、絵には額縁がないと、ルノワールをルノワールにすることができない。

アートは日常のどれにも繋がっているのに、好きさを表現する言語があまりにも乏しくて、ただ、なんとなく好きを言葉にできないから発露がないのだ。
ただ、なんとなく好きをシェアすることなく死んでしまう。

道を歩けば政治的なことだらけなのに、知識がないから政治の話はしない、的な。
ポリティクス、ここ数年で思うのはポリティカルコネクトレスという言葉がほとんどの場合で、ほとんど意味を失っている瞬間を何度も目撃している。関係ない話のようで、アートの文脈で目撃する瞬間が多いから差し込んでみた。

魔女絵の物語

人はみんな絵が好きなことを隠して生きているという妄想、その理由は枠組への教養の乏しさという妄想の重ね合わせを展開してきたが、堂々と表現できる絵画の特徴がひとつあると思う。モチーフだ!
猿が好き、キリンが好きに理由や表現はいらない。

わたしは、枠組では言葉にできないが、モチーフであるなら話は違う。
宗教画ならマグダラのマリアが表現されていれば嬉しい。もの悲しくて最高だ。

好きな小説をことばにするとき、文体の好きさは切り捨てて話すことしかできないけど、ストーリーなら別だ。

魔女がモチーフの絵画もすごく良い。

特にサバトがモチーフになっていれば最高だ。レイヴだ。
悪魔を動機にすっぱだからで躍る。こんな楽しそうなフェスはない。参加したい。
サバトの絵画は怪しくて、重厚でカッコいい。
余談だけど、アニャ・テイラー=ジョイが主演の映画「ウィッチ」のラストが、Witches going to their Sabbathすぎて、感激してしまった。

いずれサバトに赴くアニャ

先週スケッチブックを2冊買った、ひとりでこそこそ楽しもうと思う。
自分が自分のためにJOYのための絵。
親愛なる人へのコミュニケーションのための絵。これらは別物だし尊すぎるということは付け加えておきたい。

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