見出し画像

【聞き書き5-1】鉄穴流しと暮らしをいまに伝える。嵐谷さんのお話

 今回は、奥出雲町の鳥上地区にお住いの嵐谷さんにお話しを伺いました。たくさんのお話を伺いましたので、複数の記事に分けて掲載します。今回は、たたら製鉄の原料を採取する技術「鉄穴流かんなながし」についてのお話しを掲載します。鉄穴流しについての説明は、こちらの記事をご参照ください。

 名前は嵐谷勝義、昭和14年生まれです。大台に乗って80歳になりましたけん。ずっとここの鳥上に住んでいます。はい、ずっとここです。兄弟は三人ですけどね、一人は近くに、ひとりは高知のほうにね。孫ですか、孫よりひい孫のほうがようけおりますけんね(笑)

鉄穴流しの話

 鉄穴流しは、わたしが子どもの頃はまだしてましたね。一緒に手伝ったけん分かります(笑)炭焼きなんかも手伝ってね。やっぱり農業が忙しいときは炭焼きができないので、主に鉄穴流しは冬にしていました。砂鉄採りも冬ですね。父親がそういう仕事をしておりまして、私も多少は手伝いはして。ずっとというわけではないけど、今でいう中学校卒業するまでね。

鉄穴流しの当時の様子

 重労働です。まあ道具が現場にありますので見てもらいましょう。そういうの使って山を崩して、砂を流して、それでまあここら辺から山を崩した分をあの入り口のあそこで砂と砂鉄と分けてね。

低くて固い山ほど危険

 数珠石ってわしらは言うけど、あれが飛んでくると怪我しちゃいけんと心配してね。一番危険な山ですよ。たんびにこう数珠石にやられる怖い山です。山は3mくらいと低いですが。背が低い山ほど、戸板返しっていうのが起きてね。高い山は今から落ちぃぞって山から指令が出るけどね。低い山ほど、固い山ほどいけん(危険)ですわ。わたしも分かっちょっても1・2回でなく何回もやられましたよ。

 実際の山は狭いですけんね、後ろも急だし、木なんかも積んであって中々逃げられなくてね。命が惜しくないわけじゃないけど、採ろうとするもんだけんね。あんまり他の鉱山では死んだ人はおられんけど、ここの鉱山では3人死んでね。わたしたちが生まれる前からね。急ですからねこわいですわ。

選鉱場の様子

今は車で1時間、昔は牛で泊りがけ

 砂鉄は鉄を作って、まあ昔は野だたらいうて、どこでも鉄を作れた。それを安来まで運んで、船やなんかであちこち輸出しとったもんらしいですね。そういう中で、今頃みたいに車がないだけん、その牛や馬におわせてね、牛とか馬が砂鉄を運びよったんですわ。 

 今は車で一時間の安来まで、当時は泊りがけみたいなもんですわ。昔はね、ここから向こう(安来方面)に抜ける道があるんですよね。山道があってね。今は使わない道ですわね。

 (地図を広げて)今がここ。点々で道が書いてある。実はここ昔はちゃんと通れてた。だけん、ここ山を越すともう鳥取県。そしたら隣りが安来市ですもんね。そうです。ここらへんの山を崩しました。どっこもね。まああの鳥取県日南町なんかもねえ、そこからこう島根県ずっとね。

嵐谷さんに地図を使って山を崩した場所を教えていただいた

 鉄穴流しの時期

 鉄穴流しをする時期は、彼岸から彼岸まで(秋の彼岸から春の彼岸まで。9月から3月頃)は、あの山をくずして砂鉄とっちょった。

ー嵐谷さんの家も多分鉄穴流しで崩した後に立ってるんですね?

 ここね、うんと…100なんぼくらいになるかな、120年くらいなるかな。ここへ上がって、おじいさんが山を崩して田んぼ作った。まあここら辺の田んぼはほとんど鉄穴流しの跡に出来てますね。今のね、棚田ぁ言って田んぼができたのは全部ああいうかっこで、鉄穴流しした砂でそういう田んぼ作ってます。

ーおじいさんも鉄穴流ししててお父さんもしてて、ご自身も鉄穴流しされていたんですね。

 はあ、多少はやってることがあるけん。そういうことで子どもに伝えるものを作ってましてね。全然分からんとね、なかなかどげしていいか分からんし、道具もなかなかね。(ここには道具も揃っています)

鉄穴流しに使う道具。左から、エブリ、洗鍬(アライグワ)、柾鍬(マサグワ)


道具を使って実演してもらいました

-鉄穴流しはいつごろまでされていましたか?

 私は中学卒業までだけど、鉄穴流し自体はまだまだやっていた。えーと昭和47,8年ごろまでやっとったかいな。だけん、そのごろがもう最後でなかなか危ない仕事だけん、もう最後はあの火薬で発破でもうバーンてね、山を崩しました。

嵐谷さんに鉄穴流しの跡地を見せていただいた

次世代に伝える、子どもの鉄穴流し体験

 鉄穴流し体験場の入りがけのところに、砂と砂鉄を分ける池を作っております。どうして(どうやって)砂鉄が取れるのかっていうのをね、孫や周りの子供たちに体験させています。山の上のほうを削って、流して、今はあの川に向けて砂が流されへんで、下にため池があって、ため池にいったん止まって、水が出るようになっちょうよ。それで一日流すわけでなくて、一時間くらい水を流して。子どもに(選鉱場も)体験させてます。

 子どもも、まあすぐできます。教えてやってねえ、まあ重たいだけん、あのウチカ(打ち鍬)ゆう、あの鍬なんかは5キロあるけどね。あれを振らなきゃいけんね。小学生は“よっこらしょ”と持ち上げてねえ、まあそれでも、昔はこういう道具でやっちょったよっていうのをね知ってもらうために、小さいのをつくったらいいかなあと思ったけど…まあ、あれ(本物の道具での体験)がいいかなあ..。そんなにどんどん山を崩して流すわけじゃないからねえ。

鉄穴流しの体験をしている様子

 子どもがどうやって来るかですか?あのバスがずっと近くまで上がりますけんねえ、バスで来て、それからシイタケ狩りもそうだし、鉄穴流し、それからそこの下の炭焼き小屋、全部バスで小学生や幼稚園なんかは来られます。だけん、今はすぐだ、町内だいうてもねえ。遠いとこは、阿井の方からも来ますけんね、もう今は幼児園はどっこも地区の子どもも全部だけんねえ。

 今の4先生の子が卒業すりゃ鳥上小はおらんようになる。旧横田がね、馬木、八川、鳥上、仁多がまだどげなるかわからん。だけん鳥上があげな具合だけん。鳥上小は統合されるから、今は横田の小学校にも体験してもらってね。去年からあげだった(去年からそうしている)けんね。

 (いまの教育長が一度見に来られて素晴らしい活動だと言われたと聞いてますけども)いまの横田の校長先生もこられて、去年は6年生と4年生が来てね。去年は6年生25人、4年生が16人。いっぺんに来られると、年寄りが腰が痛ぇってね。みどり会の会で教えてやってるね。

 みどりの会は、鉄穴流しを伝える活動をしている任意団体。会員は、今年はちょっと増員してね、17人。いままでは12人でね。うん、その新しい人達はまあ若い。元自治会長をやめられた人とかね。だけん、このメンバーは、県道ハートフルロード6.2キロの草刈りだとかやっちょお。6月に一回やって、秋にもで、年に2回ほどね。

砂鉄を含む花崗岩をじっとのぞき込む
子どもの体験用につくった選鉱場
磁石についた砂鉄を触らせてもらう
体験させてもらいました!


「昔は車がないけん、追い手を頼んで牛馬市へぞろぞろ行きよったけんね」

ー牛で砂鉄を運んでいたとのことですが、牛は飼っていたのでしょうか

 当時は牛がたくさんいてね…。ここで繁殖、仔牛を産ませてね。今はうちには一頭だけ。こないだ(その牛の)子は競りに出したけどね、親が一頭います。

今は1頭だけ飼っている

 一番多い時は何頭だったかかね?ちょっと記憶があいまいだけども..まあ、何十頭とね、昔はやっとられた。

 それでここら辺で、お爺さんぶは博労いって、牛をようけ買って、山へ放して。それで売るときは牛を連れて出て、横田牛馬市やな(牛馬市のような)市があって、そこで牛を売って、売れんのはまた、出雲の方へおいていったりしてね。昔はぶらりと(時々)。あーいう博労さんがいたね。

  あの、追い手を五、六人の頼んじょうでしょう?、まあ車がないけん、牛は人間(追う手)が連れてでるけんね。横田の市場までは追うてでなきゃいけん。牛が追い手についてぞろぞろと歩いてね。そのころは、今は永生クリニックがあるあの近くのほうに横田の牛馬市があったの。今は宍道でね。当時は横田の市場まで行ってね。今頃は車だけどね。(当時は)車がないだもん(笑)

ー当時はぞろぞろと連れていくほど牛を飼っていたということですね

 うん、まあ一日ひなか(日中)もかかれば横田までだもんね。それで横田で何日も牛馬市があって、これで今みたいにあのせり場でパッパパッパこう電光掲示板出てやるもんでなくて、全部袖の下でね(笑)

 牛がいくらか?あの頃はどちらっかちょうとみんなは覚えんですねえ。(牛がいくらくらいかは全部は覚えていないですね)。市がもう何日から何日までいってあるだけ。それに合わせて、お客さんが買いに来よる。県内や県外からね、来られよったみたいです。

ー横田の牛馬市はいつごろまであったのでしょうか?

 いやあ、あげなことはわからん。(昭和15年の牛馬市の写真がありますね。昭和15年もやってたみたいですね)だけん、だいぶあとやね。牛馬市にぎやかだったからね。牛も今頃おらんしね。

昭和初期の横田牛馬市の様子


炭焼きやシイタケのお話などは5-2に掲載いたします。(つづく)

【聞き書きを終えて、感想】

松本ともこさん

 嵐谷さんのようにマルチになんでもできることを真の”百姓”というのではないか、そんな木がしました。80代とはとても思えないしっかりとした足取りと肌つや。そしてシイタケや牛や鉄穴流し体験の提供などほんとうになんでもご自分で創られている姿に、1人の人間としてのパワーの圧倒的な凄みに圧倒されました。現場も見せいただきとてもわかりやすくお話いただきありがたかったです。ありがとうございました。

久保田れいなさん

 お話を伺った後に、鉄穴流しの体験場や、牛小屋、炭焼きの小屋、しいたけの木などを実際に見せていただきました。多岐にわたる業務をこなされていて大変そうにも思えましたが、それらについて、歩きながら説明してくださる嵐谷さんの背中は生き生きして見え、印象的でした。鉄穴流しの鍬は、想像以上に重く、山を崩すためにはかなり体力と根気が必要であると感じました。鉄穴流しが、地域をあげての仕事であった理由のひとつがここにあるように思えました。ツアーに参加したかのように、ひとつひとつ見学させていただき、炭や木酢液、しいたけなどのお土産もいただきました。ありがとうございました。

綾部みさきさん

 嵐谷さんのしいたけ狩り体験に参加した小学生がその日からしいたけが大好きになり、原木しいたけしか受け付けなくなったという話が印象的でした。
 その時のことを嬉しそうに話す嵐谷さんの表情や家に飾られた小学生たちの感謝状も素敵でした。私たちは鉄穴流しの体験もさせて頂きました。器具が重くて振り上げるにも精一杯でしたが、より当時の人々の仕事の大変さや体力の必要性を感じられたと思います。
 もちろん、苦労もあったでしょうが季節に応じた仕事をする、その土地と共に生活するということの魅力を感じられました。貴重な体験をさせていただき、ありがとうございました。

嵐谷さんの炭焼き小屋で


いいなと思ったら応援しよう!