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 The taste of tea 11・無碍自在.思いのまま

「茶境」は決して、いつも四畳半にだけ存在してくれているものではない。

わざと趣きを作り喜ぶ茶室の外に、

主客共にその趣きというものに、捉えられた天地から逃れて、

わざとなんの趣きを作らずそこに真の趣きがあり、

わざとなんの働きも営まず、そこに真の所作があるというようになれば、

茶席や茶会を超越して、【和敬清寂】と分けへだてない、真実の対象が、随時、随所に見えてくるのである。

紹鴎は、花紅葉のように、かなりの壮麗(規模が大きく整って美しい)を極めた書院臺子(しょいんだいす)の物欲、物塵の状況から、その眼を転じて、浦の苫屋のような、無一物の世界に、本当に尊い趣きがある事に気が付いた。利休はさらにこの花紅葉(春秋の美しい自然の眺め)を埋めてはててしまい、その跡形もない冬枯れのさみしい世界に、春の陽気を迎えた、雪の間の草が、ポツポツと萌え出るように、所作の中に真の心が、ひらめく事に、気がついた。外にのみ専念することを求めて、内にある真実の味を忘れた人々に裏の苫屋の「さびすました」間にそなわっている自然の趣きを感じさせられ、「力を加えず、真なるところ」のある、道理を気づかってもらいたいという尊い努力をしたところに「わび茶」の本領があるのである。


「茶室」はただこの本領(本来の持ち味)の真理を得るためのきっかけに過ぎない。

紹鴎の「花紅葉を知らぬ人の初めより、苫屋にはすまれぬぞ」である。(南方録)

紹鴎は歌を学び、式法を学び、また禅を学んだ末に、苫屋の秋の夕暮れに「趣き」を認めて、ここにその新天地を開いき、これを利休に伝えた。

浦の苫屋とは、単に、貧しい乏しい住居というわけではない。

形の上では乏しく見えても、品位と優雅とを加えた、清く、明るい住居のことである。この気持ちに至るために切りいったという一筋の道が、利休によって大成させられた、わび茶の道である。利休は水を汲み、炭をつぐような、ささやかな事にも心の奥の鏡にかけてみて、これを浄化し、趣きと働きとの内外二面の本心を込めて、私心だけでなく手本が相手に伝わるように示して、真実にして、光のある生活の方へ人を導こうとしたために「式」を立てて、「法」を作り「理」を伝えた。

なれば、茶を学ぼうとするものはまずその「式」に従い「法」にものっとり、その「理」に叶うのも、練習に練習を重ねてから、「法」を離れても「理」を捨てても、それでもいいという境地に進まなければならない。

結局、「心の欲求するところに従って、矩(道徳)を越えざる」という気持ちに達するのを目的にしなければならない。

この道を探す世界に入っていれば、物欲のわずらいや形骸する労力、二つは消え果てて、きちんとこれを受け入れれば、これを扱う自分に常に力があふれることを覚える。


どんな境地に向かっていっても、「今・ここ・我」ということを忘れず、【和敬清寂】の自らの働きによって、所作になんのためらいもない。「法」に従えば、ゆとりある様子として一糸乱れず、「法」を破ればとっさの働きによってさらに新しい境地を見つける。

無碍自在(思うがまま)「白雲の長空飛ぶ」(禅語・邪魔するもののない様)のようである。

これが真の自由である。

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