The taste of tea 5 自己の姿
江戸中期の雑誌に、
葛飾の権兵衛という
面白い話がある。
ある年の春、権兵衛は、太太神楽(だいだいかぐら・関本神社に古くから伝わる神楽)を奏でようとして、
村民13人を引き連れて、
伊勢の大廟にお参りをした。
世話をする神職の何某、
山や海の珍味を出し切って遠くから来た客に【馳走】(もてなし)してから、
さらに薄茶をお出ししようとして茶室に案内した。
権兵衛を始め13人が席につくと、神職はていねいに挨拶をして、
茶器を運び出して、心を込めて、茶を点て、
権兵衛の前へ出した。
茶道の心得など少しもない農夫のことなので、
その気苦労は大変なことである。
とても気後れして、どうして良いのかわからない。
茶は飲みまわすものと、聞いてはいるが、
これだけを13人で飲みまわすことはできない。
今さら、ここで聞くのは恥ずかしいとあれこれ迷って決心がつかぬまま、心の中で思い悩んでいると、
世話役の神職は、先に出した、お菓子を権兵衛の前に差し出し、
さあ召し上がれと言ったので、
権兵衛は、ハッと心を取り直し、
そのはずみで思わず、茶碗を取り、ぐっと一息に飲み干し、
茶碗を前におろしてホッと一息をついた。
神職は茶碗を取りもどし、これをすすいで、また茶を点てて権兵衛の前へ差し出し、
さあ、菓子を取りたまえ、と言ったので、
今回は、菓子をとって食べ、
また茶を残らず飲んで、茶碗を前に置いた。
神職は、また茶碗をとって、
前のように点て、権兵衛の前に差し出した。
権兵衛は恐れ入って、私はもうたくさんだ、と言った。
ならば、次の方にお送りしてください、と言われて、ハッと気がついた。
権兵衛はようやく、13人を思い出した。
この順で、それから各自、一椀ずつ、頂戴して、引き下がり、
座敷に帰って互いにその心労を語り合い、ま
たもや茶の接待があっては大変だからと、別れの挨拶も早々にして帰国した。
こ
の時の権兵衛の気持ちを味わうと、これは権兵衛の話ではない。
我々の経験にもこの権兵衛のような場合がなかっただろうか。
こういう境地に置かれたときふと気づいて、
自己の姿をつくづく眺めたなら、
この権兵衛のように、他人をどう導いてこの場合どのように処置させるかどころではない。
そこにはただ、心が転倒して、手足が縮む、惨めな自分の姿を見出すことだろう。
実際人は自己の姿を明らかに、己の心を鏡にうつされるような境地に立つ時、
行動に不安を感じる。
たとえば、貴人だとか、高徳の人だとかの前に出るとブルブルと武者震いをしたり、
おどおどして冷や汗を流したりする。
幼い時から、練習に練習を重ねた三度の食事の動作でさえ、
あらたまった席に出ると、ご飯茶碗の持ち方、箸の置き方など、
一つ一つの動作が問題になる。
そのほか、おじきの仕方、下駄の脱ぎ方、あゆむ足音に至るまで、
独居の時の自分のとりすました考えから言えば、どこへででも自分はこれで充分だと思っていた起居動作に、
充分ではない、あるものが存在することがはっきりする。
赤松則村(武将)が友梅和尚(雪村友梅)を招きに行って、
帰るとき「私は千軍万馬の間を駆け回って、それほど苦とは思わなかったが、
今日友梅和尚の目の前では、身体中汗が流れた」
と述べている。
「和やかなお顔で思いやりのお言葉でお話しする老和尚の前で
なんで、冷や汗が出たのだろう。」と言っている。
こういう不自由から逃れて、
自由の世界で遊ぶためには、自分の心の姿を時々鏡に映してみるのがいい。
結局、静かな気持ちで、自分の心の持ちようや、
動作が道に叶っているのかどうかを
調べてみるべきである。
礼に、「頭容は、直
目容は端、
口容は止、
手容は恭
足容は重気容は肅(しゅく、つつしみかしこまるさま。おごそかなさま)。」とある。
自分の姿ははたして、これにかなっているのであろうかと。
ふすまの真の扱いに、序・破・急三段(伝統的に用いられる構成方法)の呼吸がある。
【序】というのは、最初少しばかりを、ゆったり開くことである。
礼に「常に上がらんとするときまず声を上ぐ」 と言ってある、
室内の人に、「私は今、来て入ろうとしてます」ということを伝える、軽い一手である。
【破】は、ふすまを開く、本体である。
戸の重みがかかって、扱い良い所まで、手を下げて、通るのに充分なだけ押しひらくのである。
【急】は物の終わりをそのままにしておかない気持ちを込めて、
破の大きく強い手を軽く優しくして、開き収める最後の一手である。
【序】の姿には、【和】の心が、【急】の姿には、【寂】の心を宿すことだ。
だから、閉じるにあたって、この【急】の一手から出る音は、【寂】を伝える、貴い響きである、
ある日、信長は、蘭丸に「障子を閉めて来い」と命じた。
そうしたら、障子は閉まっていた。
これでは閉めようもないので、
蘭丸は静かに音をさせないように少し開けて、
軽い音とともに締め切って、座りなおした、という話がある。
閉め切っても音のしないような閉め方では閉め切った、という【寂】の気分は出ないのである。
小姓(付き人)でも蘭丸はさすがに
よくとっさの間にもこのことを忘れなかったのであった。
客を玄関に見送って、客がまだ、門を出ていないのに、響かす、戸の音は【敬】をかき、
また【寂】もかく。
自分の立ってる姿に心遣いができない、ひどいい合図の音である。
部屋に入る時は壁の方の足を先にする。
このことを「客を受けて入る」ともいう。
この一足は、自分と客とを結びつける貴い一足で、
またその境地に挑んで
気後れしやすい自分に、心のおちつきを与える足元である。
宮本武蔵が、親の仇を打とうとする、
十歳くらいの子供に、短刀を持って、敵を刺すことを教え、
「その場になったら仇を見る前に、まず足元をみなさい。
もし、足元からアリが這い出てるようなことがあれば、必ず勝ちます。」
と教えたのは、
その一瞬にも自分の姿を省みるようにと言ったので、
これによって自らの心の落ち着きの気持ちを体験できるということである。
静かな、茶室にいて、【賓主応接】の体を学んで。【彼此談論】の和を習う時、
自分の姿を【和敬静寂】という、心の奥の鏡にかけて、
その自分のひどさを改め、様々に変化することに、向かって乱れない慎ましく【徳】がある心を磨く。
こうして、得た姿こそ
ゆったりと厳かな姿の
自由の天地を行くのにぴったりの自分なのである。
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