「さよなら絵梨」と藤本タツキというフェイクドキュメンタリー
「さよなら絵梨」を読んで、藤本タツキファンの自分は例に漏れず言及をガマンしきれなくなったので、note初投稿することにしました。この文章は「さよなら絵梨」に対する自分なりの考察だし、批評みたいなものです。長い文章を書くのは初めてなので、わかりづらくてめちゃくちゃなところがありますが、目を瞑ってもらえると助かります。
早速本題に入る↓
「さよなら絵梨」は何だったのか?を一言でまとめると、
「藤本タツキという"フェイクドキュメンタリー"を見せられた」
のだと思う。
どういうことか?
順を追って説明していく。
(わりと長い文章なので、核心部分だけ読んでみたいという人は、「創作とは何なのか?」の項目に飛んでください。)
◯「半自伝的作品」
まず、「さよなら絵梨(以下さよ絵梨)」で目立ったのは、藤本タツキによる自己言及性を思わせるキャラクターの言動の数々だ。
この場合における「自己言及性」をべつの言葉で言いかえると、
「このセリフって、藤本タツキ本人が思ってることでしょ?」
とか、
「このシーン、何となく藤本タツキの過去作品っぽいなぁ」
みたいな場面のことだ。そういったシーンが本作では数多く見られる。
具体例をあげると、↓
などなど。
※ただし、これらのシーンを材料にして、「本作は藤本タツキの自伝的作品なのだ」と断定して読もうとしても、ギリギリのところで回避されてしまう。優太を藤本タツキに投影しようとしても、その読み方は叶わない。理由は後半で説明する。
これらが何を意図して描かれたのかというと、「さよ絵梨」は「藤本タツキの半自伝的作品」だということではなく、「『半自伝的作品だった』という見せ方を読者に対して強制している作品」だということだ。
似ているようで、この二つは大きく異なる。上に挙げたようなシーンの多くから、我々読者はこのマンガを読んでいる最中、作品の外側にいるはずの藤本タツキの存在をいやがおうでも意識せざるをえない。
(余談だが、このように作者が自分の人生で経験したことを登場人物や物語に反映させる私小説的(自伝的)な作品のつくり方は、庵野秀明やクリストファー・ノーランなど、映画監督がよく使う手法のひとつだ。)
◯フェイクドキュメンタリー的手法
「さよ絵梨」公開後には「映画を見たみたいだった」という感想が多く見られたが、より正確にいうと「フェイクドキュメンタリー映画を見たみたいだった」だと思う。
「フェイクドキュメンタリー」を知らない人のためにかいつまんで説明すると、要するに「ドキュメンタリー風をよそおったフィクション作品」のことだ。フェイクドキュメンタリー作品に登場する人物はあくまで「現実で実際に起きていること」というテイで物語をすすめていくが、途中明らかにフィクションとしか思えない超常的な出来事が起きたり、その一方で妙にリアリティのある要素をはさんできたりする。
「さよ絵梨」は、まさにそういった「フェイクドキュメンタリー作品」と同じような形式をとっている。
本作は、撮影に不慣れな素人が撮った映像っぽさを形式にしている。例えば、対象物がキレイな構図におさまっていなかったり、ピンボケして見にくかったり、また、平坦な4コマで割ったページが連続することで、間が悪くて起伏に欠けた映像のように見えたりしたアレだ。
ここで大事なのは、「さよ絵梨」はフェイクドキュメンタリーだった、ということではなく、あくまでそういうふうに「見せていた」ということだ。
ただでさえふつうのフェイクドキュメンタリーをつくるときには、撮影する映像の中に「手ブレ感」や「アドリブ感」をあえて残そうとする。しかし、「さよ絵梨」ではわざわざそういった映像っぽさすらもマンガに起こしてみせている。
本作は「リアリティを装っているようでいて、その実、作為まみれで嘘まみれ」ということを描こうとしている。虚実を煙に巻こうとする作品内部のテーマとも重なる。
「こうしたい、こう見せたい、こう作りたい」という、コントロールしたい作家の欲望・意識が作品よりも前面に出てきている。
そういった「見せようとしている自分」すらもメタ的に作品の中に滲ませようとしている。
◯虚実入り乱れる構成
「さよ絵梨」は、どれが真実で、どれが虚構なのかわからない。それは物語後半で明かされる「素顔の絵梨はメガネをかけていて歯の矯正をしていたこと」、そして終盤で再登場した絵梨が「実は本物の吸血鬼だった」と種明かしする場面からも自明である。リアリティラインがブレブレだ。
そのため、読者が「さよ絵梨」を一度読み終わったあと、物語を俯瞰から見てつじつまをあわせようとしても、「この場面が真実なのだとすると、あの場面が成り立たない」などの不都合が起きてしまうしかけになっている。
これが何を意味するか?
もちろん、藤本タツキによるテクニカルなミスだったわけではなく、全て意図的なものだ。
そして、より正確に言うのならば「虚実入り乱れる」というよりは
「現実と虚構の境界線が曖昧になっている」
ということだ。
何が嘘で・何が本当だったか、読んでいる読者はもちろん、登場人物自身もよくわかっていないし
真実はもはやどうでもいい
という姿勢である。
例を一つあげる。
物語後半、病室で絵梨が「(映画の中で)どうして私を吸血鬼にしたの?」と問い、それに対して「ファンタジーをひとつまみ入れたかったから」と優太が答えるシーンがある。
しかし、ここで不自然な点がある。父親と食卓を囲んだシーンで「優太は小さい頃からファンタジーをひとつまみ入れる癖がある」と告げられ、その時点(物語前半)で初めて優太は自分の癖を認識したのである。
優太は無意識のうちにやっていた癖を父親に指摘されることによって自分から意識するようになってしまい、さらにその要素を映画づくりに生かそうとしていたのだ。
「気づかないうちにファンタジーをひとつまみ入れていた自分」と、「意識的にファンタジーをひとつまみ入れたがっている自分」は、どちらが本当の自分なのか?
もう一つ例をあげられる。
いつものように廃墟で一緒に映画を見ていた優太は、戦いに勝利する場面で絵梨が小さくピースする癖を発見する。
そして、絵梨が死んだ後の文化祭で生徒たちを「ブチ泣かせる」ことに成功した彼は、同じように一人小さくピースする。
この一連の流れは、
「伏線回収」や、
「絵梨と共に過ごした日々が優太にとってかけがえのないものになっていたこと」
を端的に表しているだけにとどまらず、
自分でも意識していなかったことが、他人の発言や行動に影響を受けることで、それが自分を規定する条件となっている
ことを描いていると思う。
なんだか陰謀論的なこじつけじみてきたが、その根拠はいくつかある。
「さよ絵梨」内でこのようなテーマを描かれていたという根拠は、過去の藤本タツキ自身の発言による。
①このnoteの冒頭に載せていた言葉
というのは、藤本タツキ自身が2021年12月に行われたジャンプフェスタのインタビューで語っていたことだ↓
(0:55~)
藤本タツキは、思ってもいないようなことをながやまこはる名義で繰り返しツイートしていくうちに、自分の人格がこはるちゃんに侵食されていく感覚があると語っている。
②藤本タツキ本人が秋田市文化創造館に寄せた「故郷から学んだこと」という文章からも、「境界線が曖昧な自然と非自然」についての言及がある。そして、その境界線とは、人の手が加えられることによって変化しうるとのだと語っている。
③「ファイアパンチ」においても、「他の人格を演じることで自分の本心がわからなくなっていく」というモチーフが繰り返し使われていた。
④他作品から受けた影響や、自分の作品に反映されていることについてかなり自覚的であり、その公言を惜しまない藤本タツキの生き方そのものでもある。
◯創作とは何なのか?
ようやく本題というか、この文章の核心に入る。
藤本タツキがファイアパンチ以降何度もモチーフとして登場させ、そして前作「ルックバック」ではその主題に据え、正面から描き切っていた「創作」とはいったい何なのか?
その答えを言い切ると、
(主に「さよ絵梨」で描こうとした)
「創作」とは、「演出と編集」である。
「たとえ真実ではなかったとしても、キャラクターやドラマを思うがままに動かし、読者の心に響く形で編集して見せること」
と言いかえてもよい。(あらためて言葉にすると、そのまんまではあるが)
それは優太が最初につくった「DEM(デッドエクスプローションマザー)」においても、明らかに作劇的な編集がなされていることからわかる。
優太が撮った「DEM」は、ひとつの映画作品として見ると稚拙な出来のものであるが、そこにおいても「撮影経験に乏しい中学生が、自分の母親が亡くなるまでの様子をカメラに収めた、感動的でどこかいじらしい稚拙なビデオ」として見られるような作為が入っている。
病院を爆発させる直前までの一連の流れは、「余命宣告された母親が残された時間を家族と共に過ごす」という、なにかにつけて物語ではよく見られるドラマである。
病気のことを忘れて一家団らんで和やかに過ごすシーンがあったり、
撮影者が中学生らしく悪ふざけで関係のない映像をさしこんでみたり、
そしてゆっくりと、確実に迫り来る死の影をほのめかしたりする、どこかで見たことがあるホームビデオ風の映像だ。
しかし、一般的な場合、現実に生きるだれかの人生を一本のストーリーにして物語ろうとするならば、その生活の中にはストーリーにおいて邪魔だったり不必要で猥雑な要素がたくさん含まれているのが普通であろう。
「創作する」とはそのように、「物語」において不必要な部分をグロテスクで暴力的なまでにカットしてしまうことだ。いらないところを排除して、受け手に飲みこみやすい形につくり替えていけばいくほど、真実とは距離が生まれていってしまうだろう。
「さよ絵梨」内においてもその「現実と虚構」の間に存在するギャップは、「実は優太は母親に虐待されており、彼女のエゴからビデオを撮ることを命じられていた」事実を明らかにすることでほのめかしている。
前々項では「フェイクドキュメンタリー」について説明したが、以上のことを踏まえると、「フェイク」ではない一般的な「ドキュメンタリー」作品においても編集する手が入ることにより制作側の「こう見せたい」という手管と、その主義主張が入りこんでしまわざるをえないだろう。
こうなると、真実などどこにもないように感じられる。
また、少し趣向を変えて、
映像的な意味での「編集」という観点で言えば、
絵梨の死後、おじさんになった優太が絵梨と再会するエピローグがそれらを説明するのにわかりやすい。
優太が病死したはずの絵梨を廃墟で発見すると、その瞬間から映像の形式が変化する。
それまでのフェイクドキュメンタリー映画風な主観映像(POV)とは打って変わって、第三者によってカメラで撮影された一般的なドラマ映画のようなカット割りに変化する。
それはまるで、「これはドラマ映画(風)なんですよ〜そういう風に見てくださいね〜」とでも言いたげに、
カメラが回りこみ移動してアングルが変化したり、
2人の会話を盛り上げるために顔を映したショットを切り返したり、
思わせぶりなセリフを言うシーンでは人物の顔にズームインしたり、
逆に変化をつけたいときはズームアウトしたり、
重要なシーンではたっぷり間をとって盛り上げようと演出していた。
映像表現における撮影と編集の基本的なテクニックを不自然なまでにふんだんに駆使しまくることで、「演出する者による手が加わっている」様子(=つくりもののフィクションであるということ)を作品の中ににじませている。
そして重要なのが、
「この場面においてカメラを回し、映像を編集しているのは一体誰なのか?」ということである。
◯「藤本タツキ」とは何なのか?
哲学的な問いにも思えてくるが、この場合の「藤本タツキ」とは、主にSNS上で流布している藤本タツキに対するパブリックイメージのことだと理解されたい。
ここで改めて定義しておくと、
2022年現在の「藤本タツキ」のパブリックイメージは、
「変人」で、「映画好き」で、「一風変わっているがものすごいマンガを描く天才」
である。
少なくともインターネットではそういう風に思われている(多分)。
そしておそろしいことに、藤本タツキ本人(と林士平)はそれについて自覚した上でマンガを描いている。
(と思う。)
彼のこれまでのマンガ家としてのキャリア、メディアに出た際の発言、ながやまこはる名義でのツイートがこれらの"藤本タツキ像"を形成してきた。言うなれば(意図的かそうでないかは別として)そういう風に見られるための自己プロデュースをしてきたともいえる。
ファイアパンチでは最後に映画館を描き、チェンソーマンではだれも予想がつかないような展開で驚かせ、ルックバックでは多くの人々の心を打った。そして、その直後にまるで彼の作家性やキャリアの変遷を改めて大衆にわかりやすい形で定義づけるかのように、短編集を発売した。
では、そんな「藤本タツキ」ならば、2022年現在において、「ルックバック」のあとにどんな作品を描くだろうか?
「変人」ならば、140Pの読切を描いたあとに、さらに増量した200Pのマンガを描いてみせて読者を驚かせるだろう。さらに、作品の大部分を4コマで割った1ページを占めることで「実験作に挑戦している」と思わせられるだろう。
「映画好き」ならば、まるで映画をマンガに起こしたような形式で描くだろう。また、性懲りもなく「映画」をモチーフにしてみせたり、過去の映画作品への愛あるオマージュや引用を決して忘れないだろう。
そして、実力の確かなマンガ家として、マンガとしての強度のある作品を仕上げてくるだろう。
さよなら絵梨は、こうしたオーディエンスの期待に全て応えるような、
まるで「藤本タツキ」を演じてみせたような作品に仕上がっている。
そして、優太がお母さんや絵梨をできる限り美しい形で見せようとしていたのと同じように、
「さよなら絵梨」という作品自体が「藤本タツキ自身をできるだけ美しい形で見えるように物語を見せる」
ことを描いているのではないか。
自分の見せたいような形で見せるとは、逆に言えば、見せたくないような一面もあるし、都合の悪い部分があれば真実とはちがっていても修正主義的にかきかえてしまっているということでもある。
藤本タツキが本作において(またはメディア露出において)「藤本タツキ」という偶像を見せたい形で見せているとは考えられないだろうか。
ただ、これで終わりならまだいいのだが、
ややこしいのがそれについて藤本タツキは自覚的であるし、あえて煙に巻くように虚実おり混ぜて描いていることである。
冒頭の1ページ目を思い出してほしい。
見落としがちだが、初っぱなからいきなり矛盾している。
中学生になったばかりの少年が、12歳の誕生日を祝われているとはどういうことだろうか?1ページ目からいきなりウソをかましてきている。
さらにつけ加えると、藤本タツキ短編集のあとがきにも似たような形で自身の震災体験をつづっている(学生時代に震災が起きたというエピソードを語っているが、その当時17歳で大学に入学したという記述があり、同じような矛盾が生じている)。
これらのことは確信犯的にやっているとしか思えない。
つまり、最初の1ページ目からウソをかましている「さよ絵梨」は信用ならないし、ウソの自己言及をしている「藤本タツキ(のふるまい)」もまた、信用ならないということだ。
「さよなら絵梨」も、「藤本タツキ」も、同様にその存在がどこまで真実なのか信用ならない虚構そのもの。
であるとすると、作中で唐突にはさまるいかにも「藤本タツキが思ってそうな」創作にまつわる名言も、本当はそう思っていないが、そう演じているだけなのかもしれない。
(というのも、あれらの創作にまつわるセリフは、たしかに「作家」としてのプライドや矜持を感じられるものであり、普段作家側の気持ちを考えることなく作品を消費してしまいがちな読者としては耳が痛くてドキッとするような話だ。
しかし、それを描くにしても、「藤本タツキほどの作家があんなに直截的にセリフで説明しちゃうだろうか?」という疑念がある。)
「藤本タツキ」という創作をしている。
以上の流れをふまえて「さよなら絵梨」のメタ構造を整理しておくと、このようになる。↓
「さよ絵梨」公開後には、「どのシーンが現実でどこからが映画の中なのか」、あるいは、「どれが真実で、どれが嘘なのか」といった考察が盛り上がっていたが、この観点からするとそれらの考察は全くの無意味だと思う。
なぜならこの作品のすべてが、そして作者そのものが”ウソ(=創作)”だからだ。
「信頼できない語り手」という叙述トリックがあるが、作中で映画を作ってみせている優太が信頼できない語り手ではあるのはもちろんのこと、「さよ絵梨」を描いている藤本タツキ自体が信頼できない語り手である。
だからおそらく、「さよ絵梨」を読んで
「まるで映画みたいだなあ」
「映画を一本見たような読後感だった」
「藤本タツキ先生は本当に映画が好きなんだな」
「作中で語っていた創作に関する名言はカッコいいなあ」
などといった感想を持ったとしたら、それは語り手・藤本タツキの思惑どおりに転がされているということだと思う。
また、私がこれまで述べてきたように、藤本タツキの発言や思想をもとに何らかの考察を組み立てるという行為も、藤本タツキの撒いたエサに食いついているので、同様に彼の思惑どおりに転がされているといえる。
過去の発言を藤本タツキの本心から思っている「真実」だとして読むと、「さよ絵梨」がそうだったように、藤本タツキ観のどこかで矛盾が起きるしかけになっている。「わたしはウソつきです」という自己言及のパラドックスである。
ちなみに、冒頭に載せていた「浮遊する俺」という不思議な動画は、マンガ家デビューする前の(おそらく10代の頃と思われる)藤本タツキが自分を撮影し、そして自身の手でニコニコ動画にアップロードしたものだ。
自分にカメラを向けて、自分の挙動を撮影している様子は、やはり優太を想起させるし、「今から、浮きます」と言って空中浮遊を試みようとすることから、この当時からすでに自己言及のウソつきである片鱗を見せていたことがわかる。
それから、ファイアパンチ単行本の作者近影においても、藤本タツキがウソの自己言及をし続けていたことは記憶に新しい。
たとえば、ファイアパンチ第1巻では、藤本タツキの幼少期と思われる少年の写真とともに「ニューヨークやワシントンなどで弁護士をしています。絶対に被告人を無罪にします。」というコメントが添えられている。
そして、言うまでもなく「小学3年生で藤本タツキの妹」というテイで運営している「ながやま こはる」のツイッターアカウントもその例に漏れないだろう。
この文章のタイトルは「藤本タツキというフェイクドキュメンタリー」だとしているが、これはつまりそういうことだ。
フェイクドキュメンタリーは、あくまでリアリティであることを装っているが、必ず作家による演出の手が加わっていて、それは虚構の物語である。
「藤本タツキ」とはフィクション(創作)なのだと思う。
そして、さらにこじつけ的な解釈をするのなら、この場合における「爆発」とは、それまでの「藤本タツキ像」を信じて心動かされたり、作品を読み解こうとした考察のすべてに対して、突然「ファンタジーをひとつまみ加える」ことでそれまでのリアリティ(ライン)を台無しにしてしまうことではないだろうか。
それはまるで、「さよなら絵梨」の作中で「爆発」が起きるたびに、
「今まで見せられたのは一体何だったんだ?」「クソ映画じゃねえか」といった感情にさせられたその一方、どこか心地よいダマされた感や不思議なカタルシスがあったのと同じように。
読者に対して「あっかんべー」と舌を出しておちょくってみせる行為のようにも感じられる。
これを踏まえると、「ファンタジーをひとつまみ加える」という行為は、
「フィクションだと盛大に宣言してしまう」ことだと言いかえることもできると思う。
ここで最後にこの文章をまとめると、
「さよなら絵梨」とは、そういった2022年現在の「藤本タツキ」の現状のネタバラシ作品だったのだと私は考察した。
2022年に生きる私たちは、藤本タツキが演出する「藤本タツキ」というフェイクドキュメンタリーを、あの体育館の中で眺めて熱狂している。そして、その群衆のどこかに藤本タツキが潜んでいて、読者の反応を見てほくそ笑んでいたり、小さくピースなんかしているのではないだろうか。
◯おまけ(個人的な感想)
ここまで述べてきたのは、あくまで自分が「(パラノイア的に)この作品から感じられたこと」であり、どちらかというと個人の好き嫌いについては言及しなかった。
最後のおまけとして個人的な感想を言うと、
「作品としての強度はとんでもないが、見たかった藤本タツキ作品ではない」ということだ。
個人的に、藤本タツキの最大の強みは、古今東西ありとあらゆるアニメ・映画・マンガ作品から縦横無尽に引用して、そこから高いレベルのセンスと演出で打ち出す表現としての強さと、物語としての圧倒的な強度の高さだと思っている。
しかし、さよ絵梨はどちらかというとそれらの点においては弱かったと思う。
見開きの絵にしても、チェンソーマンやルックバックで見られたような「これでしかない」という画の強さ、一枚絵としてのほれぼれするようなカッコよさは感じられなかった。純粋に過去の作品と比べると魅力的な絵が少なかったと思う(そもそもそういう形式をとった作品だから仕方ないとはいえ)。
この記事で考察したように、本作が読者に対するコールアンドレスポンス的なやりとりを描きたい作品だったとすると(おそらくその試みは成功している)、比重がそちらに傾きすぎていて、個人的な好みではなかったということだ。
あまりにもロジカルであるというか、構造をうまく成立させることに意識が集中しすぎている気がして、純粋な「面白さ」的なものをあまり感じなかった。
それでも、やっぱり今の日本のマンガ界で(というか、全エンタメ業界含めても)こんなに面白いことをやっている人は他にいないんじゃないかと思わせられるレベルの作品だったし、やっぱり藤本タツキはすごいという感想は揺るがなかった。
ルックバックのあとにタコピーという模倣犯が現れたように、少年マンガ界が「いかにバズらせるか」「いかに売るか」というレースに一生懸命努力している中、この人はひとりだけ全く違う遊びをおもむろに始めて、その中で大成功を収めているように感じられた。
個人的な本作の評価はわりと低めになってしまったが、きたるチェンソーマン2部で心おきなく大暴れするための準備段階として、「現段階で吐き出して(描いて)おきたかった・あらためて立脚点をつくりたかった」という試みで本作を描いたとするならば今後がとても楽しみだ。
それから、ルックバックとタコピー以降の、主にツイッター上での受け手/読者の異常なまでの狂乱ぶりというのは、やはりここ1年くらいの少年マンガ界のトピックの一つだったと思うし、その現象を「文化祭の体育館」というわかりやすい形で描いてビジュアル化してみせたあたりは、やっぱり作家としてスゴイなあという感想。生徒たちはツイッターほど騒ぎ立ってはいなかったけど、どうしてもあの空間はインターネットに見えてしょうがなかった。
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