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もう会わない、の更新。


あの出来事が現実だったかどうかの確証はない。
けれども、僕は、記憶としてそれを留めている。
感触や、気温や、衝撃なんかも、記憶の中から引っ張り出して、あの出来事を呼び起こすことが出来る。
つまり、それが現実であろうがなかろうが、僕は、実際に、あの出来事からの影響を抱えた状態で生きている。

つまり、現実であることに重点を置く必要はないということだ。

何度かの引っ越しを繰り返していたら、もう、10年以上会っていない人ばかりになった。

存在が不確かになり、記憶も曖昧なままで、関係は更新がなされないでいる。
誰かは死んでしまったかもしれないし、外国で暮らしているかもしれない。子供が産まれ大きくなり、会社を立ち上げたり、潰してしまったりした人もいるかもしれない。傷ついたり、傷つけられたり、借金から逃げたり、小さな親切をしたり、行きつけの飲み屋で言われたことにクヨクヨしているかもしれない。

だからどうしたというのさ。

もし、近くにいたら、そういった日常なり、出来事への意見を求められたり、ただ黙って聴いていてほしいと、その役割を演じたり、何かしらの手伝いなんかしたのかもしれない。

その場にいないこと。時間が重ならないこと。
けれど、まあ、それだけのこと。

自分が意味のある、新しい場所に辿り着けているという実感はない。

それは少し寂しさに似ている。

僕は会わなくなった人達の、「その後」を想像で勝手に更新して、そうか、なかなか大変だったんだなぁ。と、その行動を称え、自分ならどうするか考えてみたりする。

そして、また、彼らと会わないまま、現実の確証は曖昧の中、残された断片の出来事に出会えたことを感謝する。

物語は残り、記憶となる。


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奥田庵 okuda-an
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