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あと一年【短編小説】

あと一年で山梨へ引っ越すことにした。

「そろそろ山に篭って、静かに暮らしたい」
と、妻が言い、僕もなんとなく気分を変えたかったので、
「いいね」
と、答えた。

なので、一年かけて色々と準備をすることにした。
物件を探したり、要らないものを捨てたり、仕事を整理したり、そんなこと。

「だけど、まだ黙ってよう」
と、妻が言った。
「なんで?」
「そのほうが気楽だから」
「そうね」

ということで、「あと一年」での日常が始まった。勿論、日常には日々変化もあるし、同じ日を繰り返しているわけではないのだけれど、通勤のバスや、電車、会社での仕事、同僚と、今の生活のレギュラーな出来事が、「あと一年」なんだと思うと、少しだけ注視したい気持ちにもなる。と、同時に寛大にもなる。

なんとなく同じバスに乗り合わせていた学生のことが、たぶん一生話をすることもないのだろうけど、今度は見かけることすらなくなるんだろうなぁとか、理不尽な仕事を押し付けられても、「まあ、一年後には辞めてるしな」と、適当に流せた。

そう考えると、「この日常が続いていく」という前提で腹を立てていたことや、苦しんでいたことが多くあることに気づく。

逆に言えば、「あと一年」と思うことで、回避できることの多さに驚いたりもした。

「最近、ちょっとしんどいんですよね」
と、同僚のナツメグさんと事務所で二人きりのときに声をかけられた。
「何かあったんですか?」
「それがなんか分からないんです。漠然とした、もう、こういうの嫌だなって気持ちが抜けないんです」
「それはまた深刻ですね」
「なんか、全部捨てちゃって、ぶらぶらと旅でもしたいです」
「いいですね、したいですね」
「でも、まあ、家族も生活もありますし、年齢も重ねて、全部捨てちゃうなんかできないですよね」
「まあ、そうですよね」
「どうしたら良いですかね?」

そう言われてもな。
僕も1年後に辞めちゃうしな。
と、思いつつ、考えてみる。

「まあ、苦しさから自由になりたいけど、それをやるとまた別の苦しさに囚われそうって悩みは理解できます。辞めたあとの不安とか、生活とか築いた関係が崩れるとか」
「ええ」
「なら、計画たてて、自由にでもなられたら?」
「計画をたてた自由?」
「例えば、月2回ぐらい会社休んで、日帰り旅行するのはオッケーとか、ここ辞めるための副業試してみるとか、心がヘトヘトならそれも辛いかもしれないですけど」
「そうですね」
「気分よくなるような、したいことないですか? なにかやり残したこととか」
僕がそう言うと、ナツメグさんは、
「したいことかぁ」
と、考えたこともなかったとでも言いたそうな声をだした。
「気分が良くて、健康なら、ほぼほぼ成功してるようなもんですから」
と、僕が言うと、

「あ」
「ん?」
「娘の発表会があるんです。子供演劇」
「ほう」
「平日の昼に千葉なんですよ。こっそり、見に行っちゃおうかな」
「いいじゃないですか」
「内緒にしてくれます」
「勿論」

僕が笑うと、ナツメグさんはニッコリと微笑んだ。
「秘密を誰かと共有するだけで、なんかワクワクしますね」
「全然、罪のない秘密ですよ」

ナツメグさんが少し嬉しそうに笑った。

「相談してよかったです。これからも一緒に頑張りましょうね」
「ええ」


ささやかな日常。何気ない転機。
その人がいたことによって成立していた時間。
思考と、心持ち。
ナツメグさんは、どちらかといえば真面目で、だからこそ色々と押し付けられて苦しんでいたように思う。ナツメグさんがいたことによって、僕はたぶん、沢山の恩恵を受けている。

彼は僕と「一緒に」と、思っている。
僕を信用して秘密を共有しようとしている。
それはとてもありがたいことだと受け止めて、
「あと一年」と、僕は思っていた。






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