【小説】目撃してしまった。
帰り道。
少し前を歩いている男性の背中に、「夜逃げ」と書かれた張り紙がついていた。
夜逃げ?
なのかな?
この人が?
まあ、いいやと、歩を進める。
が、歩道橋を上り、駅について改札を抜け、ホームに着いても、その男性はずっと少し前にいた。
電車を待っている間も、2人挟んでその男性が立っていた。
気になる。
ずっとその張り紙を気にしてしまう。
「夜逃げ」か。
なにかの政治的主張? 誰かのいたずら?
ファッション?
もしかして誰も反応していないってことは僕にしか見えていないとか?
いやいや。
いたずらとか、嫌がらせだったら「バカ」とか「アホ」とか書いて、本人だけ気づかないということを周りが笑うという、悪趣味なものだとすぐにわかるものだけれど、「夜逃げ」という言葉が微妙で判断を鈍らせる。
電車が到着して人々が乗り込む。
彼も僕も乗る。
彼は僕と迎え合わせの形で座った。
張り紙は座ったことによって見えなくなった。
とりあえず。
少しだけホッとした。
「……」
なんで?
なにかの責任を回避できたような気分なのかもしれない。
責任とは?
目撃してしまった責任?
なのかな?
僕は腕を組み、目を瞑る彼を感じながら目撃してしまった責任について考える。
知らせるべきか?
誰に? 彼に。いや、彼は知っている可能性だってまだある。
好きでつけていて「夜逃げ」と貼るのをカッコイイと思ってるかもしれない。
「働かない」とか「負けるが勝ち」とか「しょうゆかけて」とか無意味な文字が書かれてるシャツが流行ったように。
ふむ。
たとえば、知り合いの隠し事をたまたま見つけてしまったとしよう。
きっと言いたくないこと。ヤバそうな相手との交際現場だったり、いかがわしいバイトしてたり、過去の悪さの証拠だったり、赤裸々すぎるSNSだったり。
相手に言う?
知ってしまったことを知らせる?
いや、そういうことは伝えたことによってその人が、今までのようにいまいる場所にいることができなくなってしまうかもしれない。目撃したこちら側も慎重に判断しなければならない。
ある分野の隠し事は墓場へ行っても知られてはいけなかったりする重要な分岐点になる可能性があるのだ。
いや、でもそれとはもちろん分野が違うだろう。
ただの張り紙。しかも「夜逃げ」と書かれた。
それを教えたことによって、彼がショックのあまり疾走したり、仕事を辞めたり、命を粗末にしてしまったりしないだろう。
とも、言い切れない。
誰も、何も言い切れない。
未来がわかる人間なんて、この世に一人もいない。
電車がホームに到着して、停まった。
彼が立ち上がりドア付近へ移動、張り紙が見える。言うか? いや!
と。そのとき、その彼の後ろに立った人物が、サッと張り紙をはがし、
「落ちましたよ」
と、差し出した。
彼は振り向き、受け取ると、「ああ」というような表情を浮かべ、お辞儀をした。
そして何事もなく、二人は電車を降りて行った。
スマート。
なるほど。
そういうやりかた。
「……」
電車が発車した。
しかし「夜逃げ」って、なんで貼ってたんだろうなぁ。
まあ、いいけど。
とりあえず、目撃してしまった責任については、また次の機会に考えることにしよう。
みんな元気で幸せであれ。