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#66 QBハウス(6571)2020/06/30


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       山本潤監修「グロース銘柄発掘隊」 第66号

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 山本潤氏率いる「株の学校」で、山本氏をはじめとする講師陣の薫陶を受けた精鋭アナリスト達が、成長株を発掘し、その内容を詳細にレポートします。

 毎週火曜日配信、1回に1銘柄の深掘りレポートです。


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               【目次】


■はじめに
■QBハウス(6571) 客員アナリスト カーツ大佐
■モデルポートフォリオ 6月2日更新


※本メルマガの一部内容を、億の近道へ抜粋の上掲載することがございますので、あらかじめご了承下さい。


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■はじめに


 NPO法人イノベーターズ・フォーラムのご協力により、客員アナリスト
たちのレポートの有料メルマガを提供しております。

 グロース銘柄発掘隊の隊長は東京2期生です。
 彼の指揮下、隊員たちは、週に一本のフルレポートをディープに発表します。
 どれも個性あふれるレポートです。

 投資家のみなさまにおかれましては、ぜひ、グロース銘柄発掘隊の客員アナリストたちへのご支援をよろしくお願い申し上げます。

(山本潤)


【発掘隊より】

 グロース銘柄発掘隊は、5年から10年以上の長期投資に耐えると思われる銘柄を発掘し、調査分析するものです。配信した銘柄は短期的に株価調整する場合もありますが、対象企業の前提条件が変化しない限り、問題ないと考えます。
 配信した銘柄は定期的にチェックしております。もし、前提条件が変わったりビジネス環境が大幅に変化した場合には、あらためてフォローコメントを配信致します。


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■QBハウス(6571)

【会社概要】


 ◆QBネット株式会社の概要

 キュービーネット株式会社は、短時間、リーズナブルな価格を特徴として店舗展開しているヘアカット専門店です。
 主力の理容店であるQBハウス。そして、お手頃美容室のFaSS(ファス)。
 主に海外で展開し、国内では実験店舗的色合いのあるQBプレミアムという店舗を展開しています。
 QBハウスでは、従来の理容店、理髪店では当たり前にあったヘアカットそのもの以外の付帯サービス(髭剃り、シャンプー、整髪等)を省き、効率化を徹底し、短時間で髪を切るというサービスに特化することで、顧客のニーズと高収益を両立させているビジネスモデルが特徴です。
 理容店自体は、参入障壁の低めの商売ではありますが、当社は、独自の様々な仕組み作りにより、創業時より、価格競争に巻き込まれない価値創造モデルを構築してきました。そして近年、業界では類を見ないさらなる価値創造追求のための仕組みを構築中であり、世間で一般的に見られている、格安カット専門店のQBハウスというイメージとは全く異なる内実となってきているように見え、パブリックイメージと中身の乖離を良い意味で感じる企業だと考えております。


 ◆理美容の歴史

 元々、理美容の歴史は古く、当社のビジネスモデルも、長い歴史の中で髪の毛を切るという文化が様々な変遷を経て現代人のニーズに対応して細分化された理美容業のバリエーションの一つであると言えます。

 そのルーツは、紀元前3,500年頃、青銅器時代にまで遡ることができます。旧約聖書やエゼキエル書にも理容についての記述があったり、エジプトの墳墓からは、紀元前4世紀の金や銅製の剃刀が出土するなどしており、非常に古い歴史を持っています。
 当時は、剃刀を使い、どちらかというと、切るというよりも髪や髭などを剃るというアプローチで、宗教的な色合いの強い儀礼や儀式として行うものだったようで、「善と悪の精は、頭髪を伝わって出入りする」という迷信に基づいていた儀式により、僧侶や薬学士が行う仕事の一部だったようです。
 その後、ローマ時代、エジプトからシシリー島に移住した理容師の元に、外征から戻ってきたパブリアス、デイにロス、メナスの3人が訪れた際に、顔を剃らせたところ、気分がとても良かったため、その理容師をローマに連れて帰り、理容業を始めさせたことが、生業としての始まりと云われています。
 当時は、一部の特権階級だけのものだったようです。
 飛鳥時代には日本にも剃刀が渡りますが、出家の際の剃毛に使われるなど、あくまでも宗教的な結びつきがある道具という位置づけで、商いとしての確立はなかったようです。
 この頃の世界の理容は、時代背景や文化や習慣など、地域や時代でもまちまちだったようですし、諸説がありますが、宗教との結びつきが強い点が特徴です。

 現在の理美容では、剃刀よりも、ハサミの方が必要不可欠な道具ですが、ハサミは、元々羊毛を刈るためのU字型の握りハサミとして開発されたのがルーツとされています。紀元前1,500年頃のようです。
 日本には中国から伝わり、鎌倉時代、北条政子は、髪を切るために使用していたとも伝えられています。
 1,200年代には、采女亮という武士出身の者が、下関で、武士を客に額から頭のてっぺんを剃り落とした髪型にする仕事をはじめ、これが日本における床屋の発祥という説がありますが、剃刀で剃り落とすことが仕事だったようで、その技術は鎌倉幕府からも重用されていたという言い伝えもあります。
 そして、現在使用されているX型のハサミの直接のルーツは、紀元前27年、帝政ローマ時代のハサミで、当初は鉛や針金をカットするための工業用として活用されていたようです。その後、時間の経過と共に、ハサミは用途に応じて、多様性が生まれ、髪の毛を切る用途でも活用されるようになりました。

 理容業は、その後も僧侶と共に宗教的色合いを持つ外科医として発達していきました。しかし、1,162年の僧侶と外科医を分離させる御触れをきっかけに、宗教的色合いは薄れ、理髪外科医として細分化されました(barber surgeon)。1,094年時点では、既に組合もあったと言われています(当時は、医療は内科学が主流で、怪我の処置や四肢の切断等に至るまで、現在の理容師のルーツに当たる職人がこれを行っていた)。

 中世になるとヨーロッパの医療分野では「瀉血」(しゃけつ)が盛んになりました。血液の淀みが外科的な病気の原因であるという根拠に基づき、骨折や頭痛などの炎症部分を切開して、意図的に出血をさせて、炎症の軽減を図るものでした。現代から考えれば、非常に原始的な治療法で、その効果も怪しいものでしたが、当時は一般的な外科的治療方法だったようです。
 その瀉血は、理容外科医が担当しました。しかし、1,416年頃になると、外科や歯科に対する知識が乏しい者が混在しているとされ、理容外科医に対して、「重症患者取扱禁止令」が出されます。医療技術の進歩と共に、人間の身体のことが詳しくわかるようになってきたことや、今でいうところの誤診や医療ミスによる被害も少なくなかったことから規制が生まれたものと推察されます。
 その後、医療は、各分野の専門医へと細分化が図られていき、1,745年頃にイギリスで法令が出されるなどにより、理容と外科が完全分離され、現代の理容業への道筋が生まれました。


 ◆日本における理美容業の始まり。

 ヨーロッパで理容業が外科医と分離され、アメリカでも理容業が拡大していた頃、日本は江戸時代で鎖国政策を取っていました。そのため、現代の直接のルーツである理容業が日本に伝来発展するのは、江戸末期、ペリー来航から江戸幕府の終焉、明治政府の誕生と文明開化の時代まで待たなければなりませんでした。

 江戸時代の日本には現在のように定期的に髪を切るという文化はなく、職人、商人、武士と言った身分によって異なるちょんまげ、所謂髪結が常識でした(経済的に余裕がなかったり、頻繁に髪結ができない人は、惣髪で、これが一般主流だった)。髪結床というお店があり、そこで髪に油をつけて結い上げ、その職人は髪結職人と呼ばれておりました。
 従って、理容店は、古くから日本にある文化ではなく、舶来の文化、習慣でした。ペリー来航後にアメリカに渡った日本の使節団は、丁髷姿でしたので、それを目にしたアメリカの市民から笑い物になってしまい、恥ずかしくて現地で幕府のルールに反して断髪をしたものの、帰国の際には今度は処罰を恐れて、帰港の際に袋で顔を隠して移動したとも云われており、長年の鎖国により、当時の日本の文化が西欧と比べて著しくユニークなものになっていたことが窺えます。

 横浜に外国船が出入りできるようになると、船員の髭剃りをするために外国船に出入りする日本人がいました。そのうちの1人が、今の理容店の原型第一号を開店した、小倉虎吉です。虎吉は、横浜に停泊している外国船に乗り込み、船員の髭を剃りながら、脇で船員の髪を切っている外国人理髪師に興味を持ちました。仕事後に、自分も人の髪を切ってみようと試みますが、当時はまだ西洋風に髪を切る勇気のある人がいなかったため、練習台にとても苦労したということでした。

 明治2年、同4年の政府からの断髪令に先駆けて、虎吉は、現在の横浜中華街のあたりに理髪店を開店させます。しかし当初はなかなか日本人のお客さんはおらず、外国船員がお客の中心でしたが、見様見真似の虎吉のカットの腕は、決して良いものではなかったようです。

 しかし、断髪令など官民挙げての文明開化の機運が追い風となり、虎吉の技術も向上し、理容店は日本のあちこちに開店して行きました。その頃には虎吉の店の評判は知れ渡り、店名に「百四十八番」という名前を掲げる店もあったそうです。これは虎吉の店が、横浜南京町百四十八番地にあったため、それにあやかり、虎吉と同じように技術の高い店であることをPRした店名だったそうです。廃藩置県と版籍奉還により、事業を始める士族の中にも理容店を開業する人もいたようですが、士族は商売が苦手なため、なかなかうまくいかなかったという記録も残っています。

 理容店は他の商売と比べても、極端に客と接近してサービスをする商売です。
 そのため、理容師の人柄や雰囲気、コミュニケーション能力は、カット技術に並ぶ、必要不可欠な職能です。武士出身の方が物腰柔らかくカットをするということはとても難しいことだったのだろうと想像できます。つい何年か前までは、刃物は人を殺すものとして武士の役目を果たしてきたわけですから、笑顔で友好的に接近してサービスを行い、相手に気分爽快になってもらう商売はさぞ難しかったでしょう。

 ちなみに明治4年の断髪令は、丁髷をやめて、髪を切らねばならないという趣旨ではなく、散髪しても良いという政府からの許可、というニュアンスだったそうです。

 文明開化の推進は、当時の政府にとって国家の存亡を左右するようなとても大きな課題でした。長年の鎖国によって、あらゆる文明や技術に遅れをとってしまった日本は、西欧各国による植民地支配を受けてしまう危機もありました。そのような中で、王政の象徴であった丁髷と決別し、断髪し、見た目を変えることで、国民に西欧文化を直接意識させ、植え付けようという意図もあったようで、新政府の木戸孝允の発案で、今でいうところの新聞広告が掲載されました。

 「半髪頭をたゝいてみれば因循姑息の声がする」
 「惣髪頭をたゝいてみれば王政復古の音がする」
 「ザンギリ(斬切)頭をたゝいてみれば文明開化の音がする」

 その場しのぎの半髪頭、幕府時代を想起させる惣髪(=ポニーテールみたいな当時の男性一般の髪型)を否定し、ヘアカット文化を推奨するこのフレーズは流行し、大きな時代の変化と共に、国策の色合いも持ちながら、理容店が広く国民生活に浸透していったことが窺えます。

 以来、理容店は、よりデザイン性や非日常性を追求する美容室と別れて、客のニーズに応じて細分化されつつも、人のいる所であれば、どこでも安定的な需要の見込める商売となりました。
 戦後から高度経済成長期にかけては、人口が増え、飛躍的な経済成長と所得増加により、身だしなみに対する意識の向上などが背景もあり、どこの街に行っても、赤白青のサインポールが店頭で回転している個人商店タイプの理容店が全国でたくさん営業していました。シャンプー、カット、ブロー、髭剃りが定食セットのようになっており、単価は、3-4,000円程度。オプションでカラーやパーマにも対応するようなマルチタイプの理容店です。
 このようなタイプの理容店の数は、昭和60年(1985年)の144,994店のピークを境に減少傾向にあります。
 しかしながら、理容業は非常に歴史の長い商売であり、人の数の分だけ需要があり、普遍性がある仕事だと言えます。
 人の髪の毛は、場所や時間、各人の価値観や所得などを問わずに生きている限りのび続け、定期的に切らなければならないものなのです。大正期、北海道の開拓地にも理容店はありましたし、南極観測船の中にも理髪室がありました。戦中戦後も、電力不足をなんとかこなしながら理容店は営業を続けました。オリンピックになれば選手村の中にも開業し、今回のコロナ禍においても、一時休業はあったものの、再開後は行列ができると言ったように、普遍的で永続性の高いビジネスと言えるでしょう。


 ◆市場環境と競合関係

 ところで、現在の理容業界市場はどのようになっているのか、見てみたいと思います。参考までに、美容業界(美容室)と比較してみます。

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