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イベント司会者日本一を目指して。フリーアナウンサー青木源太さんに聞いた、仕事とお金のはなし

 「趣味は『美容』と『投資』です。この2つには意外な共通点があるんですよ!」
 対談が始まる前の立ち話で、現場にいたスタッフ一同を「どういうことだろう?」と惹きつけた青木源太さん。慶應義塾大学を卒業後、2006年にアナウンサーとして日本テレビへ入社し、巨人戦や箱根駅伝などのスポーツ実況を始め、『PON!』『バゲット』『火曜サプライズ』のMCを経て2020年9月に独立、現在はフリーアナウンサーとして活躍中です。
 今回は「日本一のイベント司会者」を目指している青木源太さんのキャリアに対する考え方、2008年から始めた株式投資への取り組みについて語っていただきました。


青木源太(あおき・げんた)
フリーアナウンサー

<プロフィール紹介>

1983年生まれ、愛知県岡崎市出身。
2006年にアナウンサーとして日本テレビへ入社。
巨人戦や箱根駅伝などのスポーツ実況を始め、
『PON!』『バゲット』『火曜サプライズ』のMCなどを担当した。

 現在はフリーアナウンサーとして関西テレビの情報番組「旬感LIVE とれたてっ!」のメインMCを務める。
 また、「日本一のイベント司会者」を目指し、年間約100本を超えるイベント司会を担当しており、その他防衛省広報アドバイザー、愛知県岡崎市観光伝道師など様々な広報活動にも従事している。


<関連サイト、SNSなど>
X : @Aoki_Genta
Instagram : https://www.instagram.com/aoki.genta


●「超」のつくテレビっ子が、史学科を経てアナウンサーになった

小屋「青木さんはどちらのご出身ですか?」

青木源太さん(以下、青木)「愛知県の岡崎市です。父親が転勤族だったので、千葉や湘南の藤沢など、けっこう転々としていました。」

小屋「大学は慶応なんですね。」

青木「親はそのとき大阪だったので、僕は東京で一人暮らし。毎日ワクワクしていましたね。」

小屋「文学部というのが意外な感じでした。」

青木「高校の担任の先生が世界史を教えていて、その授業を通じて歴史ってすごくおもしろいなと興味を持って、そのまま史学科の西洋史学専攻に進学したんです。」

小屋「ちょうど前回のこのコーナーで、『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯』などの著作がある作家の板谷敏彦さんと対談したんですが、『投資をする上でも歴史を学ぶことは大事だよね』という話になりました。」

青木「よくわかります。やっぱり歴史はくり返しますから。でも、それを自分の投資の判断に活かせるかは、また別の話になってきますよね。」

小屋「たしかに。ところで、西洋史を学んでいた青木さんがどうしてテレビ局に入り、アナウンサーになったんですか?」

青木「そこは学びとは違う背景がありまして。僕は元々「超」のつくテレビっ子で、特に歌番組が大好きだったんです。現在も続いている『ミュージックステーション』、石橋貴明さんと中居正広さんが司会をしていた『うたばん』、ダウンタウンさんの『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』。90年代、00年代の歌番組をずっと見てきました。そうしたら、大学に入ってすぐにテレビ朝日でアルバイトできるチャンスが巡ってきたんです。」

小屋「現場の仕事ですか?」

青木「『朝まで生テレビ』という番組のAD業務で、出演者にお弁当を配ったり、台本をコピーしたり。いわゆる雑用だったんですが、それでも楽しかったですね。ちょっとテレビの裏側を覗いてみようくらいの気持ちで始めたのに、それから3年間、楽しいままで続けられました。・・・ということは、この業界に向いているのかな?と考えて、就職活動はテレビ局を受けたんです。
 縁あって日本テレビのアナウンサーとして採用になりましたが、僕はアナウンススクールに通っていたわけではないので、専門的な勉強は入社後にやりました。でも、もしアナウンサー職で落ちていたら、制作職でもう一度受けるつもりでした。」


●37歳で独立、フリーアナウンサーに。イベント司会で日本一になりたい

小屋「日テレでは何年間アナウンサーをされたんですか?」

青木「14年半です。その間、箱根駅伝の実況や巨人戦実況などのスポーツ中継もやりましたし、ニュース、情報番組、バラエティも経験して、日テレ時代はバランスよくいろんな番組を担当させていただきました。」

小屋「ということは30代半ばぐらいで独立されたんですね。」

青木「37歳でした。」

小屋「一般的に会社員をやめて独立するときは、不安や恐怖もあるように思いますけど、そのあたりはどうでしたか?」

青木「じつはそれほどなかったですね。『フリーになって仕事があるか不安にならなかったんですか?』とよく聞かれますが、日テレ内でも競争は激しいですし、外に出た方が仕事は多いんじゃないかと思っていました。
 そもそも日テレにいたら、日テレの番組にしか出られませんから。編成表には限りがあり、番組が無限にあるわけではない。その枠を60人近いアナウンサーが競っているという見方をすると、なかなか厳しいですよね。毎年、若いアナウンサーも入ってきますし。」

小屋「安定したお給料はもらえるけれど……。」

青木「日テレにいれば安泰で、外に出たら危ないというものでもないと思います。それにアナウンサーとして日テレでやりたいことは十分にできたという実感もありました。だから、外に出てチャレンジしようと思ったんです。」

小屋「どんなことをやりたいと思っていたんですか?」

青木「僕はイベント司会で日本一になりたいんです。1つの企業のイベントにじっくり関わること、これは日テレの局アナ時代にはできなかったことです。企業の新製品発表会、社内表彰式、新作映画の舞台挨拶など……依頼はさまざまですが、クライアントの要望、意図を汲んで、考え、叶えていくというのはすごくやりがいがあります。」
 ただクライアントの要望を全部聞いたからといって、いいイベントになるとも限らないんです。会場に来ているお客さんも楽しくなければいけませんから。
 例えば、映画の舞台挨拶はマスコミが取材に来ますよね。こちらとしては映画をPRしたい。でも、マスコミは登壇している俳優さんたちのプライベートのコメントも取れないと満足してくれない。異なる利害を持つ人たちが、それぞれに満足しないといいイベントとは言えませんよね。
 そこのバランスを取っていくのが司会の仕事で、難しくもあり、やりがいを感じているところです。」


●50歳までに1000本のイベント司会をやるのが目標

小屋「日テレ時代からイベント司会に向いている、という感覚があったんですか?」

青木「僕はアナウンサーの仕事を大きく5つに分けていまして、報道情報番組、バラエティ番組、実況も含めたスポーツ番組、ナレーションなどの声だけの仕事、それから5つ目がイベントの司会です。
 日テレの門を叩いたときは、情報番組をしっかりとやりたいと思っていましたが、続けているうちに、イベント司会の引き合いが一番多くなっていったんです。局が出資している映画の舞台挨拶や、他の企業との協賛イベントなど、独立前の5年間はアナウンス室で最も多くイベントの司会を担当していました。」

小屋「なるほど。」

青木「何回もオファーをいただけるということは、自分に合っていたんでしょうね。よくサラリーマンは強みを見つけろという話になりますが、それは成果から逆算するしかありません。アナウンサーになったときは、イベント司会がこんなに楽しく感じられて、自分に合っているなんてわからなかったですから。
 14年半も局アナをしていると、情報報道の世界ではあの人には敵わない、ナレーションはあの人が一番、スポーツ実況はあの人がすごい、という才能が見えてきます。そのなかでイベント司会なら自分もいけるんじゃないか、その道を極めたいと思うなら日テレに残るよりも、フリーランスになった方があらゆる司会が経験できるだろう、という感じでした。
 イベント司会で関係者の異なる利害をうまく調整できたとき、それは次のオファーにつながります。同じクライアントさんから「またやってください」と言われるのが一番うれしいですね。これはサラリーマン時代との大きな違いです。」

小屋「独立を含め、キャリアについて誰かにアドバイスをもらったり、相談したりといったことはあったんですか?」

青木「羽鳥慎一さんですね。アナウンサーの師匠であり、羽鳥さんは2011年にフリーになっているので日テレ出身のフリーアナウンサーの先輩でもあります。その羽鳥さんから独立前に『立つ鳥跡を濁さずで、揉めずにちゃんと話し合っていい形で出なさい』と言われました。」
 そのアドバイスを受けて、局とは1年近く話し合って独立しました。もう1つ、言われたのは『マネジメントしてくれる人がいた方がいい』ということでした。フリーランスになるとき、事務所に入らない選択肢もありますが、僕は事務所に所属させてもらって、今に至ります。
 これは小屋さんのような資産運用のアドバイザーの力を借りるのと同じで、その方が本業に集中できるから。周辺の交渉事は任せて、僕はイベント司会に専念する。餅は餅屋です。」

小屋「フリーになって4年経ちますね。今どう感じていますか?」

青木「この働き方が合っていると思います。その仕事を引き受けるか、引き受けないかを最終的に自分でジャッジできるのがいいですね。日テレ時代も上司がちゃんと面談して、自分の志向、やりたい方向性をくみ取って仕事をさせてもらえる恵まれた環境でしたけど、会社員である以上、ノーが言えない場面は必ずあります。その点、やる、やらないを自分で決められるのは、自分のスタイルに合っていると感じます。」

小屋「今後の目標はありますか?」

青木「50歳までに1000本のイベント司会をやることです。今、約300本なので、あと9年で700本。関西で帯番組『旬感LIVE とれたてっ!』をやっているので少しペースは落ちていますが、なんとか達成したいです。」


●資産運用とキャリアは別物。投資は75歳の自分に褒めてもらうために


小屋「青木さんが資産運用を始めたのはいつぐらいからですか?」

青木源太さん(以下、青木)「アナウンサーになって3年目、2008年からですね。リーマンショックの後です。たまたまでしたが、今思えば投資を始めるタイミングとしては良かったと思います。家族に金融機関の関係者が多かったのもあって、投資に対する抵抗感は元々なく「そのうち必ずするもの」だと思っていました。」

小屋「最初は株式投資ですか?」

青木「そうです。日本の輸出関連企業を買っていました。なんとなくですが、当時から少子高齢化が問題視されていたこともあって、日本の内需が先細りしていくと思っていたので、外国市場で稼いでいる会社、海外にシフトしていく企業に注目していました。ちょうどファーストリテイリングが海外出店の攻勢をかけている時期だったので、そういった企業に目が向きましたね。」

小屋「リーマンショック後の株価が回復し、アベノミクスにつながっていく時期でしたから株式投資を始めるにはいいタイミングでしたね。」

青木「リーマンショックについては、マーケットが崩れていてチャンス!みたいな判断はありませんでした。当時と今とで考え方が変わったんですが、20代の頃は「投資は余剰資金でやるもの」という考えだったんです。だから、社会人3年目でお金が貯まって、そろそろ株式投資をしてみようと思ったタイミングが、たまたまリーマンショックの後だったという感じです。」

小屋「2008年からということは、資産運用を始めて16年目ですね。日本テレビを退社されて独立したのが37歳、資産運用が独立を後押ししてくれたという側面はありますか?」

青木「そこはあまり関係なく、自分の中のキャリアとして日テレでやりたいことをやりきったので、独立しようと思いました。資産運用とキャリアは別物でとらえてます。投資は「75歳になった自分に褒めてもらおう」と思ってやっているので、資産ができたから独立しても大丈夫、という考え方ではなかったですね。

小屋「そうなんですね。ちなみに、今はどんなポートフォリオになっていますか?」

青木「米国株式インデックスと米国個別株を中心に、投資信託や債券、暗号資産、金などへ分散投資をしています。」


●信頼に足るアドバイザーが近くにいることの安心感

小屋「米国株をやってみようと思ったのはいつ頃ですか?」

青木「2010年にある証券会社の担当者に出会ったんです。僕の資産もまあまあ大きくなっていて、その人が担当としてついてくれました。向こうからするとたくさんいる顧客の1人だったとは思うんですが。彼は当時、外資系の証券会社にいて米国株に詳しかった。それで僕は総資産とライフプランを踏まえてどれくらいのリスクなら取れるのか、どのようにポートフォリオを組むかなど、その人から投資のあれこれを教えてもらいました。結果的に7、8年修行させてもらった感覚です。」

小屋「なるほど。ネット証券は使わなかったんですね。」

青木「今思えば、手数料が結構かかっていたと思いますが、それは授業料として考えたら、払った以上の価値があるものです。初心者向けの記事では、必ずと言っていいほど手数料の安いネット証券がお勧めとされていますが、それはどうでしょうね?つみたてNISAを設定するくらいは頑張って自分でできると思いますが、自分なりのポートフォリオを組みたい、個別株をやりたい、となってくると、アドバイスしてくれる専門家の存在に大きなバリューが出てくると思います。最近もまさにそうですが、いろいろなニュースが出て、大きな値動きがあるとどうしても不安になります。そのとき気兼ねなく聞ける人がいる安心感、それが長期の資産運用を支えてくれると思うんですよね。」

小屋「証券会社の担当者さんは情報を無料で提供し、その代わりに売買手数料を受け取っていたわけですが、僕たちはマネープランのアドバイスに対して報酬を受け取ることを仕事としています。お客さまと一緒にライフプランニングを立てながら、そのために必要なマネープランを提案して、取引はネット証券を使ってやっていただく、という仕組みなんです。」

青木「すごくいいですね。」

小屋「僕たちのように「アドバイスに対して報酬をもらい、商品は売らない」というスタンスのFPがいるということ、まだまだ日本では知られていないんです。」

青木「信頼に足るアドバイスをしてくれる人が近くにいるのはとても大事だと思います。資産運用はある程度その人にお任せして、自分は本業に集中することができますから。僕自身、今があるのは当時の担当者さんに気軽に聞ける環境があったからだと思っています。」


●来月のためじゃなく、30年後40年後のため。美容と投資はよく似ている

青木「2018年以降は、その担当者さんから離れてアメリカの個別株を運用しています。これは当時のTwitterでアメリカの企業の決算書やニュースレターを翻訳してくれる人たちが現れたからなんです。その中から「この人は信頼に足るな」という何人かをみつけたことで、状況が変わりました。例えば、日経新聞出身で今は独立されている後藤達也さん。日経時代にニューヨークからSNSを通じてどんどん情報を発信していて、日経の記者という安心感もあるし、添付されている資料も丁寧で、信頼できました。それは2008年には想像できなかったことです。」

小屋「そうですね。買った株がものすごく下がったとか、マーケットが崩れたといった経験はありますか?」

青木「ありますよ。コロナショックのときの、狼狽売りです。株式投資の世界には「頭と尻尾はくれてやれ」というように、さまざまな相場の格言がありますよね。あれは頭では理解できていても、やっぱり自分が体験してみないとわからないですね。コロナショックで保有株を売却したとき、自分では狼狽売りじゃないと思っていたんです。もっと下がるだろうと思って売る判断をした。でも結局、その後にコロナバブルで上がっていったわけだから、あれは狼狽売りだったんだなと。」

小屋「もしその時に担当者がいたとしたらアドバイスを聞いていたと思います?」

青木「もちろんです。失敗もしていますし、人と違う特別なトレードをしているわけでもありませんから。投資に関して、僕は自分の考えを広めたいという思いは一切ないです。自分の投資哲学を喋りたいとか、投資を勧めたいという気持ちはありません。ただ、ある程度の経験は積んできているので、金融系のイベントの司会はやっていきたいです。知識がある人間が進行した方が、イベントの充実度が上がると思いますから。」

小屋「たしかにそうですね。」

青木「自分の知識をひけらかすのではなく、いろいろわかった上で専門家の話を噛み砕きながら進めていく、そうすることでクライアントが伝えたいことも伝わると思うんです。最近もとある地方の金融機関の方々が一同に会するイベントのお仕事の依頼がありました。分野の一つとして、金融イベントにはこれからも積極的に関わっていきたいですね。」

小屋「そういえば、最初に「美容と投資には共通点がある」と言われていましたね。あれはどういうことですか?」

青木「例えば、僕は今日もしっかり日焼け止めを塗っているんですけど、これは75歳の自分に褒めてもらおうと思ってやっているんです。今日、日焼け止め塗ったから、保湿したから、といって明日急に肌がきれいになることはありませんが、でも、その一日一日を積み重ねていった最後には、絶対に大きな差が出るんです。積立投資と同じですよね。」

小屋「なるほど。時間をかけて効いてくる。」

青木「来月の評価額がどうなるかはわからないけれど、今月もちゃくちゃくと積み立てた方がいい。それは来月のためじゃなくて、30年後40年後の自分のため。だから、すごく似ていると思いませんか?美容と投資。僕は資産運用に関して特別なことはしていません。本業に力を入れ、入金力を高めて、長期、積立、分散の原則を守って粛々と進めていくだけです。」


【了】


株式会社マネーライフプランニング
代表取締役 小屋 洋一


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(情報提供を目的にしており内容を保証したわけではありません。投資に関しては御自身の責任と判断で願います。万が一、事実と異なる内容により、読者の皆様が損失を被っても筆者および発行者は一切の責任を負いません。)

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