【小説】ホースキャッチ2-7
夏になった。里紗は一人放牧場で馬を捕まえようとしていた。深緑の葉が生い茂る樹々の木陰で牧場にきたばかりの白毛の馬が草を食べている。樹々の足元では遅咲きのヤマユリがあちらこちら白い顔を出している。里紗は一歩一歩馬に近づいていく。馬は逃げない。里紗が隣に立つと、馬は草を食べるのをやめ、ひょいと首をあげて、里紗の方を向いた。里紗は無口をつなぎ、厩舎まで連れ帰った。馬は里紗の隣をゆっくりと歩いた。
厩舎に着くと、里紗はその馬に馬装をして馬場に入って行った。里紗は乗馬を陸人から時々習っていて、この頃には一人で駈歩ができるようになっていた。
「里紗、いいね。駈歩もだいぶ上手になってきたね」
里紗の騎乗を見ていた陸人が声をかけた。
「ありがとう。馬に乗るのはやっぱり気持ちいいね。最近やっと馬が気持ち良く走れているのか、無理して走ってくれているのか、何となく違いがわかってきたよ」
「お、馬の気持ちがやっと分かるようになってきたな。馬が気持ちよく走っていると自分も気持ち良いよな」
「ほんとそうだね」
「馬の動きを出来るだけ邪魔しない。脚やムチでの合図も必要以上に使わない。馬に乗っている自分の重みも出来るだけ感じさせない。だけど自分がここにいるということは馬にきちんと意識をさせる」
「人馬一体だね。とてもそうはなれなそうだけど、そうなれたら楽しいだろうな」
「そうそう、人馬一体。馬が自分と一緒になって動いてくれる感覚ってほんとに気持ちいいんだよなぁ。俺は教授のようにホースセラピーとか難しいことはよく分からないし、引き馬とか調馬索とかにどんな意味があるのかとかあんまり考えたことないけど、でも馬に触れて里紗が楽しんでくれて、それで元気になってくれるなら、もうそれ以上言うことないや。最高に嬉しいよ」と満面の笑みで言って、陸人は里紗の肩をポンと叩いた。
「教授にも瑛太にも陸人にもほんと感謝しかしかないよ。みんな忙しいのにこんなに時間を使ってくれて。ありがとう」と里紗はぺこりと頭を下げた。
引き馬、調馬索、乗馬と幾日もこなしていくうちに、それらは里紗に不思議な感覚をもたらしていた。馬はなかなか彼女の思い通りに動いてくれなかったが、それでも時おり彼女の合図や動きにシンクロして馬が動いてくれた時、里紗には自分の身体が外に向けて大きく開いていくような、身体が拡張していくような感覚が生じていた。それは自分と外の世界との境界線が曖昧になるような感覚でもあった。そのとき里紗には外の世界が確固とした手触りのあるものに感じられた。
「そういや、この前亮介に会ってさ。あいつもずっと里紗のこと心配しててさ、里紗がまだ仕事復帰していなくて、最近うちの牧場で馬の世話したり、馬に乗ったりしてるって話したら、すごいびっくりしてた」
「そうだよね。びっくりするだろうね。牧場に来る元気があるなら仕事行けって思っているだろうね」
「あいつ六月に籍を入れたんだよね。そしたら今月に海外勤務が決まったらしくてさ」
「へぇ。それは奥さんもいきなりで大変だね。でも海外勤務なんてすごいね。私も前は憧れたな」
「亮介も前から海外勤務はやってみたいって話してたんだよね。日本を代表する大銀行にいるくせにさ、日本の経済もいつ崩壊するか分からないから、グローバルに生きていく力を身につけなきゃとかあいつよく言っててさ。だったら外資でも行けばいいのにと思うんだけど、よく分かんないよな。俺なんて牧場離れるわけには行かないからさ。日本がダメになったら、その時は一緒に心中するぜって思っているけどね。確かに何が起きてもおかしくない世の中だから、本当にそういうこともあるかもしれないけど、俺、意外に日本も地元もこの牧場も好きだからさ、その時はその時だなと腹くくっているよ」
陸人は冗談半分に笑いながらも、内心は案外真剣に思っているような口調で言った。
「はは。そうかもねぇ。私も前は、自分一人が生き残りたいわけじゃないけど、日本や今の会社がダメになっても、自分一人でも生きていけるスキルや力を身につけたいとは思っていたな。誰かに頼ることなく生きていけるようにって。でも今はそんなに背伸びしなくていいんだって思えるようになった。誰かに、何かに頼ってもいいんだって思えるようになってきたんだ」
里紗も冗談めかして笑いながら言ったが、その笑顔には突き抜けたような清々しさがあった。
『いろんな馬とコミュニケーションしてみたけど、どの馬も、誰にでも平等なんだ。誰にでも平等に近づくし、平等に逃げる。いや平等というのもちょっと違うのかもしれない。何の思惑も、執着もないのかもしれない。
どの馬も私次第で同じように接してくれる。全部、私次第なんだ。ただ引き寄せ、引き寄せられる。ただ離れる、離される。それだけ。
私の馬を扱うスキルが上がったわけじゃない。そんなすぐにスキルは上がらない。うまく説明できないけど、私の中の何かが変わったんだ。優しくするとかしないとかじゃないんだ。エゴとかエゴじゃないとかでもないんだ。こうすべき、こうでなくちゃダメとかでもない。自然体でいようとか、愛でいよう、とかでもない。無理にこう考えようとか、無理に何も考えないとかでもない。
あぁうまく言葉にできない。
言葉にした途端、嘘になる何かが世界にはある。言葉にできないことわりがある。そんな気がする』
里紗は仕事を終えた馬をいたわるように、丁寧に馬装を解除した。ゆっくりと頭絡を外し、帯を緩めて、鞍を外し、ゼッケンを下ろす。汗で湿った背中を濡れたタオルで優しく拭き、全身にブラシをかける。馬のつやつやとして張りのある逞しい太ももが頼もしく見えた。蹄についた土をテッピと言われる道具で落として、水で洗う。蹄は馬の第二の心臓だと陸人に習ったので、特に丁寧に洗って、タオルで綺麗に拭いて乾かす。
最後に里紗は馬の背中を、太ももを、お腹をゆっくりと手でさすった。温もりのある皮膚の内側では横隔膜や心臓や動脈が力強く動いている。こんなに温かくて、大きくて、力強くて、けど臆病で、敏感で。いつか滅びる儚い命の重みを分かりやすく拡大して教えてくれているようで、その有り様は不動明王のように雄雄しく無言なのに雄弁で、菩薩のようにかたじけなくなるほど穏やかだった。
「よし、お風呂上がりみたいにいい顔してる。今日もお疲れ様。ありがとう」
里紗は馬を放牧場へ連れて行った。馬を引く里紗のなで肩で可愛らしい後ろ姿は、隣でトコトコ揺れている馬の大きなお尻に負けないくらい気がみなぎりつつあった。
馬や牧場の暮らしに向き合い続けることで、里紗の顔つきや眼差しには力が戻ってきていた。彼女の輪郭もはっきりしてきていた。彼女に対する馬の反応も変わってきていた。馬の反応が良くなると、それがさらに彼女に力を与えた。生命力と言われるものは単体で育まれるものではなく、命と命の繋がりや暮らしの循環の中で正しい力を得ていくのであろう。意志や知恵を伴う力を、優しさや理解を伴う力を。
牧場に通うようになって半年が過ぎた。
瑛太と教授は秋晴れの澄んだ空のもと里紗の調馬索を見ていた。
「馬の目に見えない力だね。美しいね」
教授は思わず笑みをこぼした。
「そうですね。とても美しいですね」
瑛太は少し目を潤ませ、満ち足りた笑顔で言った。
里紗の周りを馬が弧を描いて走っている。里紗はムチをふり上げることも、声を荒げることもなく、馬は伸びやかに、尾を空に舞い上がらせながら、踊るように走っている。馬はすっかり彼女の意志だけで、彼女の身体の一部のように動いている。馬の足音が刻むリズムは安んじた心臓の鼓動のように安定していてずれがない。里紗にも馬にもまったく力みがない。動的であると同時に静謐で自律する美しい独楽のよう。暖かい波動が外に向かって広がっていく。放たれた鷹が渦を巻いて大空に旋回していく。
そこでは物理的な力ではない別の力学が働いている。力ではないものが世界を指揮している。何も欠けたものがなく、何も無駄なものが無い。分離も、繋がりも、境界線も、全も、個も、概念としてすらも、無い。ただ在る、世界。
里紗は理解されるという感覚を得た。何もしなくても馬が里紗を理解した。それは里紗が里紗自身を理解したことでもあった。
『私は私をやっと理解した。等身大の私と世界は地続きなんだ。私はこの世界をありのままに信頼していいんだ。私は安心してここにいていいんだ。私は私が欲しいものをすでに持っていたんだ』
里紗が片付けを終えてベンチに座っていると、瑛太が近づいてきて隣に座った。里紗は清々しい笑顔をしていた。
「気持ちの良い秋晴れがずっと続いているね。幸せだわ」
「そうだね。去年は台風が酷かったけど、今年は全く来ないね。不思議なくらい落ちついている」
「私、十月が一番好き」
「俺は、四月かな」
高く澄んだ空に大きな龍のような雲が現れた。重なり合う太陽がちょうど龍の顔あたりに位置して、まるで龍の目のように見える。濃淡のある陰影がその雲に重層的な立体感を与えていて、その大きさを際立たせていた。しばらくすると龍雲は風に吹かれて他の雲と混じり合い、消えていった。
「今見えた? 龍みたいな雲」
「うん。龍雲だね」
「私、龍雲って好きなんだ。ていうか龍が好き。今年はよく見るわ」
「今年は外にいることが多いからね」
「父がよく昔から龍の話をしていてね。龍は実在するんじゃないかみたいなことをよく言っていたな」
「馬もそうだけど、龍も人との歴史が古いしね。それに実在しているかどうかよりも、出会うか出会わないかのほうが大事じゃない? 馬だってこうやって出会わなかったら、いないようなものじゃん」
「確かにそうね。知っているだけじゃ何の意味もないことって多いもんね」
里紗の横顔には晴れやかな笑顔が広がっていた。
「あぁ去年の今頃は苦しかったな。もう駄目かと思った。瑛太たちのおかげで良くなれた。本当にありがとう」
「馬たちのおかげだよ」
「そうだね。馬たちのおかげだね」
「教授じゃないけど、馬は鏡だから」
「本当だね。おかげさまで自分自身を見直すことができたよ。今までは目を背けていたんだよね。私、馬に乗ってゆらゆら揺れていると思い出すんだ。私ね小さい頃の記憶があるの。それも二歳とか三歳の頃のことも覚えているの。母親に抱っこされていた時の感覚やその頃に見た風景を覚えているんだ」
「俺もあるよ。生まれてきた時、あぁまたかって思った。また生まれてきちゃったよって」
「へぇ。私は流石に生まれてきたときのことまでは覚えてないな」
「俺さ、最近思うんだよね、俺たちってこの世界でわざわざ不完全さを経験するために生まれてきているんじゃないかって。だから辛いことや悲しいことは起きちゃいけないことじゃなくて、むしろあっていいんだって。悲しみや苦しみってずっと大昔から無くならないじゃん。でもそれは僕らが愚かだからじゃないんだよね、きっと」
「うん。私も最近そういう考えが少し分かるようになってきた」
二人は目を見合わせて笑った。
「さて今日も終わった。行こうか」
里紗はベンチから立ち上がり、柵に寄りかかって、誰もいない広々とした馬場を眺めた。馬場は静かだった。
里紗は馬場に足を踏み入れ、空を見上げた。雲の動く音が聞こえ、大きな龍雲がまた現れて、瞬く間に空の中へ消えていこうとしていた。里紗は微笑を浮かべて消えていく龍雲に語りかけた。
あぁ私は一体これまで何をしてきたのだろうね。ため息が出るわ。
でも、まぁいいか。
完
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