1964年のはかま満緒②
さて、テレビマン向井に見出された萩本欽一は、歌番組の生放送のCMコーナーに抜擢された。ところが、緊張のあまり、何度も失敗してしまうのだ。実に、19回、NGを出したのだという。ドラマでも、この伝説的なシーンが再現されている。怒鳴りつける局長に、向井は言う。
「萩本欽一は、いいコメディアンです。」
(「市川森一ノスタルジックドラマ集」より)
しかし、テレビで大失敗を犯したと自覚した萩本欽一は、失意のまま、浅草に戻ることになる。ところが、そこで、萩本の運命を大きく変える出来事が待ち受けていた。下宿先に、一本の電話がかかってきたのだ。その相手とは、二郎さん、つまり、坂上二郎だった。ドラマでは、片岡鶴太郎演じる坂上二郎が、コメディアンの道をあきらめ、故郷の鹿児島に帰ろうとしていたが、思い立って、東京駅から電話をかけてきた、という設定になっている。
坂上二郎は、もともとフランス座のコメディアンで、先輩格であったが、萩本にライバル心を燃やしており、ふたりのからみはいつでも緊張感があったという。その坂上が、失意の中にあった萩本に声をかけ、ふたりでコントをやろう、と言い出したのだ。「コント55号」の誕生の瞬間である。昭和41年のことだった。
ふたりのコントの特徴について、小林信彦はこう語っている。
「コント55号のコントにあるのは、二人の決定的な対立であり、断絶である。正気の世界にいる坂上二郎のところに、狂気の世界からきた萩本欽一が現れて、徹底的に小突きまわす。それは、とうてい、マスコミが名づけたような〈アクション漫才〉というようなものではなく、イヨネスコ的世界であり、その狂気は主とし て萩本の内部から発していた。」 (「日本の喜劇人」新潮社 1982)
ドラマ「ゴールデンボーイズ」の中で、市川森一は、と、大久保に通うはかま門弟ののひとりで、コント55号の作家ともなる岩城未知男とこんな話をしている。
岩城が、「あんなコントはいままで見たことがない。動きや喋りにまったく段取りってものが見えないんだ。」
それに対し、市川が、「でも、ボケと突っこみの役割り分担は、今まで通りなんだろう?」
すると、岩城は、「そこがちがうんだよ。ボケと突っこみの根本的な考え方が。確かに、ボケと突っこみはある。欽ちゃんが突っこみで坂上二郎ッて奴がボケなんだけど、坂上二郎のボケは・・・何ンて言うか、本当のボケなんだ」「欽ちゃんの突っこみが、何を突っこんでくるか、坂上二郎は何も知らないんだ、本当に。だから、いちいち本当に驚いているし、本当にあわてているし、本当にボケてるんだ。そこが面白いんだ。」
(「市川森一ノスタルジックドラマ集」)
萩本欽一は、コント55号として、一躍、時代の寵児となっていく。はかま満緒の門弟のうち、大岩賞介など数人が萩本についていき、作家集団「パジャマ党」を結成する。
「その後、坂上二郎と組んだ『コント55号』が大ヒット。そこではかまは、嫌がる欽ちゃんを、素人の投稿コントを紹介する番組に引っ張り出した。それが、テレビに新風を巻き起こすバラエティー番組に発展する。」
(「はかま満緒の放送史探検」)
昭和47年、ラジオ番組として始まった「欽ちゃんのドンといってみよう」は、視聴者からの投稿コントで成り立っていたが、これが人気を博し、その後、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」というテレビ番組に発展する。その後も、続々とテレビ番組を持ち、それらの番組の視聴率の合計から、「視聴率100%男」の異名を取ったのはあまりに有名だ。
コント55号としてひとり立ちしたそのあとも、はかまは、萩本欽一の良き師匠だったようだ。
ドラマに登場する門弟の中には、ポール牧もいる。これは陣内孝則が演じている。
ポール牧は、昭和16年生まれだから、萩本や市川と同い年である。ポール牧は、エノケンこと榎本健一に師事したあと、大久保のはかま満緒邸に出入りするようになる。そして、昭和43年、関武志と、コント・ラッキー7を結成し、テレビを賑わせていく。ドラマには登場しないが、伊東四朗などとてんぷくトリオを結成していた三波伸介も、はかま邸に出入りしていたひとりだ。何しろ、三波伸介の家は大久保にあって、はかま邸からは歩いて数分の場所にあった。今は、長男が二代目三波伸介を襲名しているが、この長男は、ルーテル教会の恵泉幼稚園の出身である。
同じ頃、市川森一にも、転機が訪れていた。子供向けドラマ「怪獣ブースカ」の脚本を書くことになったのである。「怪獣ブースカ」は、昭和41年秋から放映された、円谷ブロダクションの手による怪獣ドラマで、愛らしい怪獣ブースカが家庭に入り込んでくるというコミカルな設定だった。ここで、市川は、第四話を始めとする数回分の脚本を書いたのである。「怪獣ブースカ」は人気ドラマとなった。その後の市川の脚本家としての活躍は誰もが知るところで、私達の世代には、萩原健一と水谷豊主演の「傷だらけの天使」が衝撃的であり、忘れることができない。
「ブースカは当たった。そして間もなく、思いがけない評価を耳にするのである。
『君の脚本は、コメディーの要素があって面白いねえ』
コメディだって?確かにところどころに笑いを入れて話を展開させている。それはほとんど無意識のうちの手段である。
笑いのセンスのある書き手、という評判がテレビ界に広がっていった。テーマは暗く重いはずなのに、必ずどこかに笑いのあるドラマができる。それが森一の持ち味になったーそうか、あの1年は相当に強烈な修業だったのだ。」 (「東京伝説」)
はかま満緒邸から、多くの芸人やギャグが生まれていた同じ頃、大久保には、もうひとり、ギャグの世界に革命をもたらした人物が住んでいた。漫画家の赤塚不二夫である。
赤塚不二夫といえば、椎名町のトキワ荘があまりに有名であり、その後は、「天才バカボン」などにも登場する落合の事務所が話題となるが、トキワ荘を出たあと、いくつかの仕事場を転々としている。そのひとつが、大久保のアパート「第3さつき荘」である。このアパートは、大久保通り、大久保交番を明治通り側に少し進んだあたりを北側に入って路地を曲がった袋小路に今も残っていて、名前もそのままだ。
赤塚不二夫が「第3さつき荘」に入ったのは、昭和37年12月のことだった。その年の4月、「週刊少年サンデー」で、「おそ松くん」の連載が始まっていた。最初は、4回のみの限定のはずだった。
「それまでの漫画は落語調でテンポがのろかった。このテンポを早め、完全にスラップスティック調(ドタバタ調)でいこう、ということにした。どうせ4回じゃないか、思いっきり暴れて終わってやろうじゃないかという気もあった。子供の殴り合いに大人も加わって平気で喧嘩する、もうハチャメチャな世界を描いてみた。そしたら2週目、3週目になるにつれ、『4週だけじゃなく、もっと続けろ!』という声が出はじめた。それで4週が5週となり6週になって、ついに6年間続くことになった。」
(赤塚不二夫「これでいいのだ」日本図書センター 2002)
当時、赤塚は、27歳。それまでは、これというヒット作はなかったから、「おそ松くん」はまさに出世作で、一躍、人気漫画家になった。泊まり込みで手伝うアシスタントも増えた。赤塚は、トキワ荘を出て、より広い仕事場を探す。そのひとつが、昭和37年12月に入居した「第3さつき荘」だったのだ。
「紫雲荘からその近くの6畳、2畳のアパートへ。そこから新大久保の第3さつき荘へ。さらに藤子不二雄、石森章太郎ら新漫画党の連中がアニメをやりだしたときは新宿十二社へ。」(前掲書)
この十二社で、赤塚不二夫は、フジオ・プロダクションを設立している。
「おそ松くん」の大ファンだった作家の本橋信宏は、当時の少年サンデーの誌面に赤塚不二夫の住所の記載を見出し、大久保を訪ねることにした。とはいえ、連載当時からすでに50年近くがたっている。アパートはすでに存在しないだろう、とは思っている。当時の住居表示では、西大久保3-79、だという。個人情報の保護という考えがなく、作家であろうと、芸能人であろうと、住所が書かれていることは珍しくない時代であった。とにかく、かつての西大久保を散々うろつきまわるが、なかなか、第3さつき荘が見つからない。管楽器の修理屋があって、そこで職人の親子らしい二人組に尋ねてみると、こんな答えが返ってくる。
「『ああ・・・。赤塚不二夫、確かにこのへんで何度か見かけたなあ。』」
(本橋信宏「60年代 郷愁の東京」主婦の友社2010)
さらに、
「『赤塚不二夫・・・小さいとき、見た記憶があるなあ。昭和38年か、39年か・・・」
少しずつ、近づいてきたか。ところが、続けて、もう、「第3さつき荘」は、取り壊されてしまったのでは、というのだ。やっぱり・・・。実は、この本には書かれていないが、この管楽器屋と第3さつき荘は、目と鼻の先である。距離にすればおそらく数十メートルは離れていない。ただ、路地が一本だけ違う。
果たして、もう存在しないと思われていた「第3さつき荘」を発見するのである。
「マジックで第3五月荘と書かれた郵便受け、すぐ近くには昭和30年代に建てられたと思われる古びた建築デザインのアパート、赤塚不二夫が仕事場に使っていた第3五月荘が奥まった所にそのままひっそりと残っていたのだ。
(中略)
第3五月荘はいまだに現役で、人が住んでいた。日本中を笑いの渦に巻き込んだ震源地は、いまなお風雪に耐えてたたずんでいたのだ。」
(前掲書)
この第3さつき荘の窓の外の袋小路に、若き日の北島三郎が出入りしていたという話をどこかで読んだことがある。当時は、ちょっとした公園のようになっていて、そこで、近所のおばさんと世間話を交わしていたというのだ。残念ながら、真偽のほどはわからない。
昭和29年、17歳の時に北海道から上京してきた北島三郎は、当時、大久保に存在していた東京声専音楽学校に入学し、しばらくして、学校の近所に下宿をする。そこで知り合った大家さんの娘と5年後に結婚。もともと、声楽よりも流行歌志望であった彼は、渋谷あたりで流しをしながら、日銭を稼ぎ、腕を磨いていたという。そして、昭和37年、まさに、赤塚不二夫が第3さつき荘に越してきた頃に、レコードデビューを果たしている。昭和38年には紅白歌合戦にも出場する人気歌手にまでなった。この年に長男が生まれているが、昭和40年までは、妻子がいることは秘密にしていたらしい。私の母の話では、その長男と、私は遊んだことがあるという。お互いに、まだ物心つく前のことだから、記憶に残っているはずもないが、そう考えると、北島三郎は、昭和40年くらいまでは大久保にいたはずである。北島三郎が住んでいた家は、つまり、奥さんの実家であるが、この袋小路までは、歩いても3分程度だろう。散歩のコースとしてここに立ち寄っていたとしても何の不思議もない。赤塚不二夫が「おそ松くん」のペンを走らすその窓の外で、流行歌手になろうとしていた北島三郎が、ご近所さんと楽しげな会話を交わしているという光景が目に浮かぶ。
距離で言うならば、第3さつき荘とはかま満緒邸とは、やはり、歩いてもほんの数分の距離である。昭和37年から38年にかけて大久保で革命的なギャグを生み出していた赤塚不二夫と、若い芸人や作家を集め、新しいギャグを生み出していたはかま満緒、テレビと漫画、という、生まれたばかりのメディアが、一気に黄金期を迎えるその絶頂期に、大久保というギャグの磁場が確かに存在したのだ。さらには、歌の世界で頂点を極めることになる北島三郎も加えよう。テレビ、漫画、そして、演歌。ほとんど同世代の3人が、この時期、大久保の狭い三角形の中で交錯したのである。
「おそ松くん」には、テレビのギャグがおびただしく引用されていてることは知られている。特に、当時、矢継ぎ早に新しいギャグを当てていたクレージーキャッツの影響は大きい。泉麻人は書いている。
「このなかで、クレージーキャッツの存在は『おそ松くん』の世界とも密接に絡みついているといえるだろう。後述するけれど、作中クレージーのギャグや唄は頻繁に登場し、そもそも六つ子の編成にはクレージーの七人編成が重なるところがある。」
(泉麻人「シェーの時代」文藝春秋 2008)
若き日の赤塚不二夫とはかま満緒、ギャグに命をかけていたこのふたりは、ある時期、大久保の、お互いに目と鼻の先に住んでいた。果たして、このふたりに面識があり、交流があったのかどうかは定かではないが、それはさして重要なことではないだろう。「シャボン玉ホリデー」などで生まれたクレージーキャッツのギャグは、はかま満緒にも影響を与えたことだろう。大久保という磁場を媒介に、無意識的にであったにせよ、赤塚不二夫の世界にも流れ込んだのだ。
テレビ、漫画、そして、演歌、誕生したばかりの新しいメディアの旗手たちは、それぞれが大久保の片隅に流れ着き、そして、ここで、その可能性を豊かに育んで、大久保から巣立っていった。それだけではない。彼らパイオニアは、それぞれに弟子を育て、多くの人々に大きな影響力をもたらした。赤塚不二夫がその才能に惚れ込み、昭和50年頃、自宅に居候させてまで面倒を見ていたというタモリもそのひとりだろう。当時、孤高の密室芸人として怪しい光を放っていたタモリが、その後、テレビを席巻し、今や国民的な存在となってしまったのは、誰もが知るところである。
メディア、というのは、「媒体」という意味であるわけだが、この3人は、それぞれがまさに「媒体」となって、新しい才能を育てた。その若き日の一時期を、偶然にも、大久保という土地でともに過ごしたのである。大久保も、また、「媒体」であったのだろう。大久保とは、そういう土地なのかもしれない。新しいもの、異質なものがここに流れ着き、お互いに交わり、何かを生み出して、そして、また離れていく。昔も今も、大久保はそういう街だ。
はかま満緒がいつまで大久保にいたのかはよくわからない。おそらく、昭和40年代の初めには、この街を去ったのだと思われる。蔦のへばりつく教会はもう様子を変えてしまったが、大久保はいつまでも大久保であり続けるに違いない。