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小泉八雲と大久保小学校②
帝大を辞した一年後の明治37年、ハーンは、早稲田大学で教鞭をとることとなった。
その年の春、ハーンは、大久保小学校の父兄懇話会に呼ばれ、「西洋と日本の家庭教育」と題する講演を行った。普段は、この手の会に出ることを嫌うハーンが、この時だけは話を引き受け、家族を不思議がらせたという。長男・一雄によれば、片山という校長がハーン宅を訪れて依頼をしたといい、校長の特徴を生き生きと描き出している。
「一見して好人物であることが解る赤黒くテラテラした無髯の長い顔の持主で、たえずそのやや遼天の鼻孔をクンクンと鳴らす癖がありました。羊羹色のモーニングを着て大きな靴で内股にしかも摺足に歩く人でした。少し猫背ではありましたが、岩乗な体格の四十年配の校長さんでした。」 (前掲書)
大久保小学校が発行している創立100年記念誌「大久保」(1979)で確認すると、片山校長というのは、九代目校長の片山久吉氏のようだ。明治36年5月から2年ほど在任している。
講演の前後には児童たちの学芸発表や剣舞などが披露された。その後、ハーンは、校長に呼ばれ、教員室に入っている。そこで、西大久保村の村長、助役、他校の校長などにも紹介されたという。郊外の静けさを求めて、多くの文人が移り住んでくる数年前のことで、西洋人の帝国大学教授であるハーンが丁重に迎えられたことは想像に難くない。当のハーンも、機嫌をよくして帰宅したらしい。
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大久保小学校が開校したのは、明治12年である。この地区にあった3つの寺子屋式の私立学校を合併して開校したという。当時は、現在の位置より南側で、西大久保村252番地というから、学校の前の通りと職安通りとの角地、現在はコインパーキングになっているあたりである。当時提出された「設立伺」によれば、生徒数90名、教員3名、であった。 (「新宿区教育百年史資料編」1979)
明治17年には、初等科、中等科、高等科、の三科を併置されたが、明治19年の学制改革により廃止され、尋常科のみとなった。尋常科というのは、4年制であり、現在でいえば、小学1年生から4年生に相当し、当時の義務教育はこの4年間のみであった。
明治25年、校舎は、現在の場所に移転した。当時の住居表示でいうと、西大久保263番地であり、そのおよそ10年後に、ハーンが、隣接する265番に居を構えるのである。当時の大久保小学校は、増築を繰り返しており、敷地もどんどん広くなっていく時期であった。
次男の巌は、一足早く大久保小学校に入学していたが、長男・一雄は、翌年、大久保尋常小学校の4年生として転入する。また、三男・清が、ハーンが亡くなった頃に、入学した。その頃の、清の同級生だったという大野木克彦氏が、「大久保」に、文章を残している。大野木氏が大久保に引っ越してきたのは、明治40年代のことらしい。
「(前略)日露戦争間もなく、まわりには退役の軍人や恩給生活者などがなくて、生垣の内から謡の声や琴の音のとれるのんびりした住宅地であった。春がくると鶯が告げ、やがて名物のつつじが咲き、夏の蝉しぐれはほんとうに石にしみいるようであった。秋になると西向天神の下の田んぼが実り、冬は秩父風が砂ほこりを遠慮もなく障子にたたきつけた。」
また、同じ「大久保」の中では、卒業生たちの座談会もあり、明治38年に入学した中野寅二氏は、学校の様子についてこう語っている。
「入学した頃、今でも目に浮かぶのは校門から玄関まで大分ありましたが、その道の両側に桜が満開に咲いていたことです。非常に見事なものでした。私が入学したのは日露戦争の翌年でしたが、玄関に出征した人たちの写真と、兵器なども飾ってあり、その印象も忘れません。三年生位いの時から兵式体操などやらされました。戸山が原で兵隊のまねなどもやらされ、今の子たちと違い相当猛烈なものでした。」
大正に入ると、大久保界隈にも、戸山小学校、天神小学校、といった学校が開設され、大久保小学区の学区は、西大久保だけとなり、生徒数も一時的に減少したようだ。
その後、時代は、大正から昭和と移り変わり、大久保小学校は、体育教育でその名を知られるようになっていく。いわゆる「低鉄棒運動」というものが提唱されたというのである。「低鉄棒」とは、その後ほとんどの小学校の校庭などに設置されるようになった鉄棒のことで、これを作り出し、全国に広めたのが大久保小学校なのだという。もちろん、それまでも鉄棒というものは存在していたが、それは「高鉄棒」であって、飛びつきにくく、さらにはその高さから安全性にも欠け、幼稚園や小学校の体育には適していなかった。
すでにドイツで行われていた「低鉄棒運動」を日本にも取り入れようとしたのは、「ラジオ体操」の創始者ともいわれる教育者・大谷武一で、当時、大久保小学校の体育教師であった浅香四郎に命じ、実験的に実施することになったという。昭和7年のことである。
浅香は、その著書「体育王国大久保校」の中で、「低鉄棒運動」の特徴として、次の6点を挙げている。
「(1)誰にでもできる。
(2)興味が大である。鉄棒に上がってみたい。回ってみたい。下りてみたい。
(3)危険性が少ない。
(4)運動に変化が多い。
(5)知らず知らずの中に胸郭の拡張、そして身体の発達となる。
(6)安く設備が出来る。」
(浅香四郎「体育王国大久保校」明治図書出版 1980)
「低鉄棒運動」は全国の学校の注目をあびることとなり、十六ミリの記録映画にもなった。その後、全国の小学校の校庭に、低鉄棒が設置されるようなったのは、誰もが知るところである。
さらに、昭和12年、というから、まさに、二・二・六事件の年であるが、その年の6月には、「日本一の健康優良児」として、6年生の加藤出という児童が選出された。この話、私たちが在校していた頃も、散々聞かされたものだ。この加藤出の担任が浅香四郎であった。まさに、「低鉄棒運動」が実を結んだということか。加藤出の身長は158センチ、体重は46.5キロ、という記録が残っている。医学博士の父を持ち、その図抜けた体格から、同級生からは「おやじ」などと呼ばれていたという。
「日本一の健康優良児」とは、朝日新聞社が主催し、文部省の後援を得て、1930年に開始された審査会で、全国の小学6年生を対象にして、体格や運動能力などに優れた児童を選出するというもので、何と、1978年まで続いていたようだ。
大久保小学校は、太平洋戦争を迎えた。学童集団疎開では、草津へと行ったようだが、昭和20年4月14日の空襲で、校舎はすべて焼かれてしまったという。その後も、校庭に作られた防空壕で勉強をした、などという記録もある。
そして、戦後を迎えた大久保小学校は、近隣の小学校などに間借りをしながら、授業を再開し、新しい校舎の建設を進めた。昭和21年から23年にかけては、新校舎も落成し、続いてプールの使用も再開、また、運動会も挙行された。現在の校名である新宿区立大久保小学校となったのは昭和22年のことである。
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その後、日本は高度経済成長を迎え、その真っ只中に、私も大久保小学校に入学する。そして、入学のその年に「耳なし芳一」の絵を目にするのである。もちろん、その頃には、ハーンの屋敷は存在しておらず、その跡地には、「なかよし堂」という小さなおもちゃ屋さんがあった。その店では、プラモデルを買ったり、その頃流行っていた切手を買ったりした。ご主人は、優しそうなおじさんだった。小学校の正門前には、もう一軒、「たち」という名前の文房具屋さんがあった。店番をしていたのは、おばあさんだったと記憶している。文房具屋さんとはいえ、プラモデルなどのちょっとした玩具も売っていたことから、子どもたちの間では、「なかよし堂」のおじさんと「たち」おばあさんは、道ですれ違っても挨拶はおろか目も合わせない、と噂されていたものだ。商売敵というやつである。ところが、噂はそれだけにはとどまらなかった。この2つの店舗、仲が悪いと見せかけて、実は地下道でつながっている、というのだ。ここまでくると何が目的なのか皆目見当がつかないが、もはや立派な「都市伝説」であろう。怪談や民話を収集してきたハーンの敷地をめぐって、こんな都市伝説が誕生していたことはちょっと面白い。
ただし、「学校の怪談」や「トイレの花子さん」など、いわゆる都市伝説という概念が生まれ、おびただしい本やドラマ、映画になったのは、平成になってからである。もちろん、学校では、いつの時代でも、怪談が生まれ続けてきた。真夜中、音楽室のベートーヴェンの肖像画が動いたとか、トイレで死んだ児童の霊が現れる、とか、学校は常に不可思議な現象の発生現場となってきた。
ハーンが興味を抱いていたのは、もちろん、古くから伝わる日本独特の民話であり、伝説であって、同時代の新しい「伝説」、それこそ「都市伝説」ではなかった。おそらく、そんな考えさえなかったろう。
少年少女時代の記憶というのは不思議なもので、本来、ひとりひとりのものであるはずなのに、それが、時間を越えて、場所を越えて、多くの人々と共有化していく傾向にある。今になって思い返す少年時代には、さまざまな記憶があって思い起こすことができるのだが、果たして、本当に、それは私自身が体験したものなのか、それとも、他人が体験したものを、あたかも自分のもののように記憶してしまっているのか、判然としなくなることがある。特に長い年月を経ると、記憶はいつのまにか集団的な記憶へと吸収されてしまうかのようだ。例えば、それは、同じ地域の子どもだち、そして、やがて、同じ時代を過ごした同世代の子どもたちのものと混ざりあってしまう。記憶というものは意外と不確かなもので、時を重ねるにしたがって都合よく塗り替えられてしまうらしい。それだから、根も葉もないことまで、自分の記憶としてまとめ上げられてしまう。
小学生の時に私が見たはずの展覧会の耳なし芳一の絵、間違いなく私が見たものだったのだろうか。というのも、10年ほど前だったろうか、同じ絵を見た記憶がある、という当時の同級生に会った。その人も、私と同じような強い印象と記憶とをこの絵に抱いたまま大人になっていたのだ。もちろん、同じ絵を見て、同じ印象を抱いたと考えるのが当然のことだろう。長いこと私が、自分で見た、と考えていた記憶も、この同級生の記憶も、もともと誰かの記憶だったのではないだろうか。いや、それどころか、絵そのものは存在せず、ただ、その記憶だけが、私たち同級生の頭の中に焼きつけられたのではないかとさえ考えてしまう。そう思い返してみると、あの絵は、小学生が描いたにしては出来過ぎではないかという気さえしてくる。同じ時間を共有した同級生の記憶の中に生み出された絵が、あの、耳なし芳一の姿だったのではないだろうか、と。
私が見た芳一の絵が、例えば、時間軸の中で醸成された記憶だとすれば、「都市伝説」は、同じ時代であっても、広く、地域や、時には日本中、と、空間軸の中に広まっていく記憶なのだろう。「口裂け女」などはまさにその例だ。もちろん、時間軸だの、空間軸などと言ったところで、そこは明確に分類できるわけでもないだろう。それでも、学校という磁場に発生し、空間軸で広まるのが、「学校の怪談」であろう。
学校の怪談について、この分野の先駆的研究ともいえる「学校の怪談」の中で、著者の常光徹は書いている。
「学校の怪談を収集していて興味を惹かれるのは、よく似た話が広範に分布していることである。もちろん、話が類型性を持つのは口頭伝承では普通に見られる現象で、それ自体特別なことではない。ただ、学校の怪談の面白さは、それがおもに児童・生徒層を核に学校という場が伝承や話の要員として深くかかわりながら口承のネットワークを形成している点である。その特色の一端はすでに述べてきたが、個々の話の伝承が広い分布地図を描くのは、学校という学習や生活の共通の場が基本にあるからだろう。全国どこでも、たいてい同じような学習や活動がみられ、教室をはじめ体育館やプール等の施設も整っている。そうした状況は、他の学校であった話でも身近に引き寄せて受けとめ共鳴できる下地であり、ときには、他校の話を自分たちの学校の怪談として違和感なく仕立て上げ、語り継いでいくことを可能とする。」(常光徹「学校の怪談」ミネルヴァ書房 1993)
また、常光は、近著の中で、このような書き方もしている。
「学校では、基本的には全国どこでも同じような学習活動が行われており、教室はもちろん体育館やプールなど必要な施設はすべてととのっている。音楽室には、かならずピアノがおいてあるし、まわりの壁には有名な作曲家の肖像画が貼ってある。理科室の棚には各種の標本箱がならび、教室のすみにはガイコツの模型や人体標本が立っていたりする。かりに、よその学校であったとされる話でも、それを自分たちの身近な出来事のように共感できるのは、彼らをとりまくこうした共通の学習環境や生活が背後に横たわっているからであろう。それがときには、耳にした他校の怪談を、まるで自分たちの学校であったかのように違和感なく仕立てあげていく素地でもある。」(常光徹「うわさと迷信」河出書房 2016)
そう考えると、時間軸であろうが、空間軸であろうが、学校という磁場は、その性質上、都市伝説や、集合的な記憶が発生しやすいということだろう。
ハーンが、学校の隣に屋敷を構えたのは偶然としか言いようがないが、その偶然が、数十年後の少年少女の生み出す新しい伝説の舞台となっていたというのも面白い。今、ハーンが生きていたら、こんな「都市伝説」も収集していたのだろうか。そして、私の見た「耳なし芳一」の絵が実在しなかったとしたら、これほど楽しいこともないような気がする。
そんな大久保小学校に隣り合った敷地で、ハーンは最期を迎える。
ハーンが亡くなったのは、1904年(明治37年)の9月26日である。狭心症、まだ54歳の若さだった。
ハーンの葬儀の様子を描いた小説がある。山田風太郎の、いわゆる明治もののひとつで、「明治バベルの塔」に収められた「いろは大王の火葬場」がそれだ。牛鍋屋で成功した木村荘平が新たに始めた火葬場のこけら落としをめぐる話である。なかなか最初の火葬が決まらず、有名人の訃報などを聞きつけては社員を奔走させるのだが、社員のひとり、赤堀は、ハーンの死を聞きつけ、西大久保に出向く。ハーンが亡くなった翌日の、9月27日のことである。
「あまり暑いので、ほかに通る人影も見あたらず、このあたり有名な植木の村らしいが、その樹々もグッタリしているばかりで、働く百姓の姿もない。ただ遠く近くから、波のような蝉の声がしている。」(「明治バベルの塔」ちくま文庫)
赤堀は、異人さんのお屋敷だから、てっきり洋館だとばかり思っていたが、
「その家も、洋館などではなく、ふつうの日本家屋、それも昔ながらの家で、古い門さえあった。」(前掲書)
赤堀は、受付を任されていた早稲田の学生に、
「『私、かねてから先生に可愛がっていただいたもので。』」
などと声をかけ、火葬場の売込みを始めるのだ。そこに現れたのが、ハーン夫人、つまりは、節子である。節子は、ハーンの思い出を語り出し、ハーンの心情として、
「『どんな火葬場がいいか、そんなことまで指図はしませんでしたけれど、私、あの主人の心を考えますと、そんな、煉瓦のカマにレールで運びこまれるなんて新式の火葬場で第一番に焼かれるなんて、そんなことを望んでいたとは思われないのです。みなさんは、どう思いでしょうか?』
『その通りです!』」
などと声を出され、さらには、ひとりの学生に、
「『ハーン先生は怪談がお好きだったから、そんなことをされたら、化けて出られます!』」(前掲書)
とまで脅かされる始末だ。実は、この学生は、のちの北原白秋だった、という落ちまでつく。赤堀は、ほうほうのていで、追い出されるのである。
白秋は、1904年、つまり、ハーンの死んだ明治37年に早稲田大学高等予科に入学している。早稲田大学の関係者に関する研究を行う関田かをるは、白秋がハーンの講義を聴講した可能性は高いとしている。(「小泉八雲と早稲田大学」恒文社 1999)
とはいえ、山田風太郎は1922年、つまり大正11年の生まれだから、明治の西大久保を知っているはずもなく、もちろん、白秋のくだりも、完全なるフィクションであり、町の風景も、ハーンのお屋敷も、風太郎の創作である。ただ、この村に植木屋が多かったという事実など、さすがに、当時の大久保の風景を見事に描き出している。
ハーンの実際の葬儀は、9月30日に、生前愛した自證院、通称「瘤寺」で営まれたという。そして、雑司が谷墓地に葬られた。
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ハーンの墓所の近くには、皮肉なことに、夏目漱石の墓もある。いわば商売敵でもあったふたりの文学者は、ハーンの敷地跡にあった店同士のように、今ではもう、墓の下、いや、草葉の陰で、顔を合わせ、手を握り合っているかもしれない。