顔が変わることはあるのか?

「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を観た。印象に残った場面は多々あるが、感想より何より「なぜ三島はあれほどにカッコいいのか?」という問いに行き着いてしまう。 

決して三島の顔は、整っているわけでもない。それほど高身長なわけでもない。が、現代の顔の整った若者が、どれだけおしゃれな美容室で髪を切り、ブランド物で身なりを揃えたとしても、到底及ばないであろう圧倒的なカッコよさを感じた。

同様のカッコよさを感じたのが、ビートたけしの謝罪動画だ。Youtubeで400万近く再生されるので観たことのある方も多いかもしれない。三島にしても、ビートたけしにしても、いわゆる「オーラ」と呼ばれるものを画面越しでもひしひしと感じる。

なぜ、あんなにかっこいいのかという冒頭の問いに戻るが、それは、自分の行動に対する「覚悟」があり、自分の言葉に対して責任を負う「覚悟」があるからだろうと思う。例えば、三島は、900番教室で東大全共闘と議論を交わした1年後、市ヶ谷駐屯地で、自衛隊に対して文字通り「命を懸けた」演説をした後に割腹自殺をした。

自分の命を犠牲にしてまで伝えたかった言葉、彼の語った言葉には、それほどまでの熱情がこもっていた。そしてその熱情を相手に伝えるには、自分の体を犠牲にするという方法しか取りえなかったのだろうと推察する。

東大全共闘との議論の中でも、三島は次のように語っていた。

「あたくしが行動を起こすときは、諸君と同じように、結局は非合法でやるほかないんだ。非合法で決闘の思想において人を殺ればそれは殺人犯だから、自分もお巡りさんに捕まらないうちに自決でも何でもして死にたいと思うんです。」

映画の中でも「予言のように語っていた」と表現されたこの文章に、三島がなぜかっこいいのかと理由が集約されているように思う。つまり、自分の言葉に責任を取り、かつそれを行動で示した男であったということだ。(規模は違えど、ビートたけしのフライデー襲撃にも似たようなことが言える)

この映画を通じて、かっこ良さというのは、「覚悟」が生み出すものなんだろうということを一番に感じた。よく考えてみれば、自分がカッコいいと思う人間は、自分の仕事に対してプライドを持ち、自分を律し、その業界で成り上がるという熱情を持った人だなぁと。一方、自分自身が全くそういう人間ではないので、いつか、そうなれたらなぁと少しばかり思わせてくれる映画でもあった。


最後に、この映画でもう一つ三島の語った言葉を挙げたい。

「そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。」

この言葉がとにかく好きだ。相手の本気の言葉を認め、自分の言葉を本気でぶつけた後の、この言葉。まるでボクサーが試合後に健闘を称えあって抱き合うような、爽やかな印象を抱かせる言葉だと思う。




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