【前編】頴娃町・番所鼻公園内にあった廃墟が、どのような道すじを経て解体実現に至ったのか、約10年に渡る公民連携の取り組みをふりかえる。
鹿児島県 南九州市頴娃町、番所鼻公園。
(えいちょう ばんどころばな公園)
東シナ海越しに開聞岳の雄姿を望み、伊能忠敬が絶賛したとされる風光明媚な景勝地。昨今、行政による整備が進み来訪者が増加する中で、公園の中に廃墟が放置されたままとなっていたことが長年の課題だったのですが、なんと数か月後に撤去される運びとなりました。
(解体が決定した、旧番所会館)
公園内でタツノオトシゴハウスという観光施設を営む私にとって、課題であった廃墟の解体が決定したこの事実は、過疎地の公園で起こった奇跡ではないかと思いつつ、でもいろいろな要素が絡み合った必然かも…という気もしています。
そんな番所鼻公園で起こっている変化を、公園関係者としての主観的な愛情と、移住者としての客観性という距離感の違う2つの視点で、ふりかえってみたいと思います。
番所鼻公園の不思議
番所鼻公園内には、複数の建物があります。
これらの建物の大きな共通点は、市から土地を借りて民間が建てたものということ。
公園内に民間施設が複数建っている事例は、そうあることではないので不思議だなあと思い、それぞれの開設時期を調べてみたところ、以下の順になっていました。
(番所鼻公園内での、それぞれの位置関係)
なんと、公園の開設より先にいせえび荘が建てられたという事実が判明!
公園に民間施設がある背景
いせえび荘や旧番所会館などの民間施設の影響で、番所鼻周辺に来訪者が増えつつあったことから、後から公園に制定されたというのが背景みたいです。
もっとも公園内に民間施設という位置づけは行政的に難しかったのか、実は公園エリアは民間施設を微妙に外れる形で設定されています。
説明のしやすさから、つい「公園内に民間施設がある」と表現しがちですが、正しくは「公園の脇に民間施設がある」となるのです。
伊能忠敬が絶賛したとの石碑まである場所なので、景観の美しさは折り紙付きだったものの、あまり日の目が当たることがなかった番所鼻。
それを見いだし行政から土地を借りて、宿泊施設を建設。その後公園誘致を果たしたとしたら、いせえび荘初代社長は、相当な行動力の持ち主だったと思います。
(奥に見えるのは、薩摩富士 開聞岳)
公園における公民連携の走り!?
1980年代には、公園内に開設された3つの施設が宿泊や宴会、食事の提供を行い、その中で多くの結婚式が挙げられ、地元住民の利用を中心にかなり賑わっていたようです。
いせえび荘は自身のビジネスのためとは言え、頼まれもしないのに公園内の清掃を行ったり、行政・議会・地域との繋ぎ役を担ったり、発信役を果たしたりと、民の立場ながら公園の運営に主体的に関わってきました。
番所鼻公園は公と民の連携が開設当初から運命づけられており、公園における公民連携の走りとも言えるかもしれません。
その当時、平成の大合併前の頴娃町に先見の明があったのかはともかく、公園における公民連携の象徴ともされる東京の日比谷公園の中に民営のレストラン・松本楼があるような事例が、1970年代に九州南端の地で生まれたことは、称賛すべきことと考えます。
しかしながら、過疎化の進展に伴う人口減少、外食やレジャーなどサービスの多様化の流れの中で、番所鼻公園への来訪者は次第に減少。施設の閉鎖も相次ぎ、私たちが移住し、この地に拠点を構えた2010年頃には、いせえび荘のみが残る寂しい公園となっていました…。
タツノオトシゴハウス開設と、市と県による公園整備
いせえび荘が所有していた旧竜宮苑を借り受けるかたちで、私たちは2008年にタツノオトシゴ養殖場を立ち上げ、2010年に観光養殖場タツノオトシゴハウスを開設しました。
ありがたかったのは地元や行政がこうした小さな芽を摘み取ったり静観するのではなく、積極的に支援してくれたこと。
中心になったのはいせえび荘の2代目社長で、頴娃観光協会会長を務めるとともに、まちづくり団体・NPO法人頴娃おこそ会を立ち上げた西村正幸氏をはじめとする頴娃おこそ会のメンバーたちでした。
タツノオトシゴハウス開設を地域活性化のチャンスとみた西村氏らは、観光協会を通じた資金拠出に動き、頴娃おこそ会メンバーの手弁当での応援を促し、公園内にタツノオトシゴ・幸せの鐘の建立が実現しました。
(デートスポットとして、人気の場所に)
こうした動きに呼応するかたちで、市と県による景観整備事業が誘致され、2011年には広場や遊歩道、駐車場などが誕生。その後も展望デッキやトイレ、休憩所などが整備されていきました。
そんな地域や行政の後押しもあって、タツノオトシゴハウスはなんとか生きながらえており(!)、またいせえび荘も3代目社長への経営引き継ぎや次男のUターンなどを経て、経営の若返りも進んでいます。
少しずつではあるものの、様々な人が関わりながら公園を拠点にしたビジネスがきちんと回っていることは、なんともありがたいことです。
(完成記念のお祝いの様子)
さまざまな努力
こうして、番所鼻公園は賑わいを取り戻し始めます。
地域メンバーが公園発信のためにパンフレットやマップを作成したり、ばんどころ絶景祭りを開いたり。公園へのベンチの寄贈や、周辺の海辺での自然体験プログラムの提供。また付近での海岸遊歩道整備に動いたり…。
2010年の整備前は、推定値で年間1万5000人程度だった来訪者ですが、2012年には年間7万人、現在では8万人と大幅に増加し、0から始まったタツノオゴシゴハウスの来訪者も、年間5万人に達しました。
(年に1度開催される、ばんどころ絶景祭りの様子)
劇的な変化のうちにある、地域の内なる活動
頴娃町内外の方から度々、「番所鼻公園は劇的に変化した」と言われます。
その際に2010年以降のタツノオトシゴハウスの開設と、その後の行政との連携に取り組んだ成果、との評価を頂くことが多いです。
そのため講演会や研修会などでは、ついつい自身が関わった2010年以降の変化についてお話させて頂くことが多いのですが、実はそれ以前からの地域での活動にこそ真価がある…!と常々感じています。
地域での劇的な変化というものは、ある日突然起こるものではなく、長い年月をかけた静かな水面下での、息の長い内的な活動が要因となって誘発されたものであるはずです。
もちろん外的要因によって一気に引き起こされる変化もありますが、それらは地域に受け入れてもらうためにかなりの努力を有したり、持続せず元に戻ってしまうという副作用を生みがちです。
番所鼻公園の活動の評価は劇的な変化にあるのではなく、地域での長年の努力を土台として化学変化が起こったことであり、そして10年近く経った今も進化を続けていることにこそあると思っています。
こうして公園内の長年の課題であった番所会館問題に関心が向かい、解決に向けて動き出す環境の素地が整い始めました。
もちろんここから解体決定までにはまだまだ幾多の動きがありますので
(行政と地域の連携や、ガバメント・クラウドファンディングの導入など)
その辺については次回へ。