日本における現代フェミニズムの支配的価値観 後編
このnoteは後編です。先に下記の記事を読むことをオススメします。
3 フェミニズムの現在と未来
日本におけるフェミニズムに携わる運動家などの根底の部分について、マルクス主義的な部分が実に色濃く残っていると考えられる。というところまで、前回述べた。
しかし、それはせいぜい運動家などにとっての話であり、そうでない人々にとっての話はまだ終わっていない。彼ら彼女らはマルクス主義フェミニズムの影響を直に受けているわけでもなく、なんなら拒否してそうなくらいだ。特に近年の過激なフェミニズム運動における、表現やコラボ商品に対する炎上や規制は、単に反対勢力を超えて忌避感情を生んでいるのではないだろうか?
マイメロの件が先日炎上していたが、マイメロやサンリオといった、一般層にまで幅広くファン層がいるだろうものにすら炎上するところに至るところまできている。単に男性やオタクと言った利害対立が激しいところだけではなく、実に一般的で広汎なところにまで紛争が及んでいる。
そういった姿を見て、より多くの人々がフェミニズムそのものに嫌悪感を抱きはじめているだろう。マルクスどころかフェミニズム全般すら忌避されそうな勢いとなるものなら、それは支配的価値とまで言えるのだろうか?
そんな大きな疑問がある中で、マルクス主義フェミニズムがいかようにして、より広く他人に影響を与えているのか?そしてそれはどうして絡んでくるのだろうか?普通に考えたらそんなものは関係ないのではないか?
そう思うのだが、かといってフェミニズムの価値観全てが完全に否定されているかといえばそうでもない。未だに真のフェミニズムだとか本物のフェミニズムだとか言っていたり、後でも書くがそんな昔のような男女の生き方を求めるかなんて言われてもそんなこともないだろうと。
じゃあ、どこかに認めている価値もあるのではないか。そこを見つつも男性差別論を見てきた上で、何かどこかに共通する部分があるのではないか?
そこを考えたときに、一つの「器」のようなものが思い浮かんだのである。それは
半永久的なマルクス主義フェミニズム
である。これは、私自身がオリジナルで作った方向性を示すワードではあるため、他人からすればいきなり言われても定義がはっきりしないだろう。それなので説明を要するとは思うが、定義に行きつくまでに、この思想に至った帰結や過程について述べる必要がある。
(1)インテリの理想と現実
この思想の方向性は、人々が意図して狙ったというわけではないだろう。政治家やアカデミシャンなどとしても本当は欧州のようなレベルのものを作りたかったところもあるだろう。また、中には女性とも対立するような主張を繰り広げながらも、理念を追求する者もいる。本当にこれから書くような内容を最初からすべて理解し、かつ実行する意図を持っているものは、上のレベルの者でもほぼいないといっていいと思える。
インテリだって、最初のころくらいは理想に近づこうと努力はしただろう。男性も女性も同じような権利を得、対等な関係を作ろうとしてきてはいただろう。そのために法制度も作ったのだし、色々なところに人やお金を入れ、社会の変革を実現させるためにやってきたわけだ。
だが、現実はそれほどうまくいくものではない。本当に理想的なフェミニズムが完成することはないだろう。日本においては長い時間をかけても役員などの女性比率を上げることどころか、女性の主体性にかかわる様々なものですら、女性にすら受け入れられていない。身内からもかつて目指した思想に関して、自ら否定的な意見をぶつけられるようなこともある。現実は理想通り進んではいない。
また、いくら理想が完全な平等というのであったとしても、そんなものを示すことはできないだろうし、提示することは誰もできていない。各事象をすべて均一化して誰もが同じようにするということ、各事象の重みも逐一数値化して比べようとすること自体が不可能であり、神でもなければそれを示すことはできない。共産主義とて、革命が成功した状況というのを示すことはついにかなわなかった事も、その証明の手助けをしている。
インテリはその理想がかなわないことを知っているのだ。更に都合の悪いことに、色々なところで自分たちが作ってきた論理について、一般人にもだんだんとその論理的誤謬を指摘されるようにもなってきている。
それだってわかっているだろう。だが、簡単にはそのことを認められないし、今まで得てきた権力も手放すことや、間違いを認めることも難しい。
しかし、変革や明らめといったものがなく、自分たちの立場にしがみついたりする先は、腐敗という歴史が何度も見てきた光景である。
(2)大衆の求めるものとの不一致
また、大衆側もフェミニズムのような思想をすべて受け入れようとしているわけではない。過激なものは当然として、そもそも原理主義的なフェミニズムというのは、ある意味宗教的な禁欲主義と同じようなものである。
本当にフェミニズムを実現するのであれば、女性にも男性と同じような行動を求める必要がある。時に軍役につき、時に男性と同じように力仕事をすることなど。女性にとって不向きなことでも行わなくてはならないことは言うまでもない。
だが、皆が皆そういったことを望んでいるわけではない。
労働に関しても、女性側からそこまで働きたくないから、専業主婦やパートになりたいという人(というか実際になっている人)も一定数いるわけでもあるし、そもそも向いてないことをしたいと思わない人もいるだろう。
もちろん、女性の自由意思を尊重するのであれば、上記のような考えを認めるべきであるだろうという意見もある。
だが、アファーマティブアクションのような結果平等を求める立場からすれば、ほぼ確実になり立ち得ない考えである。同じだけの数を集めるためには、同じだけのことをする人が必要である。しかし、個々人がバラバラに動いていては、全ての分野に人を揃えることが不可能となる。
特に、労働関係の話で典型的な事例として、いわゆる3K職場といったような肉体的な労働の傾向が強い職場の男女比なんて言うのは典型的なものだ。こうした部分を誰か是正しようとしただろうか?大衆は進んで理念実現のために動こうとしただろうか?現在でも比率的にほとんど男性に偏っていることがその答えである。
自分たちの利益になるのならまだいいのだろうが、そうでない部分はできれば受け入れたくない。残念だが、人間というのは少なからずそういった部分も持っている。
人間臭くてどうしようもないような部分でもあるが、義務・責任・負担を避けておいしいところをを手に入れるために、色々な例外や理屈、時には不正に手を出してなんとか逃れようというのはフェミニズムに限らず珍しい話でもないだろう。いつも男性特権と大きな声を上げている人たちにとっては、特にそういった既得権益や利益の維持という項目に関してだけは、よくわかっているはずだ。
4 理想が駄目なら妥協するべきだが・・・。
(1)理想と現実の妥協の失敗
では、双方の主張が合致していないというのなら、何らかの形で妥協する必要がある。物事はいつも理想通りいかないというのはその通りとして、人間はそういった場合に折り合いをつけるという選択肢を選ぶことができる。
折り合いをつけるといっても様々な方法があるだろう。一方に不利益な点については何らかの補填やインセンティブをつけること、権利の増加・制限を受けること、一定のライン以上までは許されるか許されないかというラインを決めることなど。複数のアプローチがあるだろう。
これを男女関係に当てはめることをするもでき、いくつか例えを出すとするなら
まあ、もちろんこれを実現すべきといっているわけではない。あくまで例示的なものであり、考え方の一つとして割り切ってもらえばいい。こんな感じで提案してどこで妥協するべきだろうか?どこでお互いに何とか我慢できる範囲を決定するか。そういう取り決めも極めて民主的なアプローチであり、討論や議論で得られる帰結なのである。が、
この妥協こそが最もフェミニズムが不得手な分野なのだ。
考えてもらいたい。第一にマルクス主義の考えを持っている存在からすれば、階級闘争という前提がある故に特に男性に対して妥協という概念を抱くことは非常に困難である。
なぜなら、革命はいまだに達成していない段階であり、構造そのものがなくなっていないのに、相手に譲歩することは考えられないし、相手の利益を考えること自体が敵対的な行為だ。彼ら彼女らが男性差別というものに対して、極端に冷淡で否定的かつ利益を与えないという態度をとっている人々からすれば、これを覆すことは難しい。
また、大衆側からしてもできれば自分が不利になるものを避けて通りたいとなれば、簡単に否定するわけにもいかない。場合によっては、今ある権利 まで失ってしまうかもしれない。
勉強が出来て高い職に就けたのに、そこから強制的に降りさせられる女性がいくらいるだろう?もっといえば、就業に制限を受けることを今の女性はどれだけ望むのだろう?折角手に入れた避難場所としての区域をなぜいきなり負担を負わなくてはならなくなるのか?または失うような結果を受け入れなくてはならないのか?
そう考える人が多くいても不自然ではない。せっかく手に入れたものを失いたくはないという心理が発生することは、ごく普通のことだ。古い保守的な女性的価値観が今更戻るのか?と考えれば、そうは思うまい。
だが、あまりに妥協しないで価値を求め続けても何も決まらない。大衆もフェミニズムも、下手に妥協すれば、制度運用が混乱するケースもあれば、今までやってきたことすらも間違っていたのではないかといわれかねない。そうなったら、フェミニズムそのものや大衆が得てきた権益が崩壊する可能性だってあるだろう。
そうだとしても、普通ならどうにもならないのなら何かを諦めるしかない。やむを得ないが、こう考えるのが普通だ。だが、特に強硬に反対するフェミニズムやリベラルにとってはそれでも受け入れられない。その態度は、平等、妥協を求めるというには、あまりにも不向きで邪な考えであるとしか言えないレベルでである。
なんとしても妥協しない方法はないだろうか?どうすればこの構造を維持できるだろうか?そんなことを考えていたら、誰かが浮んだのかもしれない。いや、浮ぶと言うよりはそこに導かれたかのように動いたか、はたまた動かされたのかもしれない。「階級闘争の維持」をするということを。
(2)階級闘争の維持と腐敗
階級闘争の維持によって何が得られるのだろうか?いや、そもそもなぜそんなことをする必要がるのだろうか?階級の維持という決して問題を解決し得ないことをして、何か得することがあるのだろうか?
普通はそう思うのかもしれない。だが、この構造の維持というのは腐敗した状況にとっては、実に都合よく双方の利益の合致をさせやすいものとなる。
運動側からすれば、女性側が未だに不利益を被っている側であるとして、闘争を続けることができる。まだ構造の破壊が終わっていないのであれば、それに向けて戦い続けることができ、自分たちの行為を満たし続けることが可能だ。それも、終わりがないという前提があるため、終わりの形を示す必要もなく、ずっと争う利益を手に入れることができる。
また、構造さえあれば、相手に利益を与えるということを考えなくてもいい。たとえそれが現実的でなく、特定の場面では男性差別が色濃く出ていたとしても、少なくともマルクス主義フェミニズムを内包している者にとっては否定が可能である。
一方で大衆側には、「女性側が差別されている社会」というイメージを与えるのである。
これの何がいいのだろうか?というところであるが、ここでポイントとなるのが、女性が不利益を受けているということによる「特例」を作ることがしやすいのである。アファーマティブアクションやポリコレにおけるマイノリティーの起用というようなものがちょうどわかりやすいだろうが、不利益を受けている側に暫定的な措置として一定の優遇措置を行うわけである。
女性側が不利益を被っているのであれば、それが修正されるまでは我々は何かしなくてもいいのだろう。いや、寧ろ与えてもらえる立場にあるべきだ。というインセンティブを与えることができる。
また、下手に大衆が平等を進めないという動きは、運動側にも都合がいい。管理職の割合だとか平均賃金だとかが典型的ではあるが、女性が男性と同じような状況を目指さないということによって、そこに差が生じるのである。その差を見て、どうしてそうなったかや、個人の意思形成や選考を無視しながら、「日本は男女不平等の国である」と吹聴すれば、あっという間に自分たちに都合のいい世界を作ることができる。
そういった風潮を作るのには色々なものがあるが、簡単に事例を挙げるならジェンダーギャップ指数がいい例だろう。世界経済フォーラムが挙げる統計には、GII、人間開発力指数というような日本にとって良い順位のものがあったとしても、マスコミなども連携してジェンダーギャップだけ注目させる。都合の良いところだけ引っ張って都合が悪い部分は隠す。典型的な情報操作の手法だが、こういう手段を使って不平等国家というイメージを強引に印象づけることは、彼ら彼女らにとって自身の思想の生命線なのである。
(3)後は、少しでも考え、発言する人がいなければ。いたとしても。
他人に女性が差別をされているという情報を流し、何か女性側が不利益を受けているのだろうという感覚さえあれば良い。例え平等原則に違反するような行為であっても、「女性側が不利益を受けることなのだから、あってもいいものだし、やむを得ないことだ」、「そこまで平等を望んでいることでもないから、これくらいがちょうどいいだろう。」と思っていただきやすい。
特にこのような考えはフェミニズムについてそれほど意識することもない者や、それほど求めていない者に対しても効果的である。平等に関して考えてくれないほうが、不平等な内容であっても気にしないわけであるため、問題点自体がそもそも問題になりにくいし、反対するまでの勢力としてもなりがたい。
仮に、おかしいと思った部分があっても、不都合な部分や義務的な部分は回避できるのだから、自分たちに悪いことはしないというインセンティブもある。おかしいところを指摘したくても、周囲が不平等であるという風に思っていてくれれば、周囲から浮くことを恐れて言わないこともあるだろう。
更には、保守主義のような性役割分担や性差を主張する側の勢力といった、フェミニズムに懐疑的な人々にとっても良い面がないわけではない。ある程度の旧来的な部分が維持される利益もある。思想的に対立していても、譲ってくれる部分があるのならそこまで抵抗する理由もない。
もちろん、保守的な勢力としては本来はリベラルと対立しているし、実際に意見もぶつかり合っている。が、相手が表面上主張してきても、保守的な部分が維持されるなら、保守としては対立が続いていても一定の満足感はああるだろう。
対立していても、意見がちょっとずつ違っていたとしても、どこかでなにかちょっとずつ色々な人に利益を分配しているような形ができあがったことにより、バラバラで様々な人間の間にも全てではないにしろ利益をちょっとずつ与えることが出来る。つながりが薄いもしくはつながりすら感じないくらいなのにもかかわらず、まるでうまく歯車があわさったかのように、うすくマルクス主義的な部分が広まっているのである。
5 その結果生まれたのが、現在の日本の男性差別事情である。
色々な人が利益を得ながらも、どこかで少しずつ割を食ったり実現しないような部分があるわけだが、その中で一番割を食う形にしなくてはならないのが、男性差別に反対する人々を中心とした男性に対してである。
理由は簡単なことだ。男性差別を認めること自体が、今ある構造を全て壊してしまうからだ。男性にも差別があることや、原則的な平等原則が適用されるというのであるのなら、男性側にも利益を提供しなくてはならないし、不利益を与えるようなことは出来ない。
リベラルや女性側にも何らかの義務負担や不利益が及ぶだろう。また、保守的な価値観を男性に求めたいと思っている人にとっても、男性がそこから解放されたとなれば、自分たちの要望に応えてくれないし、守ってももらえなくなる。だからこそ、男性差別というものにはかたくなに否定する態度が必要なのである。
その態度に関しては今まで散々語ってきたわけではあるが、その姿はおおよそリベラル的価値観や平等原則を求める人物だとは思えないレベルだ。
分離主義や統計差別の肯定、不都合な結果平等を平然と忌避すること、男性に対しての集団主義の復活、上昇婚・ピル利用などに見られる男性に対する性役割の更なる強化、ホームレスや自殺者数などの男性の苦しみに対する不可視化、そして男性に対して何かを「与えない」ことなど。
全てにおいて、従来とは真逆の価値観がそこにそびえ立っている。今まで作ったリベラルの価値観を全て捨ててしまっているのだが、男性には色々なダブルスタンダードを利用することで、その維持を図るのである。
にもかかわらず、こんなことをする人々が自分たちこそが正義で公正な人物であり、この流れに反対するものを悪人というわけである。
これを腐敗と言わずしてなんと言えば良いのだろうか?
6 バラバラの中で産まれた人々の「総意」のようなもの
何か色々な人物が、自己に都合のいい選択を抜きあっているようにみえるが、多くの人にとってここまで大きな流れを意図的に行ってはいないだろう。意思としてははっきりとこうしたいというわけではない。だが、何かそう決めたかのように、ちょっとずつ様々な人の考えが集まり選択していった結果、なにか意思が統一されたかのような物が出来上がったのである。
フェミニズムも大衆も一見するとバラバラな考えであり、お互いに反目しあっている部分も表面化しているので、お互いに実現できない部分も出てくるのではあるが、それでもフェミニズム自体はすべて否定されているというわけでもない。
その中から、都合のいい部分をお互いに抜きあいその利益を享受し続ける。大衆もしくフェミニズムのどちらか一方には不利益のように見えても、お互いに利益を得られるようにうまく意見を誘導しているかの如く動き、利益をできる限り最大化する形づくりがされていく。ばらばらに見えながらも、その中からまるで人々の「総意」かのようなものを導き出し、その器を作るために補完しあっている。
何か不思議と皆が望んだようでそうでないような不思議な環境で行われたことの結果、①差別構造が指摘できること及び性による利得を得られるという現状の維持。②現状の変化や利益が減少したときには、新たに差別を産みだしさらに利益を生み出す構造の創造。③自分たちに不利益を及ぼす指摘に対しては、無視をするか温存した差別構造や捻じ曲げた理屈を利用して、差別問題として扱わず己の利益を確保すること。 が作り出された。後はこの構造をずっと維持していく。
女性のためと言いながら延々と色々なものと戦い続け、差別構造が存在し続けているかのように見える姿さえあれば良いのである。女性のために戦う者も戦い続けられる利益があり、そうでない女性にたいしては、女性であるが故の恩恵とそれを得る事を許可する「差別」が与えられるのである。
後は、その結果に産まれた不利益を男性に押しつければいい。
けしてたどり着くことがない理想への諦念、されど完全に理念を捨て去れないことへの執着、大衆の欲望に飲まれて啓蒙を忘れた曲学阿世、己の快楽とその源泉に無自覚な大衆、腐敗官僚の如く利益にしがみつくあさましい姿を見せる者などなど。それらが入り乱れてできあがったのが、永遠とも思える果てなき革命()闘争、腐敗の果ての利益享受と差別構造の維持である。これが半永久的なマルクス主義フェミニズムの定義であり帰結である。
矛盾の中からお互いを補完しあいつつ、女性の利益のために対立しながら両立させる。そのために不利益を被っている人々を不可視化しながら。
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