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昔9条、今フェミニズム


 話すことすら許されない。話したら糾弾される。そんなことが昔からあったことだろう。

 日本では、昔の話ではあるがその代表例として憲法9条というものがあげられるだろう。

 憲法9条はご存じの通り国の交戦権の禁止を定めたものであるが、この条文を巡っては現代ではまだ話が出来るようになったとは言えば、昔は話しただけでもかなり問題になったものだそうで。

 例えば、細川内閣の時に防衛庁長官をしていた中西啓介氏が、1993年12月1日、新生党の会合で行った講演の際に、「半世紀前に作られた憲法に後生大事にしがみついているのはまずい」との発言をしたのでありますが、

 一定の時期には話すことすらタブー視されていたと聞く物ですが、近年では保守派の復権や少しずつ戦争を知る世代も減ってきたりもしたりするなどして、話す環境自体は大分整ってきた方だと思われます。
 かつてに比べれば、タブーとされる感じは少なくなってきたのでしょう。


 ただ、それに変わって新たにタブーとして台頭してきたんじゃないだろうか?と言うようなことが出てきていると思うんです。それがフェミニズムなんじゃないかと思うわけです。


 3日の評議委員会において、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と発言した事が大きな問題になっており、国内だけではなく海外でも報じられることになっており、色々なところで大きな声となって拡散されることとなった。



 かつての9条に対する批判というのもこんな感じだったのだろうか?これだけ問題発言で大きな問題とされるのは、他の事例ではちょっと見当たらないなという感じで、ハッシュタグや署名がすぐさま出来来て万単位の署名がすぐ集まったりするまでのことは、フェミニズム関連でもないとちょっと記憶にないのです。 

 もちろん、怒ることは別にかまわないし、発言を擁護する理由もないのだが、発言一つで辞任や大騒ぎしすぎるのはどうなんだろうか?と言うことは常に思うわけです。

 もちろん、あまりに過大な反応というのは表現自体を萎縮させる面もあるでしょうが、私は過大すぎる罰を与える方が怖いなと思うのです。

 発言というものは多くの人に不快感を与えるのはわかりますが、それだけで地位や職など多くのものを一気に失ったりする前例が出来てしまえば、他でもちょっとしたことで問題があったり掘り起こされたりすれば、同様のことが起こるでしょう。
 そうなったとき、いつ自分の身に恐ろしいことが起こるのか。似たような事例としては、このようなものもあったわけで。

 言葉狩りという言葉が言葉だけではなく、その人の人生まで刈り取ってしまう。そんな威力まであるようなことをしてしまっては、発言どころかそれ以外でも萎縮してしまうでしょう。問題発言以上のことをすれば、もっと酷いことをしてもいいと考えることもあるでしょうし、それはそれで危険だと思われます。

 また、罰というのがあまりに過大であるだけではなく、適用が不公正であったりすると、周囲からの不信感や不満というものも高まってしまいます。フェミニズム関連ですので、特にそういった懸念を抱くのは致し方がないことです。

 怒るのはいいのです。が、あまりにやり過ぎた後に、いざ自分に返ってきたりするときなどに困ったりするようなことがあるかもしれないのです。どこの誰のマネとも言えませんが、もう少し冷静になってはいただきたい。「まずは落ち着いてください


2/11 追記

 森氏が辞任とのこと。ますます面倒なことの蓋を開けたようだ。


おまけ 他意はありません。




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更に追加 他意はありません。

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