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論点整理 女性専用サービスの問題点 version2


先日、女性専用サービス関連を批判するとあるアイドルの発言に批判が寄せられている件があったので、少しばかしツイートしたら少しばかりバズってしまった。

そのついでに、意外にも過去の記事が売れてくれたこともあってか、もうちょっとこの件で考えられそうなことがあったということを思い出したり、他の方の意見から考えの端緒となったりすることもあったので、本稿を記載するに至った。

一応、前に書いた記事でも十分に考えられるようにはなってはいるが、今回はより深い部分や前に書かなかった論点を私なりに考えてみたものを紹介したいと思う。



1 「公」と「私」で分けるという話。

この手の話題でたまに見受けられるものなのだが、「公」と「私」、パブリックとプライベート(民間)のであるかどうかで、話を分けるべきだという批判が存在している。

民間などの私的団体であるのなら、営業の自由がより幅を利かせるものであり、営利性追求と私人の自由をより追求をするようなケースも考えられるだろう。

かたや、パブリックな側面においては、主に国や地方自治体といったところだろうか。

公と判断されたものについては、私人とは勝手が違うものであり、特に公平性や公正さを求められるという判断をするべきであり、ここで峻別をするべきではないだろうか?という考えである。

日本において同様の問題が出たケースとしては、ももクロの音楽フェスがいい例だ。

ももクロの「男性限定ライブ」が波紋ーー「憲法違反の可能性あり」と弁護士が指摘
https://www.bengo4.com/c_18/n_3814/ (予備)

 「機械的に申込者にコンサートホールを貸し出すような『純粋に民間が行うコンサート』と、市が入るなどした実行委員会がコンサートの実行に関わる場合では、評価は異なるように思います。

公的な存在であるからには、より多くの人に公平であるべきであり、それに反する行為は禁じられるべきである。というものであろう。感覚的なものとしてはわからなくもない。

ただ、結論から言えば、これを決定的な要因として分けようとするのはナンセンスにもほどがあるといっていい。

(1)同じ内容のものが「公」と「私」によって分けられるのか?

この二つの基準によって判断が分かれるべきであるのかというのには大きな疑問がある。

その一つが同じような内容を民間でも公的機関でも行ったようなケースである。

ももクロの件でもそうだが、同じように民間と公的機関が場所を貸したという場面があったりもするだろうし、他に例を作るとするなら、例えば公的機関も民間でも同じランチメニューで男性1000円、女性700円くらいで販売していたとでもしよう。

さて、ここで疑問なのだがサービス内容は同じなのに、なぜ民間だといいという論理になるのだろうか?

           ここで一度考えてもらいたい。

本来、差別というのは合理性なくして差を設けることにその本質がある。差別の定義を調べたとしても、通常は誰がやったのか?という話は出ないはずである。

○○という人達が特定の民族や人種に対して暴力、暴言を働いたとなった時、我々は○○の中にどのような属性や人物を入れたとしても、○○は不当という風に考えるだろう。○○の中身が違ったことによって、多少同情の余地を感じることや、罰の軽重は変わってくると考えたとしても、無問題ということはないはずだ。

これを差別の時に考えたとすると、○○の中に公、私という要素があることで分けるという判断は出てこないだろう。

同じように、通常なら何をやったのか?を見るのが差別関係の基本ではないか?

反論として、ももクロの件で地方自治法が根拠として出されたように、公共団体などは特別な法律によって特に民間よりも規制されるべき根拠があるということも挙げられる。

無論、特に法に明示的かつ具体的な規定があり、通常とは違うと言うことでも書いてあるとか判例で確立したものでもあれば、話は違ってくる可能性もある。

ただ、現代において差別関係の禁止事項というのは個別法そのものに記載があるケースもあれば、個別法がなくても憲法や民法といった基本的な法規範が及んでくるようなケースもある。

結論までのルートが違うだけで、結果は同じと言うことも普通にあり、個別の法令、条文があるからといって必ず扱いに差が出てくるというわけではない。

条文解釈に当たって、解釈方法や後述もするがその他の事情な事例なども検討することが必ず入ってくるし、判断次第では、「公」と「私」であるがゆえに別れるとは言えないこともあるだろう。

現代の判例においても、「外国人お断り」のようなケースにおいて、公共、民間ともども否定されているケースもいくつか存在しており、一律に分けるための基準としては機能していないことを示している。(平成11(1999)年10月12日 静岡地方裁判所浜松支部、平成14(2002)年11月11日 札幌地方裁判所、平成7(1995)年3月23日 東京地方裁判所、平成18(2006)年1月24日 神戸地方裁判所尼崎支部 など)

その他にも下記リンクにいくつか判例や事例があるので、参照されたし。
http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/26663/00000000/guideline-5_cases.pdf 

反対に、女性専用車両のような公的な側面の強い鉄道などといったところの区分けに対しては、不自然なほど影をひそめてしまっている。公共性以外の理由を盛んに主張されるようなケースも多いが、それは逆に「公」と「私」という区分けが差別かどうかの分水嶺ではないと示している。

(2)「公」と「私」で分けることにも限界がある。

また、「公」と「私」というふうに分けるにしても、その境目というのはどこに存在するのだろうか?

結論から言うと、現実世界では、「公」と「私」というものは必ずしも明白に区分けされているというものではない。

公共性の強いものといえば、バスや鉄道、空港のように公共性が強いものでありながらも、民間が経営しているようなものもあれば、デパートやスーパー、コンサートホール、などといった純然たる民間企業が運営している施設でありながらも、多くの人が来場し、開場されているような公共性の強いところもある。

また、民間であっても企業の大きさによっては、社会に対する影響度合いというものがかなり強くなるケースもあるだろうし、雇用関係についても雇用による生活の安定性や犯罪抑止による社会の安定性や社会保障増大の抑止という面もあるだろう。

挙げるときりはないだろうが、「公」と「私」というものは現実世界では混在しているものであり、ここも性質によって判断が変わってくる。

混在しているとしても、私人が小さな規模で行っていることであればいいのだろうか?と考えることもあるだろう。確かに私人が個別でやる分には、一般にオープンになっていてもそれほど大きな影響を与えないといえるかもしれない。

だから、それは公共的なものであっても規模が小さい時には、影響度合いが少ないから問題ないであろうという判断も下すことはできる。 

しかし、始めた数が少なかったとしても、その後に数が大きくなってしまったときにはどうだろうか?誰かが始めたことによって、他の人も真似してみたり、競合店に負けないように同じようにサービスを展開していることも増えたりもするだろう。それがやがて大きくなっていけば、社会的に許容され、人々に広く利用されるようなことになっていくのである。

こうなると、民間であっても大きな規模や影響力を及ぼすとした話と同様の状況になってくる。

現代の女性専用も同様に最初は小さかったかもしれないが、あちこちにあふれているほどである故に、女性専用サービスも同様に公共性を持っているとは言えないのだろうか?

以上により、「公」と「私」で差別かどうかを判断するのは、的確なものではないと判断できる。

(余談かつ分野は違うのではあるが、行政法の中に公法私法二元論という考え方がある。考え方の根拠や、現代においてこの考え方が廃れた理由も行政法の本などに書いてあると思われますので、一度参考にしてみるといいでしょう。)

2 内容による許容限度の話


端的にサービスといっても様々なものがあり、ちょっとしたおまけをつけてくれるようなものや、価格割引など顧客を獲得するために様々なサービスを展開するというのは商業においてはありふれた話である。

女性専用サービスもその一環だとするというような話はよくみられる論点ではあるが、サービス内容によって差別的かどうかの分水嶺を探る動きは意外にも少ない。

(1)単なる料金の差だけでも、考え方は実に様々だ。

例えば、男性は入場料が10万円、女性は無料というような施設があったりしたとしよう。施設内容は美術館でも飲食店でも構わない。読者の好きなものを想定してみるといいだろう。

これくらい極端な例はなかなか存在しないだろうが、男女においてあまりに差があるというのであれば、多くの人はさすがにおかしいと考えても不思議ではない。

では、もうちょっと内容を緩和していくことによってより内容を許容させるようにするとなると、いったいどれくらいだったら許容範囲になってくれるのだろうか?

男性が1万円くらいまでならいいのか?女性も5000円くらい払ってくれればいいのか?なかなか悩ましい部分ではあるが、考えとしてはあってもおかしくはない。

現に、数百円程度の差であれば、食べ放題のお店や映画館などのレディースデイ、レディースセットのような食べ物のメニューなど。多くのサービスが存在しているわけである。

あまり意識をしていない人も多いのだろうが、そういった人たちの中にはそれほど大きな差があるわけでもないのだから。 というなんとなく軽いものであるように感じているのではないか?

軽いからこそ、そこまで考慮しなくても問題ないような心理的側面も、比較衡量論を考えてこられなかった原因でもあるだろう。

その他にも、考える事項は多くある。

(2)料金以外の理由と総合的な判断

その他にも、犯罪目的の隔離サービスであるようなことや、以前に迷惑行為があったりしたためといったようなケース、男女双方にお互いに入れない空間や利用できないサービスがあるケースなど。

条件によって考えられるケースが多くあるだろう。趣旨、目的、サービス内容、内容の格差、身体的な考慮etc 総合的な判断を求めるという解釈も十分に考えられる基準である。

現に、男女別々で分けるような状況であれば、差別とは言いにくいだろうと考えられるケース(トイレ、温泉、更衣室など)であれば、少なくとも男女平等という観点から問題になるようなケースはほぼない。(LGBTといった問題も新たに産出しているが、それはまた別のお話。)

サービスに差があったとしても、優遇される側がお金をより払うようなケース(松・竹・梅とかグリーン車のようなものを浮かべるとわかりやすいだろう)であれば、まだ納得ができるという考え方もあるし、現にサービス内容で料金が高くなるような話は、男女という枠をちょっとはずしてみれば、許容されているのは明らかである。

身体的な面で、男性の方が多く食べることができるという理由で、女性の方が安くなっているような食べ放題のケースもあるが、今度は逆に男性であるがゆえに展開されるサービスというのも良いと取れる可能性だってあるだろう。

サービスは多様であり、多様性を尊重するというのであれば、様々な形態を認めるような形にして、ひどい内容だけ防ぐというようなことも考えられるだろう。

このようにいくつか見方の提示をさせてもらったのだが、すでに何年も前から論争が繰り広げられている論点であるにもかかわらず、プロの学者も含めて細かい比較衡量や論理を考えられていないように見受けられる。あまりに残念としかいいようがない。

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