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~産む権利~ 中絶関係における難題

       

 産む権利というのは、フェミニズムが女性の権利の拡張のために行った重大な権利の一つである。産む権利とは生殖について、女性自身が自由にそれを行使することができ、誰からの強制を受けることなく、自分の意思で選択肢から物事を決定することが出来るとする、自己決定権の一つであるとしている。

 この背景には、宗教などの影響によってたとえ性的暴行を受けたとしても、子供を降ろすことが許されなかったことに対する性的自由の侵害に対抗することや、人生設計においてどのように出産を管理するかによって、女性の人生設計をより豊かにするために必要なものとして文字通り産まれてきたのである。
 もちろん、私自身は中絶そのものを否定するようなことはないのだが、中絶関係というのは実に複雑な難題を抱えている部分があり、その解決には現実的にかなり厳しいところが多いのもまた事実である。
 今回はその問題をいくつか紹介しようと思う。



1 生命倫理と産む権利のバランス


(1)生命倫理的な側面

 産む権利と基本的に対立する概念としては、生命倫理的な側面であろう。

 胎児は人であるのかどうか?というのは、常に中絶問題でつきまとう。キリスト教と言った宗教的な勢力からの倫理的な批判というのが典型的なものであり、生命を持った存在を意図的に奪うというのは、殺害にあたるのではないか。
というのは、欧州における産む権利が生まれる過程で大きな対立軸になっており、今でもアメリカの宗教色が強い州によっては、中絶に対して厳しい制限をかけているところもある。色々な事情があるとは言え、命を奪うという行為には強い抵抗があることは致し方ないことだろう。

 日本の民法上の規定では「私権の享有は、出生に始まる。」(民法第3条第1項)としており、胎児には一部例外を除いて、人権の享有主体として見なしていない。それ故、中絶したとしても殺人などの刑罰適用はなく、中絶が合法であることの一つの根拠になっている。
 母体保護法では、経済的理由や暴行脅迫による望まない行為によって出来た場合など、一定の要件は認めているが、実態はかなり緩いとの話もある。

 日本においては、宗教色が薄い分、比較的生命倫理的な部分は強くないようにも思われるが、それでも生命を奪ったという事実は、人によっては避けるべき問題ではないだろうかという部分は捨て去れないだろう。


(2)障害を持った胎児と堕胎について

 また、中絶問題においては、障害を持った胎児に対する中絶に関しても生命倫理と深い関わりがある。それは、胎児が障害を持っていたときに、それを理由として中絶をすることが認められるのかどうかと言うことを考えた際に、障害者を差別しているのではないと言う時に現れる。

 障害者の生命に関しては、かつてナチスドイツ政権が障害を持った人々に対して行った虐殺に起因する。ナチスドイツは社会を「身体的、精神的に優秀な者」によって構成していくとする優生思想に基づいた上で、障害者を安楽死させるという計画「T4計画」によって、障害者の生命を絶たせたのである。

 この行為は、戦時中のドイツからの批判もあれば、戦後も多くの人々が反省するに至ったわけではあるが、日本においても優生学的な思想がかつて取り入れられた経緯がある。
 現代では悪名高く、近年まで障害者の強制不妊手術が行われていた条項があったことで批判のあった旧優生保護法である。この旧優生保護法に関して国会に法案を提出したのは、何を隠そう加藤シヅエというフェミニストとして名のある人物だ。氏は、アメリカに留学をしている経験があり、留学時に産児調節運動を行っていたマーガレット・サンガーというフェミニストと出会っている。
 サンガーは優生学を提唱している人物であり、産児調整運動についても遺伝的に良くないものを排斥することを推奨していたと言われている。そういった人物からの影響もあってか、加藤シヅエも同じような動きをしたのではという風に考えられる。 
 また、70年代にも保守派の堕胎を原則禁止しようとする動きに対して、女性の産む権利を主張したときに障害者団体との対立を産んだ経緯がある。女性の産むか産まないかを選択できると言うことは、我々の生存権を脅かすことにならないか?障害児の生命を軽くするのではないか?それ故に対立した。

 そこから対立を和らげる事もずいぶん長い年月画かかったわけだが、現代でもその問題は残っており、植松聖が障害者の大量殺人を行った動機などにもその一部があらわれている。

 そうであったとしても、現代では歴史の反省を行っており、パラリンピックなどを行って障害者であっても生きる場所や権利を与えるべきであるという状況になりつつあるのだから、障害者に対する生存についての風当たりも緩くなっているのではないか?とも思う人もいるだろう。

 だが、現実はそう簡単ではない。障害を持った子供だとわかったとき、その子を中絶するかどうかと言う話に関してではあるが、各国で割合は異なるとはいえ、中絶を希望するという割合が多いケースを見ることが出来る。


しっかりとした社会のサポートがなされているので、アメリカでのダウン症の中絶率は6割程度と言われています。

フランスでは、初産の平均年齢が30歳前後で日本とほぼ同程度ですが、ダウン症の赤ちゃんが実際に生まれる数は年々減少しています。これは、1975年に女性の自己決定権を認める形で人工妊娠中絶が合法化されており、国の医療保険制度が適用され無料で実施されるため出生前診断でダウン症と確定した場合95%が中絶を選択しているためです。

ドイツでは、1995年に胎児条項が廃止され、胎児の障害を理由とした選択中絶は法律で禁止されています。しかし、実際は法の拡大解釈で出生前診断で陽性だった場合、9割が人工妊娠中絶をしています。

 胎児としての生命を障害の有無によって分けることは、かつて障害者を安楽死させてきたナチス政権や、日本においても植松がおこした障害者に対する殺人理由を否定するのに、どうやって反論するのだろうか?ここに正面から答えるのは難しい。
 だが、障害をもってして生まれた子を実際に育てていくとなると、様々な困難が待ち受けていることもまた事実である。そういった事実をいかに解決していくべきなのかというのが難しいからこそ、あらかじめ不幸を防ぐために致し方ないとすべきか、それとも踏ん張って障害者を守るべきか。 いうところで、悩み、せめぎ合うのである。


2 産む権利と男性の責任について


(1)女性の主体性と責任の在り方について

 産む権利をそのまま女性だけのものとしてしまうと、根本的な問題として男性の責任を問うことが難しくなることが挙げられる。
 女性の身体に関して、女性自身がどのように扱うのかを女性の意思に任せるものであり、そこに他人の意思の介在が及ばないようにするのなら、男性はパートナーである女性の意思に関して、自分の意思をたとえ伝えたとしても女性が翻意しない限りは覆すことは出来ない。

 では、産む権利を重視し男性が子供の出産・中絶に関して何ら決定権を有していない状況では、男性にはどのようにして責任を負わせることが出来るのだろうか?

① 他人の行為によって一方的に責任が発生するのか?
 
 一つの問題点としては、男性に責任を負わせるにしても、それは他人の一存によって一方的に責任が発生すると言うことである。
 自己決定権の定義をもう一度確認するが、「他者からの干渉を受けることなく自らの事について決定を下すことができる権利」である。しかし、男性は自分で産むかどうかを決めることが出来ない。パートナーが堕胎を決定してしまえばそれに従うしかない。ここで、男性には選んだ後の責任を負わせるとなるのであれば、自己決定権における「他者からの干渉を受けることなく」という部分に反し、他者の干渉を受けながら一方的に責任を負わせられてしまうことになる。
 自己決定権という部分に対する明らかな矛盾が目の前に現れるのだが、定義を完結するためには、選ぶ権限のない男性には堕胎の責任はないと言うことになってもいいはずでる。

② しかし、全く責任が発生しないというのも…

 しかし、何ら男性に責任を問わないと言うことも、感情的にも倫理・道徳的にも受け入れがたいという人が多くを占めるだろう。
 わからなくはない。男性との間でお互いに合意の上で行った行為の結果、子供を授かったのだから、子供が出来た原因というのは男性にだってあるのだろうと考えるのが一般的な見解だろう。
 また、何ら責任がないというふうにしてしまうと、男性側はいざというときにはそれこそ逃走してしまう事が簡単にできてしまう。そういったことを恐れて、実際のフェミニストの中にはそれを警戒している見解を出すものも珍しくはない。
 男性の責任をことごとく逃すと言うことは、フェミニズムだけではなく一般的な人々にはあり得ないことであると考えられるだろうが、権利の偏重によっては起こりうることなのだ。


(2)男性偏重過ぎる責任論と産む権利

 女性が主体的に意思決定を行うことによって、男性に対する責任に対する影響画あるだろうと考えられるのだが、こと日本において単なる意思決定の問題だけではなく、産む権利の考え方というのはあまりに相性が悪いという状況が存在する。

 既にピル関係の事を述べたnoteについて詳しく書いているが、避妊方法について男性が主体となるもの(コンドームや体外に排出する方法など)が日本は諸外国に比べてもかなり高く、女性側がピルなどの積極利用が控えられていることがある。
 また、妊娠した際に責任を取るような面も、意識面及び実際の行動を見ても男性側が責任を取るような形になっていることが明らかである。男性側に責任が偏在している状況では、そもそも産む権利の本質である女性の主体性という概念とは、真っ向から矛盾する状況である。

詳しいことは下記の記事に譲るとしよう(4 本当の解決と責務の在り方  (4)男性は本当に責任を負っていないと言えるのか。 のあたりを参照のこと)


 本来なら、生殖に関する部分をより女性側の負担が大きい面やコントロールできる権限が強いとするのなら、女性側が生殖に関する部分をより主体的に管理することによって、自己決定と責任を一気に背負うことが望ましいのだろう。だからこそ、海外でのピルなどの使用は女性側の権限、自己管理の拡大とともに必要だったのだと言える。
 そして、その動きが発展していくことによって、男性の性的役割に対する解放にも繋がる面があったはずである。

 しかし、女性側に対する責任論を展開するにしても、日本でその土壌がほとんど存在していない。このままの状況で産む権利だけ主張されていくと、下手をすれば男性には更なる権利の剥奪もしくは不存在な状況から、更なる責任が降りかかるだけで、女性の産む権利というのが都合よく利用される危険性さえある。

 それだけは避けなくてはならない。

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