西村大臣の真意とは? ~お願いと責任のはざま~
政府は、新型コロナウイルスに対する対策について、これまでにも様々なお願いという形で、国民に協力を要請してきたわけである。
その要請に色々な意見はあるものの、人々はそれに従いながら今の生活を必死に耐えている。
そんな生活をしている中、少し前に西村大臣が発した要請が物議をかもしだした。
この方法には多くの反発を招くことになったことは記憶に新しいだろう。自粛の要請に従わないお店に対して、金融機関に融資をしないように要請をしたわけである。
彼の発言というのは、あくまでお願いとしつつも、実質的に融資を禁止しようとするもので、飲食店の生殺与奪を握らせよというのだ。
そのあまりに強権的でありながらも、法に基づかないあまりに逸脱した規制を行おうとする手段であることは、さすがに許容されなかった。
それが野党だけではなく、自民党支持者からも批判が続出したものであったため、数日も経たないうちに撤回させられた。
民間の人々が他人が勝手にやったことにしておいて、自分たちにその叱責がきにくいようにしておけばこれほど楽なものはない。
そんな卑怯な姿勢を示せば、怒る人がいても当然であろう。
責任逃れとする声もあり、先日そういった記事を目にすることもあった。(そしてあとで紹介するが、責任逃れというのはとても共感できる。)
しかし、彼は本当に責任を逃れるためだけにこの手段を用いたかったのだろうか?というと私は正しい部分はあるし、責任逃れという批判も十分は理解はあるのだが、必ずしも責任を逃れるためだけにやっていないとも思えるのだ。
1 お願いに頼るのは、何も責任を回避するだけではない。
日本が他国に比べて、なぜ要請やお願いと言ったような拘束力が乏しいものを利用するのかというのには、責任を回避するだけというものではない。
むしろ、彼らなりに考えたうえでの最適解なのだろうというのが実情なんだろう。
(1)法律による強烈な規制は難しい。
コロナ対策の手段として良く挙げられるのは、ロックダウンといった強烈な私権制限を伴った強硬手段であろう。
諸外国においても、国民の大幅な移動制限や強制的な営業停止と言ったような手段を用いることによって、感染を防ごうとする方法がとられるのではあるが、日本においてはその手段は今のところ執られていない。
日本でとられていない理由に関しては、政府側もロックダウンというような手段までは出来ないと判断したのだろう。
最近では検討されているようなニュースもちらほら聞くが、実現に至っていない時点で制約的な側面が強いことの証明になっている。
現行憲法では、緊急事態条項と言ったようなモノは存在していない。旧憲法にて、戦争などで利用されたことに対する経緯から、その条項を盛り込んでいないというような理由が挙げられるが、現行憲法下で強行的にロックダウンをするとなれば、移動の自由や営業の自由、幸福追求権と言ったような権利の侵害になると判断されると考えられる。
もちろん、現行憲法下でも法整備を工夫することや、公共の福祉の制約により、感染防止と権利制限のバランスを考えれば可能ではないかという主張もあるが、実現可能かといえばかなりの眉唾物だ。
現在の日本の状況を考えたとき、日本でロックダウンができる状況にはないのだろうと考えられる。
(2)では、本当に何もしないことは出来るのか?
法律上の要請は厳しいとはいえ、立法での制限はできないのだから、何もしないというわけにもいかない。
何もしなかったら何もしなかったで、国家運営を預かっている政府の責任放棄になることは言うまでもないし、それは地方自治体であっても同様である。
なので、何らかの行為をして一定の責任を果たしているようにしなくてはならない。
正直に「法律的に出来ないので、何も出来ません。」なんて言おうものなら、それこそ非難の対象である。
では、どんな手段をするべきなのだろうか?と考えたときに、緊急事態宣言とは言いながらも、「要請」を行うことだったのだろう。
国民には今現在の火急的な危機を雰囲気として与えながら、少しでも自粛してもらう雰囲気を作る。
そして、「要請」という形で飲食店などに営業活動を抑止してもらう。そういった方法をとるしか、人同士の接触を少なくする手段がとれなかったのである。
政府などとしては、この手段こそが精一杯のレベルであり、これ以上は出来ない。
責任逃れと言われるような部分もありながらも、何か責任を取ろうとする部分も有しているという奇妙な「最適解」として導き出されたものである。
ただし、それで責任を取っていると言われても、個人的に非常に受け入れがたいというのは私自身も思うことではあるし、他にも手段があるのに取らないという点でもよろしくないと言うことを、過去にも批判しているわけではあるが。
2 おそらく、本当にお願いが通じると思っていたのでは?
さて、かような行為が責任を逃れるためだけではないという面もあると言うことを指摘させてもらったのだが、それ以外にも彼がこの手段をしたとしても問題なかったのではないだろうか?という風にも考えられる。
それは、日本に住んでいる国民がもっている性質に由来するのではないかと考えられるのである。
(1)強制しなくても勝手にやってくれる国民性
日本の国というのは、よく同調圧力があったりして、個人が自由な意思決定をすることを阻害している。
と批判されることがある。
悪い意味でもちろん批判されることもあるが、この方向性が他人や周囲のために行われる良いことに向けられるのなら、「公共性」や「社会性」などと言って肯定的に扱われることもある。
一長一短な側面はあるが、コロナ対策においてはどちらかといえば「いい方向」に作用しているものと思われるのだ。
実際問題、日本のコロナの対応というのはマスク一つとったとしても、かなり高い協力をしてくれているのではないか?とも言える話や数値的なものが挙げられる。
新型コロナウイルス自主調査:2021年最新のマスク着用率は?
~世界23か国・地域調査~ より
法律のようなルールを作らなくても、誰かから要請されたりすることで、日本人は自然と皆着用してくれているかの如く行ってくれる。
世界的にもマスク着用が定着化している状況になってはいるため、着用率は各国でも時期が経つにつれて高い水準になってはいるものの、日本はその中でもトップクラスの高さと言えるだろう。
また、日本はイギリス、フランス、イタリアと言ったようなマスクの着用を義務化するようなこともなかったのにもかかわらず、これだけ高いマスク着用率を示しており、同調圧力と揶揄されるようなこともあるが、それが転じてこれだけ高い使用率を出しているわけである。
元々マスクをつける習慣が他国よりもあったりする部分もあるが、その姿は他国からしてもかなり意識が高いように映る。
もちろん、日本であっても他の国と同様に一定の反発というものもあるが、そういった人間に対してもわざわざ批判をしてくれる人というのも出てきてくれるわけであり、その声があるからこそ、より大きな効果を発揮されるのである。
より
(2)西村大臣も「やってくれる」と思ったのではないか?
政府などから法律で強制的なことをしなくても、それなりに従ってくれるような部分があり、なおかつ今回のパンデミックでも一定以上の要請に協力してくれた。
もちろん、それはコロナ感染と言うことを少しでも抑えようとする「良い方向」のものであり、無理矢理押さえつけるような悪いことでもないと考えられる。
マスクだけではなく、休業要請に従っている店舗や自主的にイベントなどの休止が相次いでいったというような、国民の協力というものはその他にも多くある。そんな実績が積み重なれば重なるほど、今度も協力してくれるのではないだろうか?というのも不思議ではない。
だが、結果は既に報告したとおりである。
と西村大臣は発言したのだが、彼のこの発言はきっと国民は今回も協力してくれるのではないだろうか?
という期待があったことが、思いのほか反発をもらってしまった驚きから、発した台詞なんじゃないだろうかと思える。
ただ、彼はその許容限度を見誤ったのだ。
3 「お願い」の効果を他にも知っているのも、この流れの原因では?
少し話題が変わるが、お願いという手段に関して感染症が拡大する前からも、彼らはよく知っていたんじゃないかとも思える。
特に自民党と連立政権を組んでいる公明党は、その効果の大きさに関してよく知っているのではないか。(ひょっとしたら、お願いという手段を積極的に助言でもしているのではないかとも思えるくらいに。)
それが女性専用車両である。
(1)建前としては任意協力ではあるが
説明するまでもないだろうが、女性専用車両の乗客ルールとしては乗客の任意協力によって成り立っている。
任意協力である以上、男性が乗ろうが乗らなかろうがもちろん自由である。
もちろんそれが本来の目的(男性の中にいる痴漢から女性を守る)という手段を考えた際に、本当に任意にすることは出来ない。
だが、下手にやってしまっては、中国みたくこのような感じでうまくいかないだろう。
ではどうするかといえば同調圧力を使うわけだが、それはそれで任意協力とは矛盾するものであり、以下の記事はそれを簡単にではあるが指摘させてもらっている。
(2)国民は非常に協力的であった?
もちろんこの協力的な体制というのには表記など様々な欺瞞があるが、なんだかんだで協力している。
任意協力というような建前ではありながら、女性専用車両には極めて協力的に映るかのような状況を出してしまっているのが実情だろう。
女性専用車両に関して賛成する人たちも多数に及んでいることもあることながらも
実際の乗車場面も、女性専用車両にはほぼ女性しか乗っていないだろう。実際に通勤通学をする人々ならしっているだろうが、そういった光景を幾度も目撃しているだろうし、普段から電車に乗らなくても写真などで検索すればそういった光景をいくつも発見できるだろう。
場合によっては、入り口の辺りに警備員らしき人が立っているようなこともある。
もちろん、男性が乗った場合には下記のようなトラブルが発生することも珍しい話ではないのだ。
こういったトラブルに関しては、乗車した男性側が批判されるのは取り上げるまでもなく頻出するのは言うまでもない。
任意性とはなんなのだろうか?と思うようなことが調べてくれば頻出するだろうし、中国のケースとはえらい違いである。
場合によっては、法の範囲を超えるような更なる主張を人権派と呼ばれる側から発するというトンデモな要請まで主張する人もいるわけである。
この要請が、実に矛盾しているのかは言わなくてもわかるだろう。
このレベルになるまで、人々はある意味許容(させられているともとれるが)し、また協力してしまっているのである。
ルールはなにもない。だが、なにか痴漢に対して対策することは重要なことであり、それに従わなくてはならないという心理が、これだけ矛盾した状況が成り立ってしまっているのである。
それがもう20年以上も続いてしまっているという実績は、為政者がこの手法を参考にするには十分な前例になっているのではないか?
ここまでの効力を発揮する事例というのは、国内外見てもそうそうあるものではないだろう。
そして、今回も行ってもいけるだろうと思ったとしても、何も不思議ではないのだ。
4 批判されたものも今ある価値観と隣り合わせである。
西村大臣は炎上したのではあるが、大臣そのものがやろうとしたことは、今コロナで人々がやっているようなことなどと隣り合わせにいる価値観である。
炎上したのは、行おうとしている内容や対象、誰が行ったかなどによってはみ出てしまっただけなのだ。
曖昧模糊でありながらも、何か重要なことであることが目の前に現れたとき、皆が協力しなくてはならないというのが多数に及んでいる。
その重要さに対してどこまで我慢できるのかという限度はあるとはいえ、その力の強さと人々の善意に為政者は甘えてしまっていたことも、大きな炎上の原因の一つではないだろうか。
確かに西村大臣の発言はあまりに強権的であり、責任逃れであるという非難の対象となるようなことであることには異論はないが、彼の考えは今世の中で通用している人々の善意や公共性と言ったようなものと、近いところにいることを忘れてはいけない。