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わたしの青い鳥


うう〜んTwitterってええなぁと背中のぞくぞくが止まらないのでnoteを書いてしまうことになった。

まとまりが無くなるのが目に見えているが、最後まで書き切ることにする。壁打ちnoteになるのも目に見えているが、それで良い。

わたしとTwitterの関係ががらりと変わって、わたしもほんの少しだけ変わった。そんな変化を、したためたくてたまらない。

Twitterを使い始めたのは、4年近く前、高1の夏のこと。    

付き合いも5年目となれば、盲腸くらいの存在感くらいは示し始める。無くても大丈夫だがあった方がいいだろうし、そいつのせいで痛い目を見ることもある。割と、しっかりめの存在感。

わたしはこの4年間、一切発信はせず、ただただ人様のツイートをニヨニヨしながら眺め、時折恐る恐るいいねを押すという、非常に消極的な姿勢でTwitterを使用してきた。

これまでこの姿勢を貫いてきたのは、SNSという空間でひととの繋がりはいらないや、と思っていたからだ。だって日常生活での人間関係にも疲れているのに、さらにバーチャルな世界でも気を揉むのはまっぴらごめんだ、と強く強く思っていたのだ。

でも、ごくたまに、この人とお喋りしてみたい、かも?みたいな人を見つけてしまうことがあった。

ツイートのひとつひとつが心にブッ刺さってきて、心の血液をぼたぼた垂らしながらその人の投稿を遡り続けてしまう、そんな人を見つけてしまう。

そういう人やツイートと出会うのが楽しくてTwitterをやっているのだが、なんせ先述のように思っていた上に人見知りなので、できるのはせいぜい「いいね」を押して、勇気を振り絞ってフォローするを押し、その人のフォロワーを増やすくらいが関の山だ。リツイートも割りかしハードルが高い。

そんなわたしだったのだが、このたび、めちゃくちゃこの人とお話ししてええええ!というひとに出会ってしまった。

その人はツイートするたびにことごとくわたしの琴線に触れてくる。まるでギターを弾くかの如く、じゃじゃじゃーん!と綺麗に全部触れてくる。それに、引き出しがこれでもかと云うほど多くて、かつ、ひとつひとつ深い。こんな人とは、初めて出会った。

以上の理由で、今までの「この人と、お話ししてみたい!」とは種類が全く違う代物となり、簡単に言うなら、


恋をした。


これが恋だとすれば、超古典的な惹かれ方だと思う。

わたしは、その人の名前も知らないし顔も知らない。なのに、その人のツイートに心をかっさらわれた。

思わず、文通で愛を育んだ昔の恋人たちに、想いを馳せる。

しかし、文通は往復書簡だが、わたし的見解によるとTwitterのつぶやきとは、届く相手が不特定多数の、ささやかな号外だ。

取るに足らないことだけれど、仕舞い込んでしまうのは惜しいと思うものを誰かにささやく場所だ。

そのため、激しく恋焦がれるわたしは、その人に気持ち悪がられないよう「いいね」すら加減してしていた。(きっと、この思考が少し気持ち悪い)

が、もうあまりにも刺さることばっかりツイートなさるので、

わたし、ついにリプというものをしてみようと思い立つ。

送るか送らまいか散々迷い、いつも見ています、好きですみたいな、至極しょうもない文面を1日寝かせて送った。

しょうもない文面は、1日経とうが当然のようにしょうもなく、しかもわたしがリプを送ろうとしているツイートに、なんの関係もなかった。

けれど、初対面なのにズカズカその人の投稿に絡んでいいものかもよく分からなかったので、なんの関係もない投稿に、ラブレターみたいなファンレターを送った。

返信、を押す時、ああ、スマホにも肌ざわりがあったらいいのに、と思った。

好きなひとへ緊張しながらリプライをするのに、なんの感触すらも得られないのは少し寂しかったからだ。

ポストに手紙を入れた時、ほかの手紙にそれが降り落ちた音が聞こえるくらいの何かはあったらいいのに。

指先はただ、わたしのスマホの画面を、ちょんと突いたのみだった。

わたしのリプが、突いた勢いそのまま、びよん、とその人の元へ飛んで行く。

その時は、鍵を掛けていたら向こう側はリプを見れないことすら知らなかったので、鍵のかかったアカウントのまま、リプを送ってしまった。

その後、その人が鍵垢からのリプは見れないんです〜というようなことを仰っていて、え!?届いたんか!というものすごく当たり前なことに驚き、え!?鍵かけてると見れへんのか?!という初歩的すぎる事実を初めて知り、恥ずかしすぎて死にかけていた。

瀕死であったが、その人への憧れは募るばかりだったので、よし、ならば鍵を開けよう、新たな扉を開こう!!!と密室を解放することに決めた。大進歩すぎる。

ここで、はたと気づいてしまう。気づかなければいいのに。そのまま、てきとうに鍵を開けばいいだけなのに。

わたしって、とっても面倒くさい。

ここでわたしが気づいたのは、鍵を開けることは即ち、SNSで人と繋がる可能性を孕むというだけでなく、SNSという大海への海開きだということだ。

わたしのアカウントがいくら極小とはいえ、わたしのツイートにはすべて、責任が伴う。

わたしのひとことで誰かが傷つくことが、どれだけわたしが注意を払っても、取りこぼしが、あるかもしれない。

ここに考えつくと、今までは家のベランダのビニールプールで足にぱしゃぱしゃと水を絡めているくらいの軽い気持ちだったのに、突如、海へ飛び込むくらいのスケールの緊張感になった。

言葉は、海面に浮かぶ浮き輪のように、わたしの意図とは裏腹にひとり歩きをするし、わたしの意図が誤っていたとしても、ふわふわと何処かへ漂っていく。

海では、つま先が砂を蹴るのがやっとという水深に、知らぬ間に辿り着いている。

取り返しのつかない場所まで漂いきった浮き輪は、もう戻ってこれない。

それを知るからこそ、飛び込もうと思えば思うほど、怖くなった。

海の向こうには灯台の明かりも見えているが灰色の波もうねっている。

今まで何にも発信していなかったからこそ、これくらいの依存度で済んでいるものの、承認欲求という高次の欲求は、際限がないことは知っているし、そのほかいろんな人の色々が渦巻いていることも知っている。

そこに、わたしはうまく折り合いをつけられるのだろうか。

でも、その人にリプを送るには鍵を開けるしかないから、開けるのだ。それ以外にない。こんなに怖がりなわたしをそんな気持ちにさせるその人は、マジですごい。

こうして逡巡に逡巡を重ねながら、ひとおもいにえいや!と開けてみた。

1人で大騒ぎしながら鍵を開けてしばらくは、その人から何の返信もなく、あーあ、、失礼なことしちゃったし、突然好きですなんて言われても気持ち悪いよな〜、、ホントごめんなさいとちょっぴりがっかりしつつも申し訳なかった。

それから数日が経ち、申し訳なさやがっかりさもそろそろ薄れかけ、まあ仕方ないか、と思っていたころ、その人から、返事が返ってきた。

びっくらこいた。

ファンレターって、返ってくるものなんだ。

好きと言ってくださってありがとうございますという謝意に加え、あまりにも素敵な文章が添えられており、さらに返信が遅れたことへの謝罪までされてしまった。(通知を切ってらっしゃったそう)

わたしにのみ向けられた素敵な文章に対してしょうもないことは返信できないししたくない。尽くせる限りの最善を尽くして、返信をした。

すると、あまり間を置かず、その人から「うずうずする!もっと詳しく!」的な反応を頂けた。思わず感情が昂り、自制しきれず熱に浮かされながら、iPhoneのメモで長文を構成した。あるアイドルのファンアカウントであるわたしとその人なのに、わたしはとても熱く太宰治について語った。ついでに、わたしが好きなほかの方々のかけらも同じ温度で文字に起こした。Twitterって、面白い。

わたしは太宰にたぶらかされて生きているが、その人は太宰とのすれ違いはまだ無かったようで、しかも駄文のくせに冗長だったので、ほんっっとうに暇なときにお読みください!とめちゃくちゃ断りを入れておいた。

返信は、72時間以内に来たら良い方かな、くらいの心持ちでいた。

が、なんと、送ってからほどなくして初めて引用RTというものを、その人によってされた。長文への思っていた以上の厚遇に驚いた。

わたしの返信がその人の言葉で改めてなぞられ、そのお陰で、わたしの言葉もうまくその人の世界に溶け込んでいる。


もう、大感動大感激大歓喜。


しかも、新たなる素敵な人が、リプ欄にて身に余るようなことを言ってくださっていた。

信じられない気持ちでいっぱいだ。

そのあとも、その人とひとことふたこと交わしてわたしの最後の返信に、いいねが押され、会話がひと段落した。

BPMは依然として好きな人への告白数秒前程度を保っている。どっきんどっきん。

冗談ではなく深呼吸しながら、わたしは、

わあ、Twitterってすごいな〜〜〜!!!

と馬鹿みたいな感想を浮かべていた。

あまりのすごさに呆気に取られていた。

知っているようで知らない感情に、体中の毛が逆立ちそうだった。何割かの毛は本当に逆立っていたと思う。

まじで、Twitter、すんごい。

見知らぬひとに共感してもらえて、更に思わぬ言葉を頂けるということの威力を、真正面から体感した。これは、クセになる。

あかちゃんがはじめて言葉を操って、誰かとコミュニケーションを取った時、こんな気持ちだったのでは無かろうか。

そう思えるくらい、新鮮な感情だった。

リプ欄での会話がきっかけで、光栄なことにわたしのはじめてのフォロワーは、その人になった。

当然だが、0だったフォロワーは、1になった。その後、先ほどの新たな素敵さんにもフォローして頂き、現在は2になっている。

こうした関わりを経て、わたしの孤独なニヨニヨツイッタライフは、いま、終焉を迎え始めている。

わたしは、“すき“を自分の中で真空にしておきたかったタイプだ。けれど、よく考えれば自分の中で真空にするしかなかったものも多いことに気づいた。

「最近なに聴いてるん?」「えっと、、知らんと思うねんけど、大瀧詠一って知ってる?」「あー、ごめん知らん」

小学校の頃に「君は天然色」に出会い、ほかの子とは少し違うジャンルを好んで食するようになって以来、他人とはあまり分かち合えなかった“すき“がわたしの中では眠っている。

傘を打つ雨に菫色を思うのも、アイスティーにはスライスしたオレンジを浮かべたくなるのも、友達はあまりわかってくれなかった。

でも、それは仕方のないことだとわかっていた。

それに、たまたまわたしは今をときめくアイドルの数年来のファンでもあるので、そこではじゅうぶん盛り上がれるゆえ、寂しいと感じることはなかった。

けれど、こうして発信することで、繋がるご縁があり、思わぬ方向からの反応があるんだということを知った以上、発信することが持つ力を、知らんふりはできない。

勿論、SNS全般には渦も多い。下手をすると波に呑まれかけるという欠点があるのも確かだ。しかしそれを上回る魅力には、抗えない。

Twitterでは誰かの言葉ひとつがわたしの胸を打ち、わたしの言葉ひとつが、誰かの心の端っこを奪う。

伴うものが感動であろうが爆笑であろうが、それはぜんぶ心を動かされたからこそ発生するもので。

こんな素敵なこと、しないわけにはいかない。

Twitterで生まれる繋がりは、ひとことに心を震わした者同士の繋がりだ。そんな人たちには、気を揉むよりも本当の気遣いがしたい。

ただ、自分の好きなものを、わたしを誇る道具にはしたくないし、わたしの内だけで大切にしておきたいものも、やっぱりある。

エモさを狙いすぎて、ねちっこくなるのも嫌だ。

わたしは、憧れたその人みたいに、自分の“すき”を発信したい。

わたしが好きなその人は、自分のすきを、くすぐったくなるような耳打ちで教えてくれて、しあわせだった時を書置きのようにさりげなくお裾分けしてくれる。

これから、わたしもそんなふうに、誰に届くかどこまで届くか知らないおてがみを、わたしの青い鳥に託して、そっと飛ばしてゆきたい。


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