見出し画像

タイムスクーターに乗って

Yちゃんは、私が7歳まで住んでいた長屋の並びの、一番奥の長屋に住んでいた女の子。
私より歳が1つ上で、記憶の中にある私史上最古のともだち。

「ともちゃんあそぼぉ」と、うちの玄関の扉を細くあけて、小さな声でYちゃんは誘いにやってくる。毎回Yちゃんから誘うという訳でもなく、私も全く同じそのトーンで「Yちゃんあそぼぉ」と眉をさげ小さい声で「お皿が足らなぁい」と井戸の奥から聞こえてくるような、さびしいトーンで玄関の扉を細くあけつつ、そうやってお互いにかわるがわる誘いあうのだった。

Yちゃんは時々とても頑固なところがあった。
小鳥のようなニワトリの様な、よくわからない動物のぬいぐるみの首に、長めのヒモを巻きつけて「ペットの〇〇よ」というので、私が「いや違うよ、それぬいぐるみやん」というと「いや、生きとる本物のペットちゃ」とキレるなどして絶対にゆずらず、生きたペットとして家の外でも内でも、どこに行くにもそのヒモ付きのぬいぐるみを引きずりがら歩き回っていた。
その大切な生きたペットを、Yちゃんがうちに忘れて帰った。すぐに持っていける距離なのに、そうはせずに私のお人形布団に寝かせて、一晩介抱したことがあった。
翌日Yちゃんに介抱姿が見つかり何だか気まずく、恥ずかしかった。
強い意志で「生きている」と言い、それを可愛がるYちゃんの姿を見て、ぬいぐるみだと知りながらも、私はどこかでその存在を何だか羨ましく見ていたのかもしれない。

またある日、小学校へ上がる前の頃、Yちゃんが「字を知っている」と書いて見せてくれた。時代劇でもみたのか、いつの時代の何語かもわからないような、焼そばのちぢれ麺みたいな、ぐにゃぐにゃの線を書いて得意気に「これよ」とみせてくるので、私も「そんなんじゃない、字っちこんなんよ!」と、自分もまだまだ覚えたての、でっかいひらがなで「お」とか「み」を書いて対抗するも、Yちゃんは「全然違う、こうよ!!」と、迷いなくまたその何語かわからない字を力強くえんぴつで書いて一歩もゆずらず、納得ならない私もゆずらず、お互いに怒って帰る。みたいな事もあった。

あとは何かしら「ごっこ」ばかりしていたと思う。一体どんなメロドラマ見てきたんだ!と言うような、実際大人になっても、聞いたことのないような口説き文句や、大人の会話を真似て、男女の役を交代しながらの「デートごっこ」も二人してかなり盛り上がった記憶がある。

私の姉と兄は同じ幼稚園へ通い、卒園していた。
本当なら私もその同じ幼稚園へ入れるつもりでいた母は「Yちゃんと一緒の、同じ幼稚園がいい」という私の願いを受け入れ、私もYちゃんと同じ幼稚園へ年小から途中入園で通えることになった。が、近所で「マンモス幼稚園」と呼ばれるほど大人数の園児が集まる園内で、自由に学年の違うYちゃんの所へ行けるわけもなく、遊ぶどころか園で会った記憶もない。

同じ幼稚園へ入れたものの、園では人が多く、それに慣れるのにも私は時間がかかり、幼稚園では陰気な時間を過ごした。
帰宅して幼稚園から解放されてやっと、Yちゃんと夕方まで全開フルパワーで遊んでいた。

たまに姉たちと同級生の、5歳年上のMちゃんがYちゃんと私と一緒に遊んだ。
身体つきも大人びたMちゃんが入ると、いつものYちゃんとの遊びではなくなり、遊びの質もエスカレートした。
近所の、当時できたばかりの売り出し中のマンションへいき、モデルルームとして見学可能な部屋へ侵入し、設置された家具や食器を使いリアルお母さんごっこをして(私は赤ちゃん役だと、ずっとベッドに寝かされいた)大人達に見つかりそうになり死ぬほど走って逃げ、一番小さな私は置いていかれてしまったり、高い塀へ登ってみせて「ここに登ってこれない人は仲間じゃない」と言って、もちろん私だけ登れずにいじけて帰る。Mちゃんが入ると、だいたい私が泣いて帰るハメになった。
一番チビで泣き虫な私が、Mちゃんのターゲットになってしまい、ほんのり意地悪されていたのだろう。

いつも遊んでるはずの仲良しのYちゃんが、Mちゃんが混じる日だけはまるで別人のように見えて、遊びの内容も全然楽しくなかったのだけは覚えている。
それでも翌日になれば気弱な小さい声で、
Yちゃんが「ともちゃんあそぼぉ」と玄関を細く開ければ(鍵をかけていない時代)、泣いたカラスが何とやらで、懲りずにまた遊んでしまうのだった。

Yちゃんちのお父さんは、おぼろげな記憶だけど、ドラマとんぼ時代の長渕剛さんがパンチパーマをあてたような風貌で、大工さんの作業着を着ていた記憶があり、おそらく職人さんだったのだろう。Yちゃんのお母さんは、肌がつやつやした丸顔の色白和風美人で、普段は優しい印象だったけれど、しつけには厳しかったのかもしれない。うちの姉と同じ年のお姉ちゃんがYちゃんにもいた。

ある日、いつものようにYちゃんを誘おうと、いつものように玄関扉を細く開けてみると、居間にYちゃんとそのお母さんの姿が見えた。
正座して顔を真っ赤にしたYちゃんが、こちらに気づき、睨みつけるような目で、泣いていた。ハッと、咄嗟に細く開けた扉をピシャっと閉めて、見ちゃいけんかったと、逃げるように退散した。 
Yちゃん泣きよったな。鼻血もでとったな。
心配というよりは、見てはならぬ姿を見てしまったドキドキと、Yちゃんの泣き顔を思い浮かべるばかりだった。

うちの父母は基本的にあまり口うるさい方でもなく、叩かれたことも一度もないので、余計にあの日の目撃した泣き顔にびっくりしてしまい、その記憶が鮮明なのかもしれない。

一度だけMちゃんも、Mちゃんのお兄ちゃんに激しくビンタされて、顔を真っ赤にして泣いている姿をみた事があった。

弱い者たちがさらに弱い者を叩く。あの小さな長屋一帯の小さな小さな集まりにも、生き物の悲しい鎖みたいな連鎖があったのだった。

しつけが厳しいから良い親、悪い親という話ではなく、横に並んだこの長屋で、家庭の環境や職業も様々で、ともだちYちゃんちが幼かった私にとって、初めて知る自分ち以外のよその家の体験だった。

Yちゃんちによくあがりこんで、夕方子どもだけでマヨネーズ入りの卵焼きを作ってたべたり(うちは甘い玉子焼きなので衝撃だった)、夜ご飯をそのまま一緒に食べるはいいが、無口な長渕風のお父さんに緊張するばかりだったり、泊まりに行っても、夜になるとやっぱり帰りたいと帰ったり、幼稚園の頃の私はYちゃんにとって、弱虫な妹分みたいな存在だったのかもしれない。

私が小学1年生でYちゃんが2年生の時、我が家は念願だった新築マイホームへ、隣の長屋に少しの間ひとりで住んでいた父方の祖母も一緒に連れて、引っ越しをすることになった。
そうして、それなりに家族5人の思い出が詰まった、小さすぎる長屋の家を後にした。


引っ越しの日のことはほとんど記憶がない。
Yちゃんや、あのMちゃんに別れを告げたのかも全く思い出せない。

引っ越しをしてからは全く会わないまま、その存在もすっかり忘れてしまっていた。知らぬ間にYちゃん一家も長屋を出て、別の学校の町へ引っ越しをしたらいとの噂も聞いた。


随分長く経って、私が中学3年の受験生の年に偶然にYちゃんに会った。夕方学校から帰宅する途中。スクーターが通りすぎる瞬間に
「あー!トモー!?」と、私の横に止まったのが、Yちゃんだった。
首にかけているだけの半分ノーヘルスタイルで、眉毛を細く剃り落とし、髪を赤く染め、すっかりヤンキーとして成長したYちゃん。
全てが突然で、驚いた。
まず、私を以前のように「ともちゃん」ではなく唐突に「トモ」と呼びとめ、しかもスクーターでひとり颯爽と現れるなんて。
いきなり未来からYちゃんがスクーターで
「ハロー♡トモ!」と、やって来たみたいだった。

かつてあの長屋時代には無かった明るさと、そのトッポさに私も嬉しくなり突然の再会にテンションが上がった。
何よりヤンキーとして、羽ばたくように開花したYちゃんは輝いて見えた。それがすごくよかった。

その頃、私は高校受験を控えており、勉強と規則と教師達の顔色にいつも怯えていた。
そんな日常が、突然現れたYちゃんにより一気にふっとんでしまい、いつも一緒だったあの頃に戻り、Yちゃんの「トモ、後ろ乗り!おくっちゃーばい」のセリフもうれしくてスクーターに飛び乗った。
Yちゃんの背中にしがみつき、束の間の再会と爽快な気分を味わったのだった。


後日、学校で「三年生の女子の中に、ヘルメットもかぶらず、スクーターに二人乗りしていた生徒がいるようです。目撃したという、近所からの通報がありました。名札の色で三年生女子というのはわかっています。」と、愚かものの犯人探しが始まった。

突然のYちゃんとの再会で、受験を控えていることを、一瞬でも忘れてしまった自分の浅はかさに、内心は震え上がった。
受験どころか、警察につかまってしまうかもと本気で悩み怖くなって、反抗期も忘れて泣きながら母にだけそれを打ち明け、懺悔した。
(結局、犯人は迷宮入りで終わった)。


Yちゃんとは、それきり。とくに連絡先も知らない同士。Yちゃん、元気かな。
こんなに色々と思いだせるけれど、無理やり会おうとも、探そうとも思わない。
それでもYちゃんは、はっきりと、一番最初に出来た私のともだち。



それではお聴きください。
長渕剛「とんぼ」



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?