先生だったときの自分のもがきの歴史④【教室内で孤独だった8年目】#661
おはようございます。
8/18 理科のオンライン授業二回目がありました。集団相手に反応を引き出しつつオンラインで授業を進めるってなかなか難しいんだなぁと改めて感じています。ここらへんの工夫もこれからどんどん開拓していきます。おこめさんです。
今日はぼくの教員人生の葛藤第四段ということで、おそらくラストになります。
ぼくが経験してきた教員人生をできるだけそのまま振り返っています。
全然スペシャルな先生でもなく、むしろずっともがき続けていた一般のどこにでもいる先生の一人だったと思います。
すごい先生はネット上にたくさんいて、
今やそういう先生とお話するってことも簡単にできると思います。
だけど、実際にはぼくみたいないろいろ葛藤を抱えながら、どれだけもがいても全然うまくいかないような先生の方が大多数だと思います(うまくいくという基準も子どもたちをある程度まとめる みたいなところです)
だからこそ、ぼくみたいな人が赤裸々に書き残すことに価値があるんだろうなって思うのです。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
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おこめさん→10年の公立中学校勤務を経て独立。公立学校を外側から支えるために、オンライン塾を設立・運営。子ども~大人までを対象としたライフビジョンコーチとしても活動。半年の育休を取得した朝活大好き2児のパパ
▼教員8年目
最高のサプライズから涙した修了式を終えて、また新しいクラスがはじまろうとしています。
8年目も昨年度に引き続き担任として働くことになりました。
今度ははじめて受け持つ中学3年生です。
(3年目のとき、この中3担任から離れて副担の道を歩んだのでした)
7年目での経験を踏まえて
このクラスでも自治的なクラス、自分たちで自分たちのクラスを作っていく
という経験をさせたくて、同じような形でクラスをつくっていくことにしました。
クラスの決め事は基本みんなで話し合って決めていく
どんな些細なことでもぼくが決めてそれを下ろしていくっていう形ではなく
みんなに投げかける
そうして、生徒に自分たちの意思を常に問われているっていう自覚を持ってほしかったのです。
こうして中学校生活最後の体育祭に向けたバトン練習の時間も
体育委員が中心になって声をかけ自分たちでその取組を進めていきました。
先生が先頭にたって、先生が引っ張る方が もしかしたらいい成績が残せたりクラスの一致団結感も高まるのかもしれません。
だけど、本当に大切なことは自分たちが大変な中でもやり遂げたっていう体験なのかなって思ったのです。
最低限のフォローはしますが、できるだけ生徒が前に立って、生徒が引っ張っていくっていう形を残せるように意識していました。
迎えた体育祭当日
担任としてつきっきりで団席にいることはできませんでしたが、
いつもクラスを盛り上げてくれる生徒もみんなの前にたって、応援を必死に頑張っている姿が見えました。
たくさん練習を重ねたクラス対抗リレーも
必死に走って、必死に応援して
熱い時間となりました。
体育祭終わりの教室での時間では
担任として声をかけることはもちろん、その日に活躍した体育委員さんや応援団長さんからコメントをもらって、みんなからのエールを届けてもらいました。
文化祭の活動では、当日までに男子と女子が真っ二つに分かれて対立する事件もありました。
このときもクラスで話し合いをするために放課後に残ってみんなで意見をぶつけあっていました。(こういうことができるクラスっていうことが誇らしく感じました)
当日の合唱では、
舞台袖で思わず号泣してしまいました。(泣きながら動画を撮る恥ずかしい担任の姿でした)
文化祭が学校外のホールで行われたこともあって、最後にクラスで集まって話をするっていう時間はなかったのですが、
クラスの席にいって、声をかけるときには
いつも通りチャチャを入れられつつ、みんなにそのときの精一杯の気持ちを伝えられました。
こうして、このクラスもいい感じにまとまりつつあるのかなって思っていました。
しかし、ここから一気に事態は急展開していきます。
10月の半ば頃のこと
出張先から学校に連絡をしたときに 副担任だった先生からある生徒が掃除を全然しなかったっていう報告を受けました。
次の日の掃除のときに声をかけたらいいかなって思ってその日は終わりました
次の日の掃除の時間、その生徒に事情を聞こうと声をかけたのですが、
「いやぁ、ちょっと・・」みたいな感じでスルーされ
そそくさと持ち場から離れていきます
またふざけてるんだろうと思って、追いかけてまた話をふっても
同じような反応が返ってきます。
だんだんとこっちもちゃんと話をしないとって思って声のかけ方をかえていったときその子が少し大きめの声でこう返してきました。
「わたしだけじゃなくて、〇〇とかほとんど毎日やってないやん。先生全然注意せえへんのに、なんでわたしだけこんなに声かけられるん?」
そんなことを返されたと思います。
このとき、自分の中でグサっと刺さるものがありました。
その〇〇っていう生徒はいつもクラスに笑いを届けてくれるお調子者な子で、いい意味でムードメーカーでした。
だけど掃除などについてはなかなか意欲的にやっているって感じではありませんでした。
それに対してきちんと指導できていなかったのは確かに自分の中でありました。
そんな状況だったからこそ、その子の言葉に刺さるものがあったのだと思います。
それはそれ、これはこれ
と切り替えてその子にも話ができたらよかったのかもしれませんが、
あまりにも刺さりすぎて、
「そうか。わかった。先生も考えるわ」
みたいな感じで返した気がします。(ここらへんの記憶はあいまいです)
次の日の学級通信では、自分の中にあった申し訳なかったって思うことを素直に書いたものをみんなに配り、そのまま伝えさせてもらいました。
・出張でクラスをあけることが多いこと
・指導が行き届いていなかったこと
そんなことをできるだけ正直に伝えたと思います。
(たぶん、担任としてやるべきことはこうした思いを伝えるってことではなかったのかもしれません)
そこから、いろんなところでほころびが出始めます。
前年度の最後、中2の解散のときに
中2のクラスLINEに招待され、そこに入るっていうことをしていました。
そこから何人か個人的に連絡がきたので、簡単に返信をして終わっていました
このことが中3のクラスの子たちに不審に思われ
いろいろな噂が広がっていったのでした。
(先生の方から個人的にやりとりをしているなど←そういう事実はなかったのですが)
徐々に担任としての信頼はなくなり、生徒への指導はどんどん入っていかなくなっていました。
・放課後にクラスに残った数人の生徒が教室内でトランプをしていたり
・授業中にアメをなめている生徒がいたり
・遅刻常習の生徒が出て、それがまったく改善されなかったり
とにかく時間が経つにつれて生徒との関係性は悪化の一途を辿っていくのでした。
そういう状況に加えて、進路指導についてもミスが続きます。
いよいよ先生として、大人としての信頼もなくしてしまったぼくは
クラスの中での居場所をなくしてしまいます。
朝クラスにいっても話を聞いてくれてる生徒はほとんどいない状況
ときにはあからさまに教科書で口を覆って隣にコソコソ話をされるような始末(こっちを見ながらのコソコソ話は辛かった)
常に教室の中でも孤独感が漂っていました。
卒業アルバムにのせるクラス写真用に
黒板にみんなの名前を書くっていうのをやっていたのですが
そこにぼくの名前が書かれることはありませんでした。
それでも生徒一人ひとりの進路の実現は応援してあげたくって
毎日神社にお参りにいって生徒の合格祈願をしていました。
(自分ができることがこれくらいしか思いつかなかった)
どれだけ嫌われても、担任であることには変わりなく
食らいつくように毎日生徒の前にたっていました。
不登校の生徒への対応も変わらず行い、
少しでもクラスとのつながりを感じてもらえるようにいろんな話をしていました。
こうして卒業式前日になり、
一年間の記録をビデオにまとめてクラスで流しました。
(ほとんどのクラスがこういう時間をとっていました)
文化祭までの写真の数とそれ以降の写真
全然枚数が違っていました。
自分の感情がそのまま現れているようでした。
そんな映像を見ながら、なんか泣けてきてしまって
今思ってもどんな感情だったんだろうって不思議でした
(嬉し涙ではない。悲しいというか切ないというか)
その映像のあと、カーテンを取り外して職員室に持っていくっていう仕事があったのですが、これを何も言わずに手伝ってくれる生徒がいたとき、ぼくの方に卒業アルバムを差し出してコメント書いてって言ってくれる生徒がいたとき
この瞬間に止められない涙があふれてきました。
少し報われたような気がしました。
卒業式本番では緊張のあまり、号泣するっていうタイミングはなくって
あっという間に過ぎてしまいました。
生徒との関係性がガラっと変わったわけでもなく、微妙な距離感で解散を迎えたような気がします。
▼おわりに
ここには書けていないハプニングもまだまだたくさんありますが、
できるだけリアルにこのときの1年間を振り返ってみました。
今思い出しても心がキュって締め付けられるっていうか
あれ以上の苦しみってあるんだろうかっていうくらいの
悲しさや辛さ、切なさを体験する一年でした
自分の先生としての人としての未熟さがこういう結果を招いたと考える一方、どうしようもないこともあるって開き直らないとって思う自分もいます。(自責が強すぎると自分を否定し、自分を追い詰めることにもなりかなねない)
そして今日書いたことは自分の中でもこれまでずっと心の奥にしまっていたもので、おそらくずっと表には出さないだろうって思っていたものです。
でも一人の一般の先生が味わったこの体験は
今も全国で確かに生徒と向き合い続けている先生の励みになったらいいなって思って正直に書きました。
負の歴史だからこそ、価値がある
今ではそう思います。
(こういう経験をしたぼくだからこそ心から寄り添える先生がいる)
ぼくが本当に届けたいのは
一般の先生(あくまでもスーパーティーチャーじゃない)が自分の教育観、理想の生徒像、クラス像を見失いそうになったときに、ふと立ち止まってその理想を言語化するコーチング。
そうして、改めて理想を描けることで、勇気づけができて、また再び学校現場で活躍できる先生を送り出す(また、自分のこれからの道が先生じゃないって思えたときにはそれも全力で後押しする)
これまでいろいろな方にいろいろなテーマでコーチングを届けてきましたが、ようやく自分だからこそのコーチングの道が見えてきました。
コーチングについてはまた別の記事で詳しく紹介させてもらいます。
結局、9年目、10年目が書ききれていません。
ラストとかいっておいてラストでなかったのですが、
明日の記事こそは最後になるかと思います。
今日もここまで読んでくださってありがとうございました。
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