脱糞について本気出して考えてみた②
さて、以下の記事で「脱糞」について触れた。
(糞を手で触ったということではない。)
上記記事の最後で言及したように、脱糞について少し真剣に考えてみようと思う「きっかけ」となった事件があった。
今回は、この事件について触れていくとする。
(触ってない。)
◼︎ 本編
先日電車内で、ある初老の男性に出会った。
しかし一目見た時から、彼の様子は不自然だった。
臀部に右手を添えながら、おぼつかない足取りで、車両間を行ったり来たり。
「事前」か「事後」か、脱糞にはこの二種類しかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
「よし、今は時間がないから、少し便をしたら残りは後にしよう!」
これが出来たら…そう思ったことは幾度となくあるが、現実はそう易しくない。
全てを出し切るか何もしないか、これは尿にも言えることだが、これほど潔の良い行為が他に存在するだろうかとまで思わせられる。
話が脱糞したがそう、この初老の男性は極限状態で我慢をしているか、既に漏らしているかのどちらかであると踏んでいた。
幸い次の駅まではあと少し…
だが私達はよく知っている、聳え立つは「緊張と緩和」である。
大便欲求の拒否、特に「下痢の拒絶」は如何程に難儀なものであるか、私達は幼少からそれを学んできている。
口酸っぱいほどに、耳にタコが出来るほどに、身体はそれを私達に教えてきた。
身体の再三の努力も虚しく、人類はいつだって繰り返す。
突如として異臭を感じたかと思いきや、彼の足元には茶褐色の、ペースト状の物体が散乱していた。
彼のタイトめなジーンズの一体どこから、いつの間にそんな物質が生成されたのか…一瞬目を離した隙にこれだ。
何かをつぶやきながら立ち尽くす彼の周りからは、まるで海が割れたかの如く人々が離れていった。
モーセが海を割ったのは、実は脱糞を隠すためのカモフラージュであったという説があってもおかしくないくらいには、排便欲求は脅威なのである。
◼︎ この事件の果てになにを思う…
事件の後、私の脳内では様々な思考が頭の中を巡った。
ここで私の結論めいたものを書いて終了…それでもよいのかもしれないが、もう少し戯れを。
諸君も知っての通り、私も古今東西あらゆる場所で、あらゆるタイミングで時空を超えて脱糞をしてきた、言わばその道のプロである。
(実際、過去の脱糞エピソードによって幾ばくかの対価を得てきた、という事実も存在する。)
次回は、私が人生で初めて英国ロンドンの地に降り立ったその日に、中心地ピカデリーサーカスのこれまたど真ん中で下痢脱糞をしでかしたエピソードでお会いするとしよう。
この語りののちにようやく、私の思いの核心に迫ることが出来れば本望であると言えようか。