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ram1112_stb
生誕を想って
自分の誕生日が近づくと、少し憂鬱になる。
祝福の言葉をもらうことに幸福を感じつつも
はたして私の誕生は祝われるべきものなのか
なんて自問してしまう。
こんなことを考えながら、「おめでとう」に対して返す私の「ありがとう」には、どうも気持ちが乗っていないような気がして申し訳なくなる。
彼らはただただ私を思ってくれているだけなのに、その想いに応えられないのはむずがゆい。
そういえば下の遺書を書いた日も、自分の誕生日に近かった。
そんな憂鬱も、歳を経る毎に薄れてきたように思う。
そして誕生日には嬉しいことも多々ある。
長らく関わっていなかった、最近は想起することもなかった友人からお祝いのメッセージが来る。
以下の記事でも触れているように私は積極的にSNS断ちを行ったりするのだが、誕生日にはそんなSNSを通した交流に救われ、SNSの存在を好意的に捉えたりもする。
世界から届く言葉によって、私は自身の視野が狭まっていることを認識し、見失っていた可能性との再会に胸を躍らせる。
私を思ってくれる誰かの存在を忘れ去る、自身の傲慢さを自戒し、贖罪を胸に今日もまた精進しようと思わせてくれるのだ。
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