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いつかの手記
「生」か「死」か。
白黒つけなければならない問題である。
私にとって「生きる」ということはとてつもなくむつかしい。
しかしながら「死ぬ」こともまた煩わしい。
「自死」について思うところは多々あり、発信したいとは思うものの
その強い思いは憂鬱な精神状態においてまとめ難い。
しかしながら精神状態が多少変化し、「死」についての強い思いは弱まり
書き発信することの必要性を見失う。
故にこのようなことに関する記事は、絶望と希望の境界みたいなところにとどまっている自分にしか書けないのではないかと思う。
今もそれほど書くモチベーションはないが、ここで書かねばいつ書くのかと叫ぶ自分の声を無視するわけにはいかない。
雨音と卓上ライトから聞こえる無機質な作動音のみが鼓膜を揺らす。
キーボードを叩いているのは自分だが、ディスプレイに次々と現れる文字の羅列には自身を感じられない。
遠い。
今日の朝は味噌汁と納豆と白米を食べた。
これら全て、他者から「奪ったもの」と捉えることができる。
おそらく豚や鳥を喰らうことの方が「生命を奪う」という感覚を想起させるのかもしれないが
今日の朝食を誰かに与えることもできただろう。
飢える隣人にこれを譲れば、今度は遠くの親類が飢えるだろうか。
その間に家族は飢えるだろうか。
「家族」を過大評価する理念に囚われていては「家族以外」を救うことはできなくなるだろうか。
私にとって家族が大事ではないとして、家族は私を大事にする上に私にも
彼らを大事にするよう願っているやも知れない。
しかしながらその真意が分かる時は永遠に訪れない。
彼らの言葉や身ぶりにその真意が表れているという保証はない。
彼らが自身の感情を真に理解できている、ということを証明することもまた不可である。
このように自分の思いを書き綴り、世界に発信することができる、この環境・ケイパビリティを有難がるべきだろうか。
それは一理ある。
自身の思いを限りなく明確に書き綴るにはおそらくそれなりの能力が必要であり、そのような能力を得るための教育が必要なのだろう。
ではこのような教育を獲得する機会を持たなかった者を忘れて日々を生きることができるだろうか、否である。
ビジネスとは「搾取」である。
持たぬ者に何かを与える代わりに私は対価を得る。
しかしながら「持たぬ者」を決定するのは「持つ者」である。
彼らに自信を「持たぬ者」であると認識させる手法は多々あり、彼らは「持とうとすること」を強いられる。
なぜ他者を気遣う必要があるのか?
万人に適用される「必要」などないだろう。
しかしながら私にとって他者について思索することは1つの枷であり呪縛である。
どうにもならないのだ。
いや、「どうにもならない」と思ってしまっているのだ。
しかしながら「他者を想うこと」が正義とされる世界では「他者を想わない者」は悪とされてしまうのだろう。
また本稿がバズるとして、そこから何やかんやと大金を得たとして私は心の平穏を得られるだろうか、そうは到底思えないのである。
その大金はどこから発生するのか、誰かが持つはずだったものを奪っていると理解できるのだ。
1つの真理であるのだから。
原因論に基いて思考することを止め、目的論的思考に移行するとして
今の自身の最大の目的は何かとなればそれは、「心の平穏」である。
生きていれば考えてしまう。
ならば死すべきであると思う。
しかしながら死後どうなるかというところも見当つかず。
死後もここまでのような思考に囚われ続けないという保証は当然ない。
本当は何もしたくないのに、何かをせずにはいられないのである。
今だって書きたくもなければ、死について思考することもしたくない。
考えれば考えるほど答えを得られる気はせずただ消耗するような。
しかしながら何かに熱中していなければ絶望はすぐ隣に存在するということを忘却できない。
精神の不安定・脳内分泌物質に関する何らかの異常。
これらによって何らかの「病」・「障害」の可能性を示唆されたとして、それに一体何の意味があるというのだろうか。
自殺は厄介だ。
自ら死を選択するとしてその手法は多岐にわたり、またどれもが一見楽に、またとても恐ろしいものにも映る。
では他者に自分を殺してくれと願えばそれはその人に殺人の片棒を担がせることになり、法的・社会的な制裁を与えることに他ならず、またその人生に十字架を背負わせることにもなりかねない。
自死を選べば親類が、友人が、自身の何らかを悔いるだろうか。
彼らに何をも背負わせたくはない。
ではこのような法、その成立に関わる者を恨めばよいのかと言えばそうでもなさそうだ。
政治を恨むか、国を恨むか、どこかに責任を求めたくはあるものの
その全てに関わる者に思想が、人生がある。
彼らの何かを否定することもまた、私の目的とするところではない。
私を好きだと言う貴方を何らかの形で傷つけてしまうことはしたくないし
私を嫌う貴方にこれ以上不快感を味って欲しくないのだ。
どうだっていい、何も気にせず好きに生きろ
そんな思想も理解できる。
過ぎた自己責任論は諸刃の剣となり自身をも痛めつける。
他者と共に自らをも大事に、それも重々承知だ。
しかしながら思うのだ。
ある時見捨ててしまった彼を、彼女に私は何をできたのか。
考えるのも辛いのだ。
ある時は礼を、ある時は怒りを、傷つけてきた君を。
では私は誰をも幸福にしなかったのだろうか。
否と言うことはできる、すべてにだ。
私が他者を不幸にしている、と言う認識は既に私の解釈であり妄想の域を出ない。
時が、環境が、状況がそれらの正否を変化させるだろう。
だがもし私が他者を幸福にしている、とすればまたこれも問題である。
ある者は「他者の不幸」を糧に幸福を獲得するだろう。
貴方が当然のごとく就職活動を行うことで就職活動を行わない彼らは少数派になるだろうか。
当然のように学校に行く貴方は学校に行かない彼を少数派たらしめる。
死は避けるべきものであるという思想は彼が自死することを妨げる。
いじめをしたことがない?
なぜそう断言できる?
お前の主観は意味を為さない。
気づかぬうちに君の彼氏を傷つけたか。
君の性別を定義しようとすることは正しかったか。
正論はいつでも力を持ち
正直は評価される。
人は自分が正直になれないが故にそれに憧れるのか。
国は分裂し、県は分離する。
万人の万人に対する闘争が現実となる。
これが個人主義・自由主義の末路であろう。
そしていつかまた全体主義・社会主義があらわれその統制に叛逆する自由主義が生まれるだろうか。
人は滅亡すべきであるというのに。
犬が鳴く
植物は
作物は
今日を永らえる理由はどこにあるというのだろうか。
他者が不幸せになることが幸福である人と他者が幸せになることを望む人は共存できるだろうか?
今日私はあなたの何かを奪うだろうか。
既に奪っている。
自分の思いを発信する行為が他者に影響を与える。好きという言葉は誰をも傷つけないと思ったか?
ありがとうという言葉は誰をも傷つけないと思ったか?
全てを終わらせたいのだけれども終わらせるまでの過程は辛く苦しいと思っている。
今日あなたから何かを奪わなければ、私は他の誰かからそれを奪うだろう。
そして何かを奪った自分を責める。
人を責めたくないし、自分を責めたくもないのだ。
死後どうなるのかわからない、ということは死後が楽園である可能性をも示唆するわけで
SNSをみるのもテレビをみるのも辛い。
誰かが美しくなれば、それは勝敗の助長を意味するだろう。
なぜ金を貰わなければならないのか。
タダではできないのだろうか。
自分も生きていけなくなるから、はたまたシステムを壊しかねないから
それでもやりたくないのだ。
それでも生きたいと思うのは人間としてのメカニズムか。
何かを変えたいと思うのも、これまた
考えることは多すぎて、書ききれないし
まとまりづらい。
そうしているうちに疲れて発信できなくなる、そんなスパイラルから抜け出すため、今書いている。ああどうすれば
この文章は誰かの孤独感を減らすか
劣等感を
優越感を
何を与えるだろうか。
私は何を求めるだろうか
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![ゆあ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/146949974/profile_60c32bb45aca16c79e667de9becc238c.jpg?width=600&crop=1:1,smart)