【小説】砂上に咲く花
「それで、先生。娘の具合は……」
ガレンは鋼色の瞳を寝台で眠る若い娘から、不安げに寄り添う夫婦へと向けた。
「夢魔でしょう。彼女が目覚めなくなる前、何か普段と違うことはありませんでしたか」
何か……と夫婦が顔を見あわせる。
「そういえば、街に旅の一座が来ていました。中央の広場で何やら出し物を……彼らが街を去って数日ほどして娘は起きなくなったのです……まさかあいつらが病を、」
旦那のほうがやにわに怒りを滲ませるが、ガレンは落ち着いた調子でそれを否定した。
「夢魔は伝染する病ではありません。娘さんが憑かれてしまったのは……運が悪かっただけです」
「ああ、そんな……」
夫人が悲痛な声をあげて夫にもたれかかった。
ガレンの傍らでふたりの様子を眺めていたソルドネが深くかぶったフードのしたで何か言いたげな表情を浮かべたが、ガレンはそれを目だけで制する。ソルドネは赤く光る両目を細めたが、従順な助手らしく黙っていた。
「どうしましょう。五日後には結婚式を控えているのに……」
「何とかなりませんか、先生」
ガレンは眠る娘に一度視線を戻し、それからまた夫婦を見た。
「夢魔を払うことはそう難しくはありません」
「本当ですか」
「ええ。ですから、今から私のいうものを用意していただけますか」
ガレンが頼んだのは彼の片腕ほどの直径の大きな桶と、それを満たすだけの清潔な水と何枚かのタオルである。この砂と石ばかりの街で大量の水を用意するのは簡単なことではないはずだが、夫婦はすぐさま揃えてみせた。
心配そうなふたりをを退出させ、医者と助手だけがその場に残る。澄んだ水のにおいが漂うなか、ふたりは治療の準備を進めた。
「金持ちなんだね、あの夫婦」
鞄から薬包を取り出しながらソルドネが言う。
「こら。くちを慎みなさい」
「センセもそう思ってるくせに」
減らず口を叩きながらもソルドネは手際よく包みの薬を桶に注ぎ、棒で水をかき混ぜた。薬が溶けきると、今度はガレンが手を水中で泳がせる。複雑な波紋が幾重にも揺らぎ、やがて静まると、水鏡にどことも知れぬ風景が映った。
一見するとこの街の光景のようだったが、あちこちに沢山の淡い色合いの花が揺れ、水路には水が流れているようだ。実際の街にあんな花は咲いていないし、水路は雨季に降る大雨のときにしか水が流れない。
「これが彼女の夢かあ。綺麗なところだね」
「ああ、そうだな」
頷きながら、長く赤い糸を懐から出す。ガレンはそれを手首に巻きつけ、長く余らせた糸の端を助手に渡した。糸を受け取ったソルドネも自身の手へぐるぐると巻き、さらに余った先端を握る。
「じゃあ、行ってくる」
「お気をつけて、先生」
先ほどの斜に構えたような態度とは打って変わり、真剣な面持ちをしたソルドネを見て、ガレンはわずかに口の端を緩めた。しかし、それも街の景色が浮かぶ水面へと視線を戻した瞬間に消える。
強く短く息を吸ったガレンはひと息に桶に張った水へと足から飛びこんだ。そのまま飛沫も立てずに沈む。
ガレンを飲みこんだ水鏡はゆらゆらと不安定に歪んでいたが、徐々にもとの落ち着きを取り戻していく。
やがて滑らかになった水面に、あの花と水のある街の風景と、そこを足早に進むガレンの姿が映った。ソルドネは糸を握りしめたまま、それをじいっと赤い瞳で見つめた。
◇◆◇
ざらざらとした乾いた砂が肌を撫で、一歩足を進めるごとに靴裏で砂利が擦れた。周りには愛らしい花々が咲き乱れ、水路にはさらさらと透明な水が流れている。砂や砂利の感触はひどく生々しかったが、あんなに咲いている花の香りも、水の匂いもしなかった。そのうえ、細部を見ようと目を凝らすと、景色は霞がかかったようにぼやける。
ここは患者であるエレリナが見ている夢だ。彼女が想いが創りあげた空間だから、現実の街とは似て非なる様相を呈し、細かな部分を捉えようとしてもぼやけてしまう。
あまり他人の夢に長居するものではない。赤い糸を引き連れたガレンはエレリナの姿を探して虚構の街を歩いた。からりと晴れた空は高く青く、日差しは白く眩かったが、現と違っていくら照らされても汗ひとつ流れない。
直感に従って街で一番広い通りを進むうち、かすかな笑い声が耳にはいってガレンは足をとめた。この先には、一座が出し物をしていたという広場がある。ガレンは手首に巻いた赤を一瞥し、再び歩きはじめた。
現実のものよりも長く続く道をひたすらに歩く。実体のない水が足元をさらさらと流れ、水面の光が反射してガレンの目を眩まそうとする。鈴を転がすような笑い声は波のように寄せては引き、楽しげに誰かと話しているようだった。
円形の広場の中心には白く堅い石でできた塔のようなオブジェがあり、壁面に嵌めこまれた幾つもの宝石が煌めく。そこに絡みつくように大振りな花が咲いているが、これも現実の街にはないものだった。
淡い色合いの花々をつけたオブジェを囲むように地面にはぐるりと溝が掘られていて、本来であれば雨季のときだけ水が溜まるようになっている。しかし、ガレンの目の前の溝はなみなみと水を湛え、そこに足を浸すようにして女がひとり座っていた。
女は熱心に隣で揺らめく金色の靄に向かって何やら話しかけ、時折あの可愛らしい声で笑う。侵入者であるガレンにはまだ気づかない。
「……エレリナ」
ガレンに名を呼ばれたエレリナは、弾かれたように彼のほうを振り返った。
「……誰?」
「俺はガレン。医者だ。きみを迎えにきた」
きゅ、と彼女の表情が険しくなった。靄は彼女からつかず離れず金の粒子を振りまいている。
「エレリナ、きみがいるべき場所はここではない。俺と戻ろう」
「……」
彼女は押し黙ったまま、ガレンから目を背けた。もう一度名前を呼ぶと、嫌がるように首を振る。
「これは、きみが見ている夢だ」
「そんなのわかってる」
震える声でエレリナが答えた。わかっているのであれば話は早い。早く夢から覚まさないと、金色の靄――夢魔に魂を喰い尽くされてしまう。
「きみはこのままでは魂を夢魔に喰われて死んでしまう」
靄のかかった華奢な肩がぴくりと跳ねた。彼女はしばし暗い顔で俯き、しかし再びかぶりを振る。
「エレリナ、きみは賢いひとだ。このままではいけないことくらいわかっているだろう」
「……でも、ここには彼がいる」
エレリナが靄に身を寄せ、靄のほうも彼女に寄り添うように形を変えた。
夢魔は眠っている者に取り憑いて望む夢を見せることで魂を捕らえ、ゆっくりと喰っていく。そのため夢魔は今もエレリナの望む誰かの姿を写しているはずだが、夢魔の本質を知るガレンには金色の靄にしか見えなかった。
「その男がきみにとって何者かは知らんが、それは偽物だ。きみを救ってはくれない」
「そんなの知ってる。それでもいいの。だってどうせ本物の彼は私のことなんか知らないんだから」
感触のない風がエレリナの髪を優しく乱し、傷ひとつない華奢な指がそっとおさえる。
「きみには一体誰が見えているんだ……?」
「……旅の、楽師のひと」
「街に来ていた一座の、」
靄にからだを預けたまま、彼女が頷く。
「でも向こうは私のこと、きっと覚えてない。だって、私が落としたハンカチを拾ってくれただけだもの」
エレリナの言葉を聞いたガレンは顔を眉をひそめた。つまり、彼女はわずかな接点しかない男の幻に懸想しているのだ。実体のない男の面影に若い命を投げ出そうとしているのだ。
怪訝な表情を見たエレリナがきつくガレンを睨む。
「あなたにはわからないでしょうね、こんな紛い物に縋る私のことなんて」
ガレンが何も返せずにいると、彼女は諦めた色を滲ませた。
「私、結婚しなくちゃいけないの。ろくに顔もあわせたことがない、私よりずっと年上の男と」
彼女の母親が、五日後には結婚式があるのにと嘆いていたのを思い出す。このあたりの地域では、親が取り決めた見合いによる結婚が多いことも。
「きみも喜んでいたと、母君が言ってたが」
ガレンに指示されたものを用意する片手間、母親が話していた。誰もが羨むような理想の縁談で、これから娘は幸せになるところなのに、と。
「そんなの建前に決まってるでしょ」
「……そんなに嫌なのか」
自ら夢に閉じこもるほどに、そのまま死んでもいいと思うほどに。
「そりゃそうだよ。好きでもない男に嫁いで、好きでもない男の子供を産んで、そうやって一生を過ごさないといけないの。そんな思いをするなら、このまま死にたい」
冷たくも温かくもない水が流れ、香りのない花が咲き誇り、金色の靄がガレンに聞こえない声でさざめく。
エレリナの態度は頑なで、どれだけガレンが言葉を尽くしても夢から覚めることを拒んだ。
「私の人生は私のもの。たとえ親だろうが医者だろうが、手出しなんかさせないんだから」
彼女の言葉に呼応するように靄の色が濃くなった。水路の水が波立ち、塔に絡む花がざわついたかと思うとエレリナと夢魔を囲むように蔦を伸ばす。
「エレリナ!」
呼びかけは淡く可憐な壁に阻まれて届かない。毟っても次から次へと花開き、やわらかく、強固にガレンを拒絶した。
これでは声も届かず、姿も見えない。
ガレンが途方に暮れていると、手首に巻いている糸がくん、と突っ張った。現実の世界でソルドネが呼んでいる。帰ってこいと、ガレンを呼んでいるのだった。
迷いを滲ませ糸の赤を見おろしていると、急かすようにもう一度強く引かれる。手首に喰いこむ細い痛みがガレンを呼んでいる。
もう一度、花の壁へ目をやった。密に絡んだ花々の向こう側にいるエレリナの姿はやはり見えない。威嚇するように波立っていた水路は落ち着き、ガレンをいない者のようにさらさらと流れていた。足裏の砂利ばかりが明確で、それ以外のすべてが朧げである。
ガレンは音もなく患者の名前をくちにすると、後ろ髪を引かれる思いで踵を返した。
◇◆◇
土埃のにおいが鼻先を掠める。愛らしい花々も、水路を満たす水もない代わりに、大通りを町の人々が賑々しく行き交う。
患者の夢から戻ったガレンは物思いに沈んだまま、水を張った桶の中心に立っていた。滴る水にもかまわず立ち尽くすガレンへとずっと待っていた助手がタオルを押しつけ、やっと己が現実の世界に戻ってきたことに気がつく。
我に返ったガレンは助手に向かって短く礼を言っておざなりに濡れたからだを拭うと、鞄の前にしゃがんで仕事をはじめた。ソルドネは何も言わず、医者の歩いた後に点々と残った水を拭いた。
調合した粉末状の薬を水で伸ばし、エレリナの瞼に塗る。彼女の蒼白い肌を装う光沢のある赤には夢魔の嫌う薬草などが混じっていて、きつく香った。
エレリナの両親に施した治療の説明と、遅くとも明日には目覚めることを伝えればガレンたちの仕事は終わりだ。泣いて喜ぶ夫人が一晩の宿を勧めるのを丁重に断り、ふたりは患者の家を辞した。
じん、と照りつける日差しのおかげで髪も衣服もすっかり乾き、米神をひと筋の汗が伝う。
目覚めたエレリナはガレンを恨むだろうか。
夫人が言っていたように、彼女は幸せになれるかもしれない。嫁ぎ先の男のことを好きになるかもしれないし、生んだ子供を愛しく思うかもしれない。だが、やはり彼女が危惧していたように孤独と憤怒にまみれたまま生きていくのかもしれない。
すべては可能性にすぎず、誰にも未来のことなどわからない。医者であるガレンにできるのは、クライアントの依頼をこなし、目の前にある命を死から遠ざけることだけなのだ。
「センセ」
町の喧噪の隙間をすり抜けるようにして、ソルドネの声がガレンの耳に届く。
「センセは最善を選んだよ。正しかったかはわからないけど、間違ってもなかったよ」
ガレンは足をとめないまま、ちらりとソルドネのほうを振り返った。ひと混みではぐれないようガレンの上着の端を掴んだソルドネは物珍しげに屋台を眺めていて、もうちっともガレンのほうを見ていない。
深くかぶったフードのしたで忙しなく巡っていた赤い瞳がふとひとつの屋台でとまり、ガレンを引き留めるように上着を掴む指先にちからがこもった。視線の先では店員が宝石のように輝くものを透明な液体とともにカップに注いでいる。フルーツの果汁を固め、甘くて透明なシロップに浸して食べる甘味である。あの屋台では町の名産である宝石を模しているらしい。
「……気になるか」
「え、」
ガレンを引き留めたのは無意識だったのだろう、ソルドネが驚いたようすで瞬きをした。
「このあたりではメジャーなおやつなんだ。あれは色が派手だから人工的に着色しているかもしれんが……まあ、たまにはいいだろう」
そう言いながら屋台のほうへ歩いていけば、その後ろを弾むようにソルドネがついてくる。
やった、嬉しい、おいしそう。
仕事中のソルドネは医者の助手らしく場をわきまえているが、それ以外のときはとても素直に感情を表現する。ひとが年を経るうちに摩耗するものをずっと綺麗なまま持っているようなところがあるのだ。
「ボク、あの青いのとオレンジの食べたいな」
「そんなに食べられるのか」
「お腹減ってるもん」
宝石みたいに目を輝かせるソルドネを眺めながら、ガレンは額に浮かぶ汗を拭った。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
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