【小説】雪うさぎのワルツ
昼から降りはじめた雪は、帰るときにもまだ降っていた。視界を白くけぶらせるほどの勢いは緩やかになり、桜の花弁が散るようにちらちらと目の前を横切っていく。
ただでさえ残業で遅くなった帰り道は静かだというのに、雪が音を吸いこむせいで己の足音しか聞こえなかった。転ばぬように踏みしめて歩くたび、ぎゅっぎゅっと靴裏で雪が鳴く。
雪用の靴ではないので滑りやすく、よたよたと歩く姿はペンギンのようだった。いや、ペンギンのほうがよほどうまく歩くだろう。
寒い。使い捨てカイロを握りしめてポケットに押しこんだ手以外、寒くてたまらない。
かじかんだ耳や鼻がじんじんと痛み、今日は湯船に浸かりたいと思う。時間がかかるし面倒くさいが、それよりもあたたまりたい気持ちのほうが大きかった。
閑静な住宅地に建つアパートは見た目こそ小さくて古くさいが、大家がきちんと管理しているおかげでなかは案外きれいである。
でも床暖房が欲しいよなぁ、と以前お邪魔した友人の家を羨ましく思い出す。あたたまるのも早いし、カーペットより掃除が楽そうだった。
あらゆるあたたかいものに思いを馳せながら足を動かす。
あとひとつ角を曲がればアパートが見えてくる、というところで、子供の声が聞こえてきた。
しんしんと雪が舞うばかりだった世界に、囁くように笑う声が色をつける。
近所の子供だろうか。近所に小学校があるので子供もそれなりに多い。
あまり雪が積もらない地域だから、貴重な積雪に盛りあがっているのかもしれない。だが、いくらなんでもこんな夜遅くに遊ぶなど、親が許さないはずだ。
気温の冷たさ以外の理由で、背筋がぞわりと震えた。
声はアパートのほうから聞こえてくる。いち早く帰りたい。けど、行きたくない。
はあ、と吐いた息が白い煙となって真っ暗な空へとのぼっていく。
背に腹は代えられない。意を決し、ぎゅむと雪を踏みしめてアパートへと近づいた。
くすくすと、そよ風のような笑い声がする。
また一歩、ぎゅっと足を踏み出した途端、とさりと雪が落ちる音がした。
あ、と思い、反射的にそちらを見たら、しゃがんだ子供たちと目があう。彼らも驚いたようで、くちがぽかりとあいていた。
アパートの一角には南天の木が植えられており、そこに五人の子供たちがぎゅっと固まっている。どの子もそろいの白いケープコートに身を包み、深くフードをかぶっていた。ふわふわのファーがついたフードから覗く顔はあまり似ていなくて、きょうだいのようには見えない。
「おにいさん、だぁれ? こんなところでどうしたの?」
五人いる子供のうちのひとりが、戸惑い、固まった空気を破った。
その高い声にも、まるく大きな目にも邪念は感じられない。
「俺は……今帰ってきたところなんだ」
つい普通に答えてしまうと、子供たちにどんぐり眼で見つめられる。
「お仕事ですか」
「こんなおそくまで? 大変だねえ」
「えらいねえ」
「おつかれさまです」
頬と鼻の頭を赤く染めた子供たちにくちぐちに労われ、もごもごと「ありがとう」と返す。
「おにいさんのおうちはどこ?」
「そこだよ。そのアパートの二階。きみたちのおうちは?」
五人の子供たちはお互いを見やった。まるで目だけで会話するように、何度も瞬きをする。
「あそこだよ」
手袋をした指が向けた先には、暗がりにどっかりと雲がかかった空があるだけだった。
「あそこって……」
「今は雲でかくれちゃってるの」
「えーと……、お父さんやお母さんに怒られない? こんな遅くまで外にいて」
そう尋ねると、一斉に子供たちが首を振った。
「だいじょうぶだよ」
「ぼくたちもお仕事ですから」
「お仕事?」
怪訝そうに首を傾げても、子供たちは当然のように頷く。
「そうだよ。これでうさぎをつくるんだ」
ほら、と差し出された小さな手には、やはり小さな雪うさぎが乗っていた。
胴体は雪のかたまり、耳と目はそれぞれ南天の葉と実でできているオーソドックスな雪うさぎだ。
よく見れば、彼らの後ろにもいくつもの雪うさぎがいる。
「それを作るのが仕事?」
「うん」
子供たちがにこりと笑みを浮かべる。
「きれいな雪でつくるんだよ」
「降ったばかりの、人間にふまれていない雪でつくるんです」
「きれいな雪から生まれたうさぎは、月のあおい光をあびて、おどりだすの」
「そうしたら、うさぎは月へのぼるのよ」
「月にのぼったうさぎは餅をつくんだよ」
「ああ、早くおどらないかな」
「ほら見てください、月が顔を出します」
ひとりがそう言うと、確かに厚い雲がゆったりと動き、隙間から月が出てきた。その光は蒼白く冷たくて、しかし今まで目にした月光のなかでも最も美しく澄んでいた。
月の光で雪うさぎがきらきらと光る。そして子供の手に乗っていたうさぎが、とっ、と跳ねた。その勢いのまま手から飛び出し、危うく地面へ墜落してしまうのではないか、と慌てたが、雪でできたうさぎは鮮やかに着地した。
子供たちの後ろにあった雪うさぎたちも加わり、足元でぴょこぴょこと跳ねまわる。
きゃらきゃらと子供たちが声をあげて笑う。
うさぎがリズムに乗って、大きな円を描くようにぐるぐるとまわりながら跳ねる。
いつの間にか、うさぎのからだは雪ではなく、まっしろでふわふわとした毛に覆われていた。耳もやわらかな白い毛をまとい、目は赤くつぶらな瞳に変化している。
とうとう子供たちもくるくると踊りはじめ、月明りのしたで幼い笑い声が輪唱する。
雪の結晶が輝いて、ちかちかと世界が煌めく。
ぴょんと、ひと際軽やかに子供とうさぎが跳ねた。
そのまま、とっとっと、と宙を駆け出す。
走る弾みでフードがずれ、頭に生えた白くすらりと長い耳があらわになった。
「ばいばい、おにいさん」
「よい夜を」
ぽかりと空を見あげたまま、どれだけそうしていただろう。
急に夢から覚めたような心地で何度か瞬きする。
映る視界には晴れた夜空が広がり、積もったばかりのまっしろな雪が地面を覆っていた。
思い出したようにぶるりと寒さに震え、はて、なんでこんなところに立ち尽くしていたのか。雪に覆われた道を歩きつづけたせいで、爪先にはほとんど感覚がない。手袋のした、手もすっかり冷えていた。早く帰ってからだをあたためたい。明日だって仕事があるし、あったまって腹を満たして、眠ってしまいたい。
ぎゅむ、と雪を踏みながらアパートの階段を目指す。
月に照らされた鉄骨の階段は冷たく光り、一歩進むたびにカンと音を立てる。カンカンカン、とリズミカルに響き、ふと楽しそうな子供たちの笑い声が重なった気がした。
しかしそれは、カン、と最後の段をのぼりきったときにはもう、夜気に紛れてどこにも残ってはいないのだった。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
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