ユー・マイト・カムバック・トゥ・ホーム


ネオサイタマはベルノ・ヤードの端に、
暗い雰囲気のゴシックスナックが佇む。
「帰って」とグラフィティされた看板は、落書きではなく店主の趣味。
店の名はオカエリ。
四人掛けのカウンター、その後ろはせいぜい一人が通れる隙間。
この街ではよく見られる様式だ。

日本において4という数は死を暗示し不吉とされるが、
店主は「これでよし」としている。
ゴスだからだ。
不穏な意匠はそれに留まらず、
髑髏型のグラスや黒いレース地のショール、
謎めいたタリスマンに逆さまのブッダデーモン模様玄関マットなど、
店内を様々に彩る。

そんな不吉な店のボス、御年90を越えるゴスママ、ヨウカン。
彼女は今宵、いつもの「機嫌の良い」しかめっ面ではなく、
どこか憂鬱そうな表情で赤い蝋燭の形をしたグラスを拭いている。
もう二時間も前から。

老人特有の行動、ではない。
「ン?婆さん、さっきもそのグラス、拭いとらんかったか」
あまりにもはっきりした原因、その張本人がヨウカンに話しかける。
縁が擦れ切ったフードを辛うじて被り、
禿げた後頭部をどうにか覆った老境の男。

「ええ、ええ。同じ形のグラスが沢山ありますからねェ」
キレのある、未だ若々しさの残り香を感じさせる声。
僅かに嫌味を込めて答えたママの返答をろくに聞かず、
男は隣を見て話を再開する。
「それでよ、どこまで話したっけか。プラハ城の話、やった?」

「ハイ。伺いましたよ、ペールギュント=サン」
それに答えるのはまだ若い男。
ぴっちりとしたカーボン製サイバータキシードの上に、ダークブラウンのコート。
サラリマン的ながらファッショナブルな人物は、ペールギュントと呼んだ男に微笑みかける。

「そうか!
 じゃ、いよいよその次だよ、チャブラギ=サン、俺の話してえのは!」
ペールギュントは快哉を上げる。
更には拍手までして場を盛り上げんとするが、店内に客は二人だ。
ヨウカンが眉間の皺を一段増やすだけの迷惑行動に終わるそれを、
たっぷり一分間は続けた後、枯れた雰囲気の男は話し始める。

「旧チェコ市街の見事な景観に別れを告げた俺は、
 またまた仲間に取り次いでポータルに乗ったんだ。
 今度の行き先は何処だと思う?」
「どちらだったのですか?」
楽しげに話すペールギュント、合いの手を入れるチャブラギ。
和やかな歓談である。

ヨウカンの旨とする健康第一の標語に則り、
オカエリの営業が終わるのはまだ浅い時間だ。
客が数時間駄弁るくらいのことは、酒場に珍しいことではない。
では何故、彼女がこのような態度を取っているのか。
そこには二つの理由があった。

第一に、彼の話の内容である。
「ナスカだ!
 知ってるか、ナスカ。でっけえ地上絵がある。
 ハチドリに、オムラのエンブレムに……色々だよ!
 俺、ちょっと前まであそこに居たんだ。先月かな?
 古代のロマンだの何だのに想いを馳せてよ!あっという間だぜ」

ネオサイタマから一歩も踏み出したことの無い老人ママでも、ニュースで知っている。
そのナスカが数ヵ月前、地球上から消えてなくなったことを。

「ほう、ナスカ!
 ギザはクフ王のピラミッドに万里の長城と来て、
 ペールギュント=サンは考古学に深いお方でいらっしゃる!」
「おう、そうよ!
 大英博物館でロゼッタストーンも観てきたぞ!
 自由なんだ、何せニンジャだからよ!」
つまり、この男は法螺吹きなのだ。

2037年以降、世界を吹き荒れるマッポーカリプスの嵐は、
10年が過ぎた今もなお衰えるどころか強まるばかりである。
その嵐の名はニンジャ。
太古の伝説に過ぎぬ筈の、超自然的脅威。
彼らが現実として蘇り、人類社会を再び脅かし始めたのだ。

警察機構はおろか国家の枠組みすら消え去った今、
人々はこれまで以上に強かに生きねばならない。
ヨウカン老人も、その例外ではなかった。
(大英博物館?
 バカ!ロンドンなんて、アンタに行って帰って来れるもんかい)

彼女は詳しい。
老齢ながらIRCを巧みに用い、店の宣伝用ブログも開設している。
インターネット上で見聞きする情報の中に、
大英博物館が危険なニンジャに包囲されているという噂もあった。

「ワーッハッハッハッ!」
目の前で馬鹿笑いするペールギュントたち。
どう見ても、噂に聞く怪物と同じ存在であるなどとは思えない。
事によっては自分よりもひ弱そうではないか。
矍鑠としたヨウカンは鼻息を荒くする。

しかし酒の席での法螺話などというものは、
酔っ払いにある程度許された愛嬌の範囲に収まる。
いかに内容の無い退屈な話であろうと、
客がそれを日々の癒しとするのならば、
酒場を預かるものとしては歓迎する他あるまい。
問題は、もう一つの理由であった。

「いやあ、楽しいお話です、ペールギュント=サン!
 全くもって、何度聞いても心ワクワクといたしますね!」
これである。
ヨウカンのグラスを持つ手に力が篭る。
オカエリの何が気に入ったのか、
彼らはここのところ度々来店し、全く同じ話を繰り返していくのだ。

ドン・キ・ホーテ未満の面白味の無い与太話をする男と、
その話にこれまた含蓄の感じられない賛辞を送る男。
ボトルを振り上げ暴れ出す酔漢スモトリの方が、
治安維持コーポ兵を召喚できる分まだマシだ。

それでもヨウカンは、
プロフェッショナルの意地として、ただ黙って彼らが去るのを待つ。
Y2K以前から続く店と、自分自身の矜持の為に。
「スミマセンね、お二人とも。今日はもうじき、閉めますんで」
「オッ?そうか」
「では、これにてお開きとしますか!」

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男達は今日もオカエリに現れ、
同じように騒ぎ、同じように去っていった。
この迷惑客のことは既に周辺に知れ渡り、
ヨウカンを心配して休業をすすめる同業者もいたが、
彼女は頑として店を続けた。

月破砕年、
地割れとポールシフトによって店そのものが被災した時も、
防護シャッターを閉めて店内で仕込みを続けたヨウカンである。
たかが駄法螺に付き合えぬとなれば、オカエリの名折れ。

彼女は意気込んで、
気に入りのカヨウキョクを古いラジカセに差し込む。
流れ出たムードある旋律に心を落ち着かせ、
さぁイクサだとばかりに胸を張る。
腰が悪く、物理的にはできなかったが、
気持ちの上ではかのニオー・ニンジャのように、真っ直ぐな姿勢を取ることができた。

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ゴーン、ゴーン、エブリワンゴーン……。
陰鬱なブッダチャント電子音がオカエリの入店ミュージックだ。
その日は先にチャブラギがやって来た。
いや、いつも先だったか?
「イラッシャイマセ」
「ドーモ。今日はお早いのですね?」

「もうじきオールド・オーボンだから。
 しばらくは早く閉めるよ。その分開くのも早い。
 忙しくて気付かなかったかい、サラリマン=サン」
「そうでした!
 いやはや、納期カレンダーばかり見ていてはいけませんね!」
チャブラギが明るく返す。
ヨウカンはただじろりと見返した。
この男だけなら無害なのだが。

今日のチャブラギは黄緑色のPVCスーツ。
毎日スーツの色が変わる男だ。
羽振りが良い、つまりただのサラリマンではないのだろう。
「なるほどそれで、今日は色んなロウソクが吊られてるんだ。
 見慣れないボンボリも回っている。興味深い!
 こちらのキュウリにナスは、もしかして?」

「ハイ、アンセスター用の魂の舟ですよ。
 やっぱり、これが無くちゃねェ」
存外よく見ているな、と老婆は感心しながら答える。
「うんうん!
 そうした風習が息づいていてこそ、文化を物語ることができる!
 大切なものですよね」

どこか上滑りした、快活さが鼻につく返答。
だが、内容自体に文句はなかった。
(なんだい、あんなつまらない男に付き合ってるのがウソみたいだよ)
ヨウカン老人は、そこで初めて男達の関係に興味を持つ。
そもそも歳の離れた二人だ。
何かのビジネスか?

疑問は浮かべたものの、客の事情に踏み込むのは彼女の主義に反する。
「ええまぁ、そうですねえ。何か飲まれますか」
「では、サーモン・トニックを!」
ヨウカンは何も訊かず、
合成イクラの缶詰めを開けてカクテルを作り出すのだった。

間も無くペールギュントが姿を現すと、
やはり店内は連日通りに法螺話のループ再生会場と化してしまう。
別の客も入っては来るのだが、皆、十分もしない内に出ていく。
無理もない。

「知ってるか?
 あのピラミッドを作らせたファラオ……
 なんとまあ、ニンジャだったんだよ!拝謁してきたんだ、俺!」
(ハア、下らないねえ…)
ヨウカンはいつもより多少長めに耳を傾けてみたが、
彼らが互いに言及することはなく、すぐに退屈になってやめてしまった。

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ヨウカンは生粋の日本人ではない。
日本において国際社会への扉が大きく開かれていた時代に永住権を取得した、西欧国家の人間である。
今や、精神的には日本人以外の何者でもない。
だが彼女のセイシンテキのどこかに、
ヨーロッパや世界への郷愁めいたものが混じることがあった。

長らく洋書や西洋クラシックを趣味としていたヨウカン。
だが、Y2Kが世界の全てを変えた。
磁気嵐と、日本の鎖国。
海外の文化は、キョート・リパブリックを通じて断片的にしか流入しなくなってしまったのだ。
彼女は、途方に暮れた。

当時のヨウカンはオーエル。
定年近い年ながら、
チーフオフィサーまで務める実力派だった。
多少のUNIX知識もその頃得たものだ。
カチグミといえばカチグミであろう。
だが、毎日が激務。
趣味の癒し無くば、即日カロウシは免れぬほどの。

UNIX大量爆発の被害からは逃れたものの、
続く電子戦争の影響で仕事も無くなった。
公私ともに打ち込めるものを失ったヨウカンは、
見る影も無くすっかり弱り切ってしまったのだ。

これを心配した元同僚から紹介されたのが、
とあるカリスマユーレイゴスマダムだった。
彼女はゴシックに心の隙間を埋めてもらった。
その感謝から数年後、
ゴシックスナックであるオカエリを開店したのだ。

やがて磁気嵐が消え、月が砕けて二つになると、
動乱の中で日本という国家は解体され、
ネオサイタマは再び世界に向けて門戸を開くようになった。
彼女の中の郷愁は消えずに残っていたが、
敢えて元の趣味を取り戻そうとはしなかった。

それだけの歳を取ったということだ。
だというのに。
「ドイツ、シュバルツバルト!
 あの黒い森に何があるか、俺達は確かめてえと思った。
 だから現地ガイドが止めるのを振り切って、走り出したのさ!」
「なんと、危険です!」

だというのに、何で今さら。
ペールギュントの世界旅行譚は続く。
海外諸国の生の情報を装ったそれは、
否応なくヨウカンの精神に触れてくる。
痛みを覚えるほどではない。
ただうっすらと残った傷痕の上を何度も撫でられるような、
絶妙な不快感だけがあった。

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やはり、店に来るのはチャブラギがいつも先のようだった。
ペールギュントが一人で入店してきたことは一度も無かった。
その日までは。

ゴーン、ゴーン……。
オールド・オーボンの三日前が、その日だった。
「よう。開いてるかね」
エメラルドグリーンのドアを開けて顔を覗かせたペールギュントが、
ヨウカンを見ずに目をキョロキョロさせて言う。

「……イラッシャイマセ」
ヨウカンは、彼らがここ二日間現れなかったが為に、油断していた。
心を無にして相対する覚悟が薄れていたのだ。

「ははは、じゃ遠慮なく」
血色の悪い痩けた頬を僅かに綻ばせて、ペールギュントが中に入る。
違和感がヨウカンを掠めたが、彼女は平常通りに対応する。
「ご注文は」
「ああ、マンダリンのサケを」

この日のペールギュントはどこか落ち着きがあり、
カウンターの端で静かにちびちびと酒を飲み始めた。
他に一人いた客が席を立っても、声一つ上げずに。
「今日はいらっしゃらないんですか、サラリマン=サンは」
 
その雰囲気がなんとなくいたたまれず、
ヨウカン老人はペールギュントに話し掛ける。
そう言えば、注文を訊ねる以外で、
自分から声をかけるのは初めてだったか、と思いながら。
ペールギュントは意外そうな顔でヨウカンを見て、思い出したように言う。

「忙しいんじゃねえかなあ。
 いつの時期も、サラリマンは忙しいもんよ」
「待ち合わせは、されてるんです?」
ヨウカンは重ねて問う。
何が気になったのか、自分でも不思議に思いながら。

「してねえや……」
急に、しゅんとした様子になるペールギュント。
「約束なんて、守れたことないよ」
会話はそこで終わった。
立ち入ってはならないアトモスフィアを感じたし、
何より下手に彼を刺激して法螺話を始められても困るので、
ヨウカンはそれ以上の質問をやめたのだ。

結局その日、チャブラギは現れず、
ペールギュントは一杯の酒で数時間もたせると、
いつの間にか居なくなっていた。
不思議なこともあるものだ、否、冷静に考えれば呑み逃げでは。
色々に考えながら店じまいの作業を始めたヨウカンは、
ペールギュントの座っていたチャコールグレーの丸椅子の上に、
草臥れた素子と共に置かれたものを見つける。

マンダリンだった。
カクテルに添えた物とは違う、拳大の。
忘れ物にしては置き場所が不自然であったが、
ヨウカンは深く考えずに拾得物の棚に上げる。
そのまま片付けを続け、
ネオサイタマの夜はこれからという早い時間に店を出た。

歳にしては元気なヨウカンだが、ガタは全身に来ている。
ゆっくりと家路を歩いていては、
数ブロック離れたアパートを行き来するのに十分以上かかってしまう。
中古の自走式電磁車椅子が彼女の足だ。

家に着くまでの道中、ネオサイタマの空を見る。
雨は降っていないが、どんよりと曇った暗黒の空。
彼女はその日、青空の夢を見た。

ネオサイタマで稀に見られるものとは、違う色。
群青、濃紺、エメラルド。
いくつもの青がグラデーションして入れ替わり、
視界いっぱいに広がる空を染める。
夢の中のヨウカンはまだ若く、
目まぐるしく変わる空を、ぼうっと見上げている。

隣に、誰かが居るような気もしたが……。
(……この色は?)
(オセアニアだ。次が、グリーンランドの……)
…その事は、自室のセンベイ・フートンから這い出た頃には、彼女の記憶から消えていた。

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ヨウカンには家族がいない。
生来天涯孤独であり、
日本に住んでからはガイジン同士のコミュニティに身を置いたが、
時が経つにつれ次第に離れていった。
その頃から、既にゴスにハマる素養はあったのかもしれない。

コミュニティにいた間はそれなりに人と関わったし、
恋愛もしたものだが、何かが上手く行かなかった。
独居生活に至ったヨウカンには後悔こそあれ、未練は無い。

ただ、あの青空の夢のせいだろうか。
人付き合いの中で、一人、趣味嗜好の妙に合った男がいたのを、
ヨウカンはふと思い出していた。
顔も名前も忘れたが、
共通する趣味……好きな音楽のことは、よく覚えている。
彼が、好きだったのは……。

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オーボン最後の夜がやってきた。
この日、霊魂として現世に立ち現れていたアンセスター達は、
子孫の作ったエレメンタルホースと呼ばれる小舟に乗り、
オヒガンへ還るものとされる。

ヨウカンはこの風習に慣れ親しんではいるが、
同時に、自分にはあまり意味の無い行事だとも思っていた。
実際、親の顔すら知らないのだ。
素性のわからない祖先を敬うのも難儀である。
だから今年も、
その夜が過ぎたらそそくさとオーボン飾りを外すつもりでいた。

ゴーン…ゴーン…。
ドアを開け、チャブラギが入って来た。
今年は法螺話と共に、顔知らぬ先祖を見送ることになるのか。
ヨウカンは心中でしかめっ面を作る。
だが。

「ドーモ、ヨウカン=サン。
 いえ、ジェノバ・コーデル=サン」

チャブラギを、見る。
男の顔は優しげである。
スーツの色は白、シャツはショッキングピンクで、ネクタイはまた白。
いつも通りの洒落たサラリマン的服装だが、どこか異様さを感じさせる。
しかし、それよりも。
「名前…ナンデ」

ヨウカンの混乱が治まるのを待つように、
チャブラギは目を伏せ、しなやかにオジギをした。
「色々と、お話があって参りました。
 こちら、お邪魔してもよろしいですか?」

吊られたゴスローソクの灯すダークグリーンの炎に、
ぼんやりと照らされるチャブラギ。
白いスーツが死に装束のようで、
緑の陰影は風にはためくローブにも見える。
とすると、この男は死神か。
あるいは、見知らぬ先祖の霊か……。

そこまで考えたところで、ヨウカンの動揺は治まった。
「ドーゾ。何を飲まれますか」
彼女はもう、自身の仕事を思い出していた。
死神だろうとなんだろうと、客なら受け入れるだけだ。

「いえ、仕事中ですので」
腰掛けながら、男は一度断る。
が、老婆の瞳に強い意思が込められているのを見て取ると、
改めて言葉を繋いだ。
「では少しだけ、いただきます」

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ヨウカンは、
昼過ぎ、開店前のオカエリを訪ねてきた男を思い出す。
黒革の手帳を見せびらかすようにヨウカンへ突き付けると、
その男はこう言ったのだ。

(ドーモ、オポチュニティです。
 世界的な詐欺グループの首謀者、
 カササギが目撃されたってのは、この店だな?)

チャブラギ・ミル。
ユイゴン・ユニバーサル・デリバリー、
専属エモーショナル・エージェント。
カウンター越しに受け取った名刺を、ヨウカンはしげしげと眺めた。
デッカーの言が真実なら、これは偽物か?

「資産家の方の遺言状管理や、
 財産分与のお見積り、
 遺産管理術のレクチュアなど、国際的に請け負っております」
チャブラギはさらさらと喋ってから、
一度言葉を切り、カウンターに両手を突いた。
「お話の前に、まずお詫びを。
 連日ご迷惑お掛け致しましたこと、申し訳ございません」

チャブラギは腰を曲げ、狭い店内で窮屈そうに頭を下げる。
アンコ抜きオハギの形をペタペタと整えつつ、
ヨウカンはチラリと男を見て言う。
「もういいですよ、それは」
パッと顔を上げるチャブラギ。
「お許しいただけますか」

「ハイ、ハイ」
「良かった」
安堵の吐息を漏らすチャブラギ。
今まで以上にコロコロと変わるその表情を見て、
ヨウカンは今更ながら思う。
この男、非常に整った顔をしている。
何らかの整形であろうか、白い肌に皴一つ無い。

チャブラギはその顔をにわかに硬くし、神妙な面持ちで語り出す。
「先日、
 ウォフ・ゲルッペ=サンが亡くなられました」
「ゲルッペ……」
ヨウカンの手が止まった。

ああ。思い出す。
昔、自分にプロポーズしてきた男の名が、それだ。
放蕩趣味の根なし草で、
ふらりとコミュニティにやって来て、去っていった男。
自称ドイツ系で、好きな音楽はクラシック……
特に好んだのが……グリーグ。

「どうしようもないひとでしたけど、そうですか」
ヨウカンは嘆息するが、そこに驚きは無い。
知り合いが先に逝くことには馴れきっている。
そういう年だ。
目を瞑りオジギするチャブラギに、しかしヨウカンは訝る。

「それでその、どうしてアタシに、それを?」
長く疎遠だった相手だ。
死期に至って知人を頼るというのは分かる話ではある。
だが死後、訃報の為だけに人を寄越すことは稀だろう。
手紙なりIRCなり、手段はあるのだから。

「衰亡性ミーミー転移盲」
答える代わりに、
聞き慣れない言葉がチャブラギから飛び出す。
「ゲルッペ=サンの死因となった病名です」
「はァ。ミー、ミー…?」
「非常に珍しい死因でした。
 何せ、ニンジャだけが罹る病なのですから」

ニンジャ……。
あのウォフ・ゲルッペが、ニンジャだった?
チャブラギの明かした言外の事実に、
ヨウカンは驚くよりも、むしろ納得していた。
風来坊であることはよく知っていたし、
コミュの仲間を妙に下に見ることがあったのを思い出したからだ。

チャブラギが続ける。
「私どもは、氏自身から直接依頼を受けました。
 今から半年以上前のことです」
カウンター右手に並んだ、
ヨモギの葉が浮かぶハーブ・シリンダーを観賞しながら、淀みない口調。
葬儀屋にせよ詐欺師にせよ、話のプロであることを窺わせる。

「ゲルッペ=サンは死期を悟っていました。
 その死が避けられないことも。
 しかしその死は、彼には受け入れ難いものでした」
あまり知られていないことですが、と繋いでチャブラギは言う。
「ニンジャは人間と子を成すことはできません。
 他の手段で、自身の遺伝子を後世に伝えます」

ヨウカンの脳裡に、
ゲルッペとの生活が朧気に浮かんでは消える。
ならばあの男はどのような気持ちで、
ジェノバという女を求めたのだろう?

「その手段が、ミーミー(meme)です。
 ミーミーとは、情報遺伝子のことを言います。
 難しい概念に聞こえますが、単純なことです。
 親が子に、子が孫に伝えるもの。
 教育や家族愛の交歓は、みなミーミーの伝達だと言えます。
 ニンジャとは、それが全ての生き物なのです」

「ニンジャはドージョーを作り、
 ニュービーを募ってカラテを伝え、
 やがてはカイデンを与えます。
 自身のドーを後世に残す為の、生存戦略です。
 古のニンジャの多くが、このメソッドに則っていました。
 これは殆ど、本能に近い」

チャブラギが大きく噛み砕いた形で話していることは、
ヨウカンにも伝わる。
理解できたのは半分程度だったが、それでも話ぶりから、
これが救いの無い結論に到達せんとするものだということは予感できた。

「衰亡性ミーミー転移盲は、
 そのニンジャのミーミーそのものに潜む、
 先天性の欠陥症状だと言われています。
 物理的なものではなく、除去不能だとも。
 転移盲を持つニンジャは、ドージョーを作ることもできない……いえ」

もっと身近な言葉にするならば。
チャブラギは一拍置いた。
老婆の黒目がちな瞳を見たのだ。
「誰かに、自分とは何か、を伝えること。
 人が生きて、当たり前にすること。
 コミュニケーションというもの、それ自体が、
 極めてフラグメンテーション化された形でしか行えない」

「伝えるという行為の否定。
 自分の人生が、全くの無価値だと突きつけられるに等しい」

それは、生きながらジゴクにいるようなものだろう。
その苦しみを、誰かに伝えることすらできないのだ。
すがるべきブッダにさえ。
「病状は、これに留まりませんでした」
カウンター左手に並ぶ人工マリモ・ポットに目をやり、
チャブラギは話し続ける。

「長期に渡った転移盲は遂に細胞分裂の機能すら侵し、肉体を麻痺させていました。
 ゲルッペ=サンはジェノバ=サンとの再会を望まれましたが、
 既に歩くこともできず、
 お年を思うとジェノバ=サンにお越しいただくのも難しい」

「そこで、私に声がかかったのです」
チャブラギが、一旦話を結び、微笑む。
「さて。
 ゲルッペ=サンはニンジャですが、長らくの病のせいもあり、
 大きな蓄えをお持ちではありませんでした。
 私どもは有体に言えば、カネモチ相手のアコギ・セラーです。
 では何故、私のような者が、氏に呼ばれたのでしょうか?」

微笑を絶やさぬままに、チャブラギは話す。
「ジェノバ=サン。
 昼頃、デッカーがお店に来られたかと思います……
 そこで伺ったことと足し合わせれば、この答えは自明かと。
 いかがでしょう?」

「……ハァ」
ヨウカンは膝掛けPVCアンカの位置を直して、嘆息する。
週刊ゴシック誌のスクラップを束にまとめ、棚に詰める。
髑髏模様の親指ネイルアートを見つめる。
アンコ抜きオハギの三段目を、乗せる。

バイオ水牛皮革張りのチェアを回転させ、店の奥に向き直る。
手を伸ばし、
黒塗りの旧世紀プラスチックケースから、一枚のレコード盤を取り出す。
戯曲『ペール・ギュント』。
「ええ……ウォフ・ゲルッペは、結婚詐欺師でしたものね」

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「そう。
 サーペントは同類の暗号を読む、です」
目を伏せコトワザを呟くチャブラギ。
そちらを見ず、ヨウカンは首を傾ける。
「ゲルッペ。
 あんな顔、でしたかねぇ……」
短期間だが、二人は同棲していたこともあるのだ。
話の流れが導いた答えだったが、にわかには信じがたい。

「そういった病なのですよ。
 私でさえ、氏の顔は曖昧です」
カウンター上で手を組むチャブラギ。
「人を相手にする商売人がこれとは。
 まったくもってイカン・ノ・キワミ」
眉根を寄せ横目になった顔は、
詐欺師らしからぬ真剣味に溢れている。

ヨウカンは再びチェアを軋ませ、チャブラギを見る。
ペールギュントがゲルッペなら、あの法螺話は何だったのか。
そもそも、どうやってここに来た?
無言で問う老婆の瞳に気付くと、
チャブラギは苦渋の顔を切り替えて微笑んだ。

「ゲルッペ=サンは、ここには来ておりません」
チャブラギは、真っ直ぐに答えた。
「来ていたのは、弊社のニンジャ。
 死者を一時的に身に宿す、クチヨセというジツが成せるワザです」
「死者を……ニンジャ……?」

「ご紹介します。
 ドーゾ、監視カメラの方をご覧ください」
チャブラギが手を差し伸べ、促す。
確かにヨウカンの足元には、
監視カメラ映像を映したモニタがある。
この男が、何故それを知るのか。
不気味に思ったが、
ヨウカンは素直にそちらを見た。

店先を映した映像の中心、橙色の装束を身に纏うニンジャあり。
「ニンジャリアリティショック緩和の為、
 映像越しでシツレイいたします。
 彼がそのニンジャ、メダリオン=サン」
チャブラギの言葉に合わせ、
映像のニンジャは手を合わせオジギした。
思わず、彼女も頭を下げる。

「クチヨセ・ジツ。
 何かと使用に条件のある難しい術理ですが」
ヨウカンとモニタのやり取りを、
チャブラギはカウンターから乗り出し、楽しそうに眺める。
「細かい原理は割愛いたします。
 ただ、オヒガン近寄るオーボンの頃が、最も効果を発揮する。
 その点だけ、お見知り置きを」

ヨウカンが目を戻すと、男は座り直した。
「最適はウシミツ・アワーだそうですが、
 それではお店が閉まってしまいますからね。
 彼には無理をしてもらっています」
橙色のニンジャが、やれやれという仕草を見せている。
店の外からでも聴こえている。
ニンジャ聴力なのだ。

「そんな彼でも、限界はあります。
 クチヨセは実際、
 本当に死者の霊を呼び出せるわけではありません」
ユーレイ・オバケ型のグラスの縁を撫で、
残念そうに言うチャブラギ。
「その実態は、残留思念。
 かつて居た痕跡、世界に刻まれたコトダマを集めること。
 人格を再現するワザであって、死人である必要は無いのです」

専門用語ではソウルトレース・ジツと呼ばれるそうです、
とチャブラギは繋ぐ。
「即ち、
 ジェノバ=サンにお見せしたペールギュントという人物は、
 在りし日のゲルッペ=サンが世界に残した、
 思い出の欠片とでもいうべきもの。
 内容が曖昧で誇張気味なのも、宜なるかな」

チャブラギの長口舌に、ヨウカンは割り込む隙を見出だせない。
「氏が臥せったのは半年以上前。
 ナスカ消滅や各地のマンデルブロ爆発、
 シトカの天変地異などは、彼の話に出ませんでした。
 その身がまやかしであっても、
 話自体は彼にとって紛れもないリアル。
 法螺のつもりなど無いのですよ」

「故に、内容は毎回同じ。
 歪んだレコードを再生し続けるように」
チャブラギはグラスを撫でる手を止める。
「それでも構わない。
 何も伝わらなくとも。
 ゲルッペ=サンのその言葉を受け、我々は行動しました」

「マッポーカリプスさながらの世界で、人一人探し出す。
 難行でした。
 ジェノバ=コーデルという人物が、今どこにいるのか。
 生きているのか。そもそも本当に実在しているのか。
 場所は日本と聞いたものの、
 月破砕どころかY2Kよりも前の話では参考になりません」

「捜索開始からオカエリに至るまで数ヶ月。
 お二人がかつて身を置いたガイジン・コミュの同窓会名簿と、
 勤められた会社の雇用契約記録。
 それらのサルベージが決め手でした。
 しかしながら、
 あと一歩というところで我々は間に合いませんでした。
 オーボンの時期を待たずして、氏は身罷られた……」

無価値の烙印から逃れんともがくも、約束の人に辿り着くことなく。
「戯曲のようにはいかなかった。
 ペール・ギュントには、なれなかったんだわ」
アナヤ。ヨウカンは項垂れる。
ゲルッペの最期が、自分の今に重なるように思えたのだ。

だが。
「ええ。
 ですから私は、彼をペールギュントと名付けたのです」
「…エッ?」
ヨウカンはチャブラギの言葉を咀嚼しようとするが、うまくいかない。
何か、文脈に齟齬があるのを感じた。

「氏から伺った転移盲について、
 私には予てより一つの疑問がありました。
 それは人の記憶に残らずとも、
 物の記録には残るのではないか、ということです」
ヨウカンの投げかける視線に気付かぬかのように、チャブラギが続ける。

「ペールギュントというニンジャ人格の形成過程は、
 この証明作業に他なりませんでした。
 メダリオン=サンが彼を『完成』させたのは、
 ゲルッペ=サンの死後一月経った頃。
 その間、
 コトダマ空間に散逸していた氏の情報は消えていきましたが、
 ローカルUNIX上に保存した映像記録は傷一つ無く残っていたのです」

強い熱を帯びた語調で、チャブラギは語り続ける。
「このことから、私は結論付けました。
 転移盲に罹ったミーミーは、
 グローバルコトダマ空間におけるadmin権限に近いものを有し、
 ドーの伝達ルーチンを司るニューロンの破壊と発達抑制を行うが、
 意味的流路は限られておりエテル感染の危険は無い」

「然るに、
 この人格を疑似ニューロチップ化した生体由来エメツ塊に付与すれば、
 転移盲研究に取り組む大手製薬メガコーポに対し、
 強力な交渉材料として機能することだろう……」
グイ、と呷ったグラスを、チャブラギは静かに置いた。

「要は、大変なカネになる。
 これを予感したからこそ、
 私はゲルッペ=サンの依頼を受けたのです。
 ビッグディール。
 それだけが私の興味対象なのですから……しかし」
チャブラギは空のグラスを見詰める。
「非常に残念なことに、ペールギュントは消えてしまいました」

「消えた……?」
「ええ。私の見立てが間違っていたのでしょうか。
 三日前、突然のことでした。
 人格を保存したUNIX上から、バックアップデータごと。
 私の半年の努力が、
 手に入るはずのカネが、無になってしまったのです」

「一体、何が起こったのか……」
暫し、消沈した姿を見せるチャブラギ。
だが突然パッと顔を上げると、
元の落ち着きと微笑みを取り戻した。
「とまあ、私の失敗はさておきまして」

「お話を戻しますと、
 メダリオン=サンがクチヨセにてかき集めた、
 ゲルッペ=サンの世界紀行記録、そのマスターピース集合体。
 それがペールギュントという疑似人格だったわけです。
 ウォフ・ゲルッペ、
 ニンジャとしてはラヴハンターを名乗った人物とは、
 実際別人と言えます」

「別人、なんですか」
「姿形は同じ、有する記憶も氏のもの、病までそのまま。
 ですが、彼は貴女に辿り着く必要がある。
 依頼は依頼ですから、
 依頼主が死のうが私個人の金儲けが無くなろうが、
 必ず完遂されなければなりません。
 それが私のプライドであり、彼をペールギュントと名付けた理由です」

チャブラギの微笑みは、諦めたような、
それでいて人懐こい笑いへと緩やかに変化する。
「もうお分かりかもしれませんが、
 今日私は、この愚痴の為にお店に来たのです。
 本来ヨウカン=サンにこのようなお話をする予定は無く、
 オーボンが過ぎたら彼を売り、
 巨額のカネと共にトンズラ・エスケープメントを敢行する筈でした」

「それが、このザマですよ。
 こんな失敗は……『目覚めて』初めてだ」
大きく手を広げ、ローソクが多数吊られた天井を仰ぎ見る。
チャブラギの視線が上がる際、ヨウカンと目が合った。
光の反射の関係か。
老婆の目にも、男の隠すものが見えた。

意思持つオイランドロイド、ウキヨ。
その男性体であるチャブラギ……カササギの目の奥。
ヒトダマのごときグリーン・ローソクが、
彼の出自を証明する守護天使の翼を、ゆったりと炙っていた。
「人間も、なかなかどうして奥が深い……」

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「ではそろそろ」
チャブラギが席を立ち、
チェリーの入ったブラッディ・シャケを呷って襟を正す。
ジュズー・ネックレス模様の小皿を拭くヨウカンが横目に頷く。

「ゴキゲンヨ、ヨウカン=サン。
 機会があれば、今度は仕事抜きでお邪魔します」
ドアを開き、別れを告げる。
「ゴキゲンヨ。またドーゾ」
無愛想な店主にパタパタと手を振って、チャブラギは店を出た。

夜のベルノ・ヤード。
「懐かしウェスタン」「ベーリング海」「ワンダバ―」
といった猥雑なネオンの下、チャブラギは腕を広げて深呼吸する。
ウキヨには不要な動作だが、
彼はこれを精神的メディテーションの一環として行う。
「カササギ」
そこに、音も無く橙装束の人物が並んだ。

「おや、メダリオン=サン。どうしました?」
ネオン街に、奇妙な男二人。
この辺りには質の悪い客引きも少なくないが、
明らかにニンジャであるメダリオンの存在もあって、
彼らの会話を邪魔する者はいない。
「何故、ペールギュントを回収しなかった」

チャブラギは再び腕を広げ、
喉の発声機構から大きく空気を取り入れる。
「ハーッ」
そして吐き、笑う。
「うーん、この時期、ネオサイタマの夜風は気持ちいいですね!」
「白を切るか」
メダリオンがそれを横目で見下ろす。

「お前の仕事だ、俺はどうでもいいが。
 ユイゴンはお前だけのものじゃない。カネの補填……」
「それはまあ、なんとでもいたします」
「簡単に言う。で、どうなんだ?
 俺のニンジャセンスは、間違い無く店内に奴を認めていたぞ」

詰め寄るでもなく、淡々とメダリオンが問う。
「お前とて、
 オムラ・エンパイア謹製のソウル感知器がある。気付かん筈もなし」
「さて、どうでしたかね?機能を切っていたかも」
「おかしなドロイドだ」
呆れるメダリオン。
チャブラギは笑んで歩く。

「ならば戻って、無体を働きますか」
「家捜しか?昼間やったろう。
 お前が以前謀り殺した、汚職デッカーの姿で」
メダリオンは追いながら指でテッポウ・サインを作り、
自身のこめかみに押し当てる。
「婆さんを刺激せんように、やんわりとな。
 だがあの時は、何も感じなかった。俺のウカツか?」

「何故でしょうね?」
チャブラギは笑みを不敵に崩す。
それを見て、目を細めるメダリオン。
「どうやら、お前は答えを持っているらしいな」
「不確かな推理ではありますが。ご興味がおありで?」
「多少は。お前が入れ込むなら、きっとカネに繋がる」

「流石、私最大の理解者です」
満足げなチャブラギに、メダリオンは強く顔をしかめた。
「不名誉な称号だな……。
 しかしなるほど、それが見逃した理由か」
「ええ、その辺り講釈いたしますので、一軒お付き合いください」
「本当におかしなドロイドだ。酔わん癖に」

「さあさあ!
 まずコトダマ空間における、
 ローカルとグローバルの境とはどこにあるのか。
 現実との時空不連続性。
 そしてゴールデン・レーンの伝説。
 これらが示す技術的可能性について、
 とくとお話しいたしましょう!」

「お前も所詮、話せれば内容は何でもいいタチだったな。
 ペールギュントとは、本当に気が合ったのかもしれんが……」
メダリオンは、チャブラギに聞こえないように、うんざりとこぼした。
「だとしても、ユウジョウ? カササギが?
 まさかな。もしや……見逃すことまで、計算の内か?」

「あそこの角のブケ・バルが良さそうです!
 どうしました、メダリオン=サン!
 まだまだ夜は長いですよ!」
「そうだとすれば、丸損したのは俺だけか……。
 フーッ。イエスボス」

世界を股にかける詐欺師集団、ユイゴン・デリバリー。
彼らは雑踏に紛れ、
ピンクと紫が大半を占めるバー・アーケードへと消えていく。
平和裏に、楽しげに……次なる悪巧みの為に。

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チャブラギを見送って、ヨウカンは長めの溜め息をついた。
ふと、手に持っていた商品用の小さなマンダリンを、ケースに戻す。
代わりに拾得物棚から拳大のマンダリンを取り出し、
三段に重ねたオハギの隣に置いた。

ヨウカンは黙って手を合わせる。
心中に唱えるのは、ウォフ・ゲルッペへのネンブツだ。
きっと悪人らしく、苦しんで死んだことだろう。
せめてアノヨでは安らかに。

そしておもむろに顔を上げ、呟いた。
「貴方、本当にゲルッペではないの?」
無人の店で、誰にともなく問いかける。
老人特有の行動、ではない。
「正直、よくわからん」
声を返したのは、老婆の目の前のマンダリンであろうか。
コワイ。

「あの話、全部がリアル?嘘よね」
「それもわからん。
 ファラオやムカデには、会ってないかも……。
 どうでもいいぜ、そんなこと」
何者かはヨウカンに語りかける。
「内容なんかいいんだ。アンタに話せりゃ、何でも」

「そういう、口ばっかり上手いところ。あの人そっくりですよ」
「なんだい、そりゃ……子供みてぇな扱いして」
「その果物が、貴方のエレメンタルホース?
 あんまり走れそうにありませんねぇ」
「オヒガンなんていかねえ。俺の帰る場所はここさ」
「全く……」

無人の店で交わされる会話。
そこに、旧世紀の合成ボンズ音声が重なる。
ゴーン……ゴーン……エブリワンゴーン……。
来客である。
チャブラギが出ていったのを見計らってか、現れたのは常連だった。
ヨウカンは合わせた手を解いて、
いつもの不機嫌な表情で客を迎える。

「ドーゾ、オカエリ」「ドーモ」
常連がアイサツを返し、ドアを閉める。
ヨウカンは無関心そうに、ドーゾと繰り返して客に席を促した。
「何にされます?」
常連は馴染みのボトルを所望し、
ヨウカンがバイオカラスの頭蓋骨グラスに注ぐ。

ヨウカンは常連に、チャブラギらがもう来ないことを伝えた。
オカエリの平穏が戻ったのだ、と。
陰鬱に祝う常連を少しだけ眺めて、
老婆は横目でオハギの隣に佇むマンダリンを見る。
すると不意に、耳元で囁き声が聞こえた。

「まあ、邪魔はしねえよ。
 たまに喋るくらい、いいだろ?
 例の病気もあるんだ。いずれ消えちまうからよ。
 それまでヨロシク……ええと、ヨウカン=サン」

頬に手を当て、ヨウカンは苦笑いする。
(本当に、居着くつもりなんですねぇ)
マンダリンを捨ててくればとも考えたが、
思い返すと、ゲルッペもこうして受け入れたのだ。
ならばまた、何も言わず去っていくのかもしれない。
そう思うと、ヨウカンは行動に移せなかった。

何はともあれ、これでオーボンは明ける。
妙な同居人は増えたが、何ということはない。
明日からは通常営業。
ヨウカンは気を引き締め、
有限増殖ワカメのカプセルを鍋に放り込んだ。

ネオサイタマは今日も雨。
重金属酸性雨に阻まれ、
その向こうにある空の色は見えない。
けれどその晩、老婆は再び青空を見た。

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夢の中、様々に変わりゆく青色。
野原に一人座るヨウカン。
皺だらけの掌に果実が乗る。
「あれはシエラレオネの南、大西洋を渡ってカリブ、アステカ……」
景色にかける声とは別に、老婆は隣に立つ幻を見る。
(ジェノバ)

その姿は思い出せない。
言葉はわかるが、声色は定かでない。
一体誰なのかわからないその幻を見る時、
ヨウカンは自分が、
まだ若きジェノバであることに気付く。
不確かな姿なれど、
幻もまた若いころの装いである。

(俺が見て、君が聞く。
 俺のソールヴェイになってくれ)
(そういうこと、
 誰彼構わず言ってるんでしょう?)
(かもな……けど。
 断ってくれたのは、君だけだったよ)

自嘲気味の掠れ声を残し、幻はすぐに消える。
黄昏に染まる空が、
なおも色を移らせながら西へと狭まり、
暗褐色の闇へと溶けてゆく。
やがて薄青い天に星々が満ち、
老婆を無数の星座が出迎えると、
再び掌の果実が声を上げる。

「全部知ってる。
 どこのだって紹介できる。
 退屈しない。俺は詳しい。
 全部見てきた。見てきたんだから…」
「そうね…」

その声には、
かの男が死ぬまで抱き続けたであろう、
百年の孤独が籠められている。
ヨウカンはそれを慰めるように、
あやすように、優しく答える。

そして夢の中で、忘れた筈の男を想った。

(長旅だったね、ゲルッペ……。
 私と貴方、どちらが先かわからないけど。
 そのときまでは、ここが家だよ。
 ドーモオカエリ、ペールギュント=サン……)

【ユー・マイト・カムバック・トゥ・ホーム 終わり】

 


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