1000人の村に見る、”あした”の日常~熊本県五木村ワーケーションルポ(1)
“田舎”という言葉を聞いたとき、どのような風景を思い描くでしょうか。
山や海など壮大な自然の中での人の営みか、それとも、ロードサイドにチェーン店が建ち並ぶ姿か。都市開発が進んだ今の日本では、後者のような景色をイメージする方が多くなっているかもしれません。
これから紹介する熊本県の五木村は、明らかに前者の田舎。どこか懐かしさを感じさせる、情緒豊かな景色が広がります。この村にワーケーションで訪れた東京出身・在住の筆者。2021年・初夏時点の五木村の記憶を切り取り、お届けします。初回は村の概要についてお伝えしていきます。
人口1000人の村が待つ田舎の原風景
五木村は熊本県の南部、人吉・球磨地方に位置し、1000m級の山々が取り囲む地形が特徴です。まさに360度、どこを見ても山! 村の中ほどに支流と合わせてY字型をつくるように流れる川辺川は、15年連続で「水質が最も良好な河川」に選ばれるほど。豊かな森と水は、村の貴重な資源といえます。
▲山に囲まれた五木村。下を流れるのは川辺川
村のシンボルとして知られるのが、「五木の子守歌」。その昔、子守奉公に出された五木の娘たちが赤子の子守をしながら口ずさんでいたもので、戦後NHKラジオで流れたことをきっかけに日本中に知られるようになりました。
村では子守をする娘の像があちらこちらで見られるほか、毎日朝8時と正午には村内放送で子守唄が流れます。ご当地キャラクターの「いつきちゃん」も、子守をする娘を模したもの。ちなみにいつきちゃんの作者は、『巨人の星』で知られる川崎のぼるさんです。
東京都港区の12倍以上の広さに対し、人口はわずか1000人強。全国各地の村でつくる「小さな村g7サミット」には、九州で最も人口の少ない村として参画しています。気になる高齢化率は、2015年時点で46%となっています。
かつて数校あった小学校も、今はひとつだけ。子どもたちは村のスクールバスに乗って通学しています。高校はなく(中学と併設の分校はあり)、ほとんどの子は15歳の春を迎えると人吉などで下宿を始めるそうです。
川を沿うように走る国道と県道には、信号がありません。さらに脇に入った途端、道幅は車1台がやっと通れる程度に。スーパーやコンビニもなく、毎日の買い物は道の駅と古くからの商店が頼り。ちょっとしたものがほしい時は、車で50分ほど山を下って人吉方面へと出かけます。
夕方にはほとんどの店が閉まり、夜になればあたりは暗闇に。川の近くではホタルの飛ぶ姿を見ることができます。また秋になると、村一面が紅葉で真っ赤に燃えるといいます。主要産業は林業や建築で、主な農産物はしいたけなど。また近年は、物産の開発など観光振興にも力を入れています。
ワーケーションを通じ村の仕事に触れる
ここで書き手である私(たなべ)のことも、少し紹介しておきます。私は東京在住の、フリーランスライターです。東京の郊外で生まれ育ち、進学も就職もずっと都内でした。両親は新潟出身で、熊本はおろか九州にも縁のない私が、なぜ五木村のことを取り上げることになったのか。
きっかけは今年4月にSNS上で見つけた、ワーケーションの募集でした。五木村のまちづくり会社が企画したもので、地元のとうふ店と茶農家がWebサイトを新設するにあたり、コピーライティングできる人を求めていたのです。
ワーケーションは、一般的に自分の仕事を滞在先に持ち込むもの。“働く場所を変える”だけにとどまりがちなところ、仕事を通じて地元の人との交流が生まれるのが面白い。都市部で獲得したスキルで滞在先に貢献するのも、いい経験になりそうです。また仕事で来ているので、滞在にかかる経済的負担も多少はカバーできる。その点も魅力に感じました。もちろんプロジェクトに関わる時間以外は、別の仕事や観光などに充てることもできます。
▲まさに絵に描いたような田舎の風景。都市部に住む筆者が長期滞在したら、非日常体験ができないはずがない。
せっかくワーケーションに行くのなら、居住地とは対照的な環境がいい。そしてさらっと観光スポットを巡るだけでなく、その地で生活してみたい。幸い縁あって、メインプロジェクトのサイト制作の進行を見ながら、だいたい1カ月くらいと滞在期間もざっくりさせた形で五木村に入りました。
日本一の清流が抱える50年超の課題
東京・港区の12倍以上の面積を有する五木村では、数軒の家からなる小さな集落が川に沿うようにポツポツと点在しています。村の中心にあたるのは、頭地(とうじ)と呼ばれる集落。役場や学校、診療所などが集中し、道の駅や温泉施設なども設置されています。道路は広くてきれいだし、民家も住宅街のように区画整備されて何軒も建ち並んでいます。それにどの家や施設も、それほど年季が入っているようには見えません。
▲ワーケーション期間中、滞在していた頭地地区。道は整備され、比較的新しい建物が建ち並ぶ。
周りの集落とは様相がちょっと違う……。そこには五木村を語るのに避けては通れない、複雑な歴史が関係していました。ダム問題です。頭地に集まる家は、もともと別の場所で、複数の集落を成していました。今の場所よりも100mほど標高の低い、川辺川のすぐ近くです。ほかの場所に比べて平地だったこともあり、川から水を引いて稲を育てるなど、農業を営んでいた人も。役場や学校の近くには商店や旅館が軒を連ね、「銀座通り」と呼ばれていました。当時は6000人ほどが住んでいて、活気にあふれていたのです。
一方で、流域の治水(水害を防ぐこと)は長年の地域課題となっていました。川辺川は昨年の豪雨災害で記憶に新しい、球磨川の支流にあたります。土砂崩れなどの大雨による災害が、周期的に起こっていたのです。そこで国は1966年に、五木村の隣村にあたる相良村に治水ダムの建設計画を発表します。ダムが建設されれば、川辺の集落は水に沈んでしまうことに。以降、村民でも意見が分かれるなど、村を挙げての大論争になります。
▲中央にのびる頭地大橋の下、川沿いに広がるのが旧・頭地地区。写真右側の住宅地一帯が新・頭地地区。一度はダム建設を受け入れるが、結局見送りに。今は公園やグランピング施設が並ぶ。
国や県との交渉の末、村は1981年に集落の移転とダム建設を受け入れることを決めます。それから現在の頭地地区が計画され、住民が移転し始めたのは2000年に入ってからでした。集落の移転は難しい問題です。
その地で培ってきた営みや文化、住民同士のつながりが一度リセットされるのですから。加えて計画の発表から移転までに、30年以上の月日が経っています。その間、村を出ていく人たちが相次いだそうです。
事実、五木村のWebサイトによると、1980年に3086人だった人口は、2015年に1055人となっています。人の命と暮らしを守るためのダム建設が過疎化を加速させることになったのは、なんとも皮肉なことです。
この話には、さらに続きがあります。2008年、県は知事の交代を機に「ダムによらない治水」を方針に掲げたことにより、ダムの建設がいったん白紙撤回されたのです。その方針を受け、水に沈むはずだった集落跡地には公園を新設したり、グランピング施設を開設したりと再開発が進められました。ところが昨年の豪雨を機に、ダム建設の話題が再燃。まだ議論は始まったばかりで、今後の動向が気になるところです。
▲2020年、人吉地区を中心に襲った集中豪雨による被害は五木村にも。道路の補修工事などが行われていた。
よそ者の目で村の動きをウォッチする
実は今回のワーケーションで、初めて五木村の存在を知った筆者。かつては”ベッドタウン”と呼ばれた整備されたまちで生まれ育った私にとって、村で目にするすべてが新鮮なものばかりでした。
また過疎化と高齢化が進んだ村とされながら、退廃や悲壮というより温かさや明るさ、たくましさのようなものを感じたのです。
そして半数近くが高齢者の村にも、若者の姿が。彼らは長い年月をかけて培われた村の資源を大切に扱いながら、既存の延長上にはないやり方で活力に変えていこうと動き出しています。例えば、今回のワーケーション。村の小さなお店が今回なぜWebサイトを立ち上げることになったのか。それも、制作メンバーを外から(ワーケーションということは、五木村とは遠い県外の人を想定していたはず)招いてつくるなんて。村にとっても画期的な取り組みのはずです。事実、私は五木村初のワーケーション滞在者となりました。
そこで、今回の企画を中心に、五木村で今起こっている新たな動きを数回に分けてご紹介したいと思います。また1カ月間過ごして気づいた、滞在型ワーケーションの意義なども。まったくの“よそ者”のフィルターを通した五木村の景色をレポートしていきます!