町と心の変化を見つめてきた私が、この先も忘れたくない「積み重ね」の話
初めまして。ライターのマキタシホと申します。私は2018年8月、結婚を機に、夫の地元である福島県南相馬市に引っ越しをしました。
海に面していることから「浜通り」と呼ばれる地域に位置する南相馬市。移住してきてから今まで、周りの人たちにも恵まれ、楽しく朗らかに生活しています。なかでも、夫が生まれ育った「小高(おだか)」エリアが好きです。仕事に行ったり、友人の家に遊びにいったり、私の生活を豊かにしてくれます。海、山、川と自然豊かで四季の変化を感じられるところもお気に入りです。風は強いけれど東北地方にしては温暖で、雪もほとんど降りません。雰囲気も含め、1年中あたたかい空気にふれられる町だと感じています。
今では小高におだやかな印象を持っていますが、初めて訪れた時に抱いたのは、胸が痛くなるような冷たさと虚しさでした。その背景にあるのは、11年前に起きた東日本大震災です。南相馬市では震度6強の揺れを観測。小高は、地震、津波、そして原発事故の影響も受けました。
私が初めて小高に足を踏みいれた、震災から2年8カ月ほど経った頃の町の様子は今でも鮮明に思い出せます。町のほとんどは原発事故の影響で避難指示解除準備区域に指定され、人の出入りは許可されているものの住んでいる人はゼロ。町には壊れたままの家屋や剥がれっぱなしの屋根など震災の傷跡が残っていました。人通りもなく、車が1台も走っていない道路で点滅し続ける信号。「帰りたい」とメッセージの書かれたベンチの置かれた空き地。冬の夕暮れ時だったことも相まって、その景色に心までかさついていくようでした。
小高を初めて訪れてから、もうすぐ8年半になります。その間に私は、南相馬で生活を始め、学生から社会人になったり、妻になったり、昨年は母になりました。時間とともにライフステージが変化し、南相馬との関わり方も変わっています。
南相馬に暮らし始めてもうすぐ4年になる、筆者が切り取る「小高の町と心の変化」。小高の変化とは何なのか、町が変わって心に変化が起きるとはどういうことなのか。筆者自身が忘れたくない”変化の記憶”を綴ります。
小高との出会いと挫折
私が小高を訪れるきっかけになったのは、学生時代に参加した、学習支援のボランティアでした。震災当時は高校生だった私。初めて被災地の状況を目の当たりにし、それまで被害を知ることはおろか、震災や被災地へ興味さえ持っていなかったことに気づかされました。
この出来事が引き金となり「小高がまた生活できる町になったらいいな」と考えた私は、大学卒業後に南相馬で働くことを考えました。大学4年の6月、就活の過程で南相馬で働くことを念頭に、「まちづくり 小高」と検索。一番上にヒットして出てきた、小高ワーカーズベースさんで1カ月間、インターンをさせていただきました。
小高で働く手ごたえを掴んで移住を決断するに違いない!と浮足立っていましたが、予想に反し、私は小高での就職と移住を止める決断をすることになります。インターンを終えて、小高を発つ日に書いた日記を見返したらこんなことが書いてありました。
「小高で暮らす。来年4月から、ここ(小高)で、この近くで暮らすことはない。ハッキリそう思った。ここに私の生み出したいモノを、生み出していく力が私にはない」
いつ避難指示が解除されるかは分からない。そんな状況の小高は、自分で生み出さない限り仕事はありませんでした。食事をする場所はひとつだけ、食料品や日用品を買えるスーパーもありませんでした(ちょうどインターンが終わるころ、仮設スーパーができました)。人の姿があるのは駅前だけのように感じられたうえに、いつも見る顔か仕事でどうしても来なければならなかった人ばかり。なんともいえない気持ちでした。
先行き不透明な日々が続く中で、人々の雰囲気があまり穏やかでないことを感じていました。人と打ち解けるのが早いと定評のある私でしたが、この時は人と話すことさえ少しの怖さを感じていました。他愛無い会話をしているつもりでも、「あなたはどうしてここにいるの?」と問いかけられているように感じてしまうことも。「私はここにいていいのかな?」そんな気持ちも、少しずつ積み重なりました(実際には、気にかけているけどあちらもどう接していいのかわからない、みたいな状況だったのですが)。
そんな中でも、町にいる全ての人から感じる「小高で暮らすこと」への熱意には心を揺さぶられました。仕事だけでなく、食事をつくったり、花を植えたり、どんな活動においても垣間見える「小高で絶対暮らすんだ」という気持ち。
ただ、当時のそれは、小高で生活できるようになったらいいな、というヨソから来た私の思いを跳ね除けてしまいそうなほど強く、「一緒にいるのが苦しい」とさえ感じてしまったのです。今だから言えることですが、大雨のなかでも、今日やると決めた花植えをしている姿を痛々しく思ったり、毎日夜遅くまで仕事をし続けたりしていることに「どうしてそこまで?」と思ってしまう自分がいました。
仕事面での無力さも痛感しました。学習支援活動では、子どもの勉強を見るなど役割を全うすることで喜ばれていると、自分自身も満たされる感覚がありました。しかし、インターン先では終始、何をすればいいのか分からない状態。自分で自分の仕事を作るべきだったと振り返ってこそわかりますが、指示を待つばかりのアルバイトでしか働いてこなかった私は、当時そのことに気づけませんでした。仮に仕事を与えてもらえても、「これでいいのかな?」と常に自信がなく、責任もって自分の仕事をやり切ったと言える状態だったかと言われると全くで、毎日小高に「いること」に必死でした。
暮らしも仕事も全てが手探りで、気持ちにも余裕のない日々。大学卒業後すぐの私にできることは何もない。小高での生活を願う人たちとの活動をー少なくとも今はー苦しく思う。こんな気持ちのまま移住をしたくない。自分自身が楽しく暮らせる小高をつくりたくても、今の私には何もできない。仮に小高で何か生み出せる人になるには、絶対に、何かを学んで力をつけてからではないと。
1カ月間過ごしてみたからこそ気づけた小高、そして自分自身への想いを胸に、私は移住を止めました。
暮らすことができなくても、関わり続けられたから
しかし、小高に関わることをスッパリ止めたわけではありません。恋人(現夫)が南相馬にいたこと、いずれ結婚したい気持ちがあったこと、この先小高がどのように変化していくのか気になっていたこと。インターンを通して友人や知人も増え、前にも増して小高に目を向ける機会が増えました。リアルタイムで、小高で何が起きているのかを知るため一番の情報源になったのはFacebookなどのSNS。細かにチェックをして、町の変化を知れば画面越しに一人で喜び、イベントがあれば足を運びました。
ちなみに、大学卒業後は地元・愛知にて、飲食店の副店長として働いていました。日々の店舗営業やスタッフ間でのコミュニケーション、小さな企画など、とにかくなんでも、任せてもらえたことに懸命に取り組む日々。仕事ってなんだろう、価値をつくるってなんだろう、そんなことを考えながら「働く」ことを学びました。
正直、この頃は目の前の日々に必死すぎて、小高や南相馬のことは二の次というか重要視する自分事ではなかったです。でもだからこそ、落ち着いて状況の変化をみることができ、喜ぶことができたんだと思います。
小高との関わりをグンッと進めた転機ともいえるのは、南相馬に遊びに行ったある夜のことです。今も一緒に仕事をしている仲間たちと食事をしながら、小高で高校が再開する2016年の春に向けて、高校生が過ごせるような場所をつくろうと、私も一緒になって話をしました。場所をつくるだけではなあ...…という感じだったところに、コーヒー好きのメンバーがいたという理由で、「コーヒースタンドやってみよう!」と、その夜は盛り上がりました。
ホワイトボードにアイデアが並んでいくときのワクワク感、小高にコーヒスタンドなんてものができるんだという期待感、何より私がそこに関わっていられるという喜びと誇り。インターン時に感じていた自信のなさや後ろ向きな気持ちはなく、いいね!素敵だね!と素直な気持ちで活動に参加したいと思えました。
コーヒースタンドの開店までの様子には、楽しみしか抱きませんでした。寒い中、ワゴン車をキッチンカーへDIYしたり、コーヒーの勉強会をしたり。私は外から応援することしかできませんでしたが、その過程を見ていると、着実に小高が楽しそうな場所になっていく未来を感じさせられました。その他にも、小高駅開通のニュースや小高産業技術高校再開、本屋フルハウスの開店、HARIOランプワークファクトリー小高の工房&ギャラリーオープンなど、人の気配を感じるニュースがたくさんありました。町に手をかけ続ける人々の言動から、たくさんの勇気とエネルギーをもらいました。
そして、2017年の春、遠距離恋愛をしていた今の夫と一緒に暮らすために結婚を決断。挫折から2年弱、自分の幸せのために南相馬に行くぞとインターンシップに参加した時とは違う理由で、移住を決断をしました。結婚の決断を小高の変化が後押ししたことは言うまでもありません。
「小高で暮らしたい」と願い、動いた人たちの積み重ねが今の町の姿であることを心にとめて
小高は現在、ゼロだった居住人口が3800人ほどにまでなり、商いもずいぶんと増えました。駅前通りだけでも、飲食店は10店ほどに増え、お昼ごはんをどこで食べようか迷えるほどです。
認定こども園、小中高と教育の場が揃っただけでなく公共の遊び場も整い、休日に小高に遊びに来る親子も見かけるようになりました。また、デザイナーやアロマセラピスト、酒造家など、多様な人々が小高で事業を始めています。震災からの復興への文脈ではなく、純粋な事業の面白さや人の魅力に惹かれて、小高にインターンしに来る学生も増えました。
人が増えたことで生活感が増し、町にはいつもゆっくりとした空気が流れています。私は、町を歩けば顔見知りの友人とすれ違えるのが嬉しかったり、季節ごとにおすすめしたいお花スポットを見つけたりして四季を楽しめるようになりました。職場のコーヒースタンドに立てば、地元の人、遠くから来てくれた人との会話が弾みます。日々の癒しの場所として、友達を連れて行く場所として、小高を思えることにワクワクします。
初めて訪れた時から、小高は変化した部分がとてもたくさんあります。だからこそ、私は小高を楽しめるようになりました。でも、この変化は一朝一夕、意識の変化だけで育まれたものではないことはずっと覚えておきたいし、節目節目で思い出したいのです。
「小高で絶対暮らすんだ」そう願っていた一人ひとりの行動の積み重ねで今の小高があることを知ること、忘れないことは、町を、人を、地域を想う上で、大切にしたいことのひとつです。誰のためでもなく自分のためにやっているのだからと、これまでの道のりを声高に叫ぶ人はあまりいないかもしれません。だからこそこうして記録し、忘れずにいること、時には伝えていくことは、当時は見ることしかできなかった私が今、できることなのかなと思っています。
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