1.二子玉川スクランブル
多摩川の方から登ってくる夏の強烈な朝日に目をしかめながら、沖田惣一は重い足取りでバスターミナルへと向かっていた。
高二の夏休み最終日。これが最後とばかりに大学部の連中と朝まで渋谷で飲んだくれ、田園都市線の始発でようやく二子玉にたどりついたところだ。
「あー、始業式まで1時間くらいは寝られる…かな?」
徐々に気温と湿度が上がってくるのを感じながら、かすむ目でバス停の時刻表をのぞき込む。この時間、バスターミナルは人がまばらだ。向かいにある東急ハンズもまだ開店準備すらはじめていない。
「吉川達はいつの間に帰ったんだか」
寮のルームメイトの吉川と小坂は、いつの間にかいなくなっていた。
高等部のメンバーで最後までしつこく飲んで騒いでいたのは沖田一人だった。
「帰るなら声かけろってんだよ…ん?」
大酒食らってご機嫌で騒いでいたことは棚にあげてぼやく。
まだ、人のほとんどいないバスターミナルに、麦わら帽子に白いワンピース、両手で少し古めの旅行鞄を抱えた女の子が、キョロキョロとあたりを見回している。
年の頃は沖田と同じくらい、整った顔立ちで背も腰の位置も高い。
「外国の人かな」
ぼんやりと眺めていると目があった。
綺麗なブルーの瞳と目が合ってしまい、瞬間、ドギマギする。
「あの…」
上目遣いでこちらを見つめ、
「武蔵野高校行きのバスはどこ?」
一瞬、英語か何かで答えなければと慌てるが、相手は流暢な日本語で話していると気がつく。
「あ、えっと、武蔵野高校?このバス停だけど」
なんとなく、手で服装なんかを整えながら答えると
「良かった。こういうのってなんだか苦手で」
朝日の中で目を細めて、こちらをまっすぐ見つめる美しい顔をまともに見てしまい、ごまかすように目をそらした。
「バス停が?ってか、どこから来たの?」
「北の方。田舎ではなかったわ」
顔を赤らめ、少し恥ずかしそうにうつむくその姿がとてもかわいいと思った。
やってきたバスに一緒に乗り込みながら、横並びの席に並んで座った。
「もしかして、武蔵野高校の人?」
「そうだけど、あ!もしかして編入生?」
「へんにゅう?えーと、テンコウセイって言うのかな」
「あ、じゃあ同じだ。俺は沖田惣一。武蔵野の二年だよ」
「私は、長谷川エリサ」
「日本人なの?」
「半分ね。マイカがエメトリア人、オタツが日本人」
「マイカ?オタ…?」
「マイカがお母さん、オタツがお父さん?」
「そっかぁ、じゃあ、マイカに似てるんだ」
「そうね。けど、考え方は父に似てるわ。なので、日本に来るの楽しみだった」
「なら、色々案内できるかもよ」
少しぶっきらぼうな感じだけど、下を向いて嬉しそうにしているところが、なんだかとてもかわいらしいと思った。
「シロウは寮に入ってるのか?」
「うん。同室に吉川と小坂ってのがいてね…」
男子部としてはめったにない機会にもかかわらず、バス内に効いてきたクーラーの心地良さでうとうとし出した沖田は、そのまま窓に頭を預けていつの間にか眠っていた。
「おらぁ!いつまで寝てんだこの酔っ払い!」
昨年の学祭の打ち上げに使った、バズーカ型のクラッカーを顔面に向かってぶっ放され沖田が派手に飛び起きた。
「なんだ?!敵襲か?!敵襲なのか?!」
前後不覚に陥いりつつも、しっかりと床に身を投げ出して対射線姿勢(建物内で最も効率的に射撃を避ける姿勢)をとる沖田を横目に、同室の吉川博継がクラッカーをごみ箱に投げると、
「始業式まで、あと5分!」
ブレザーのジャケットを着ながら言った。
「うわ、やべえ、俺のジャケットどこ?」
「知らねえよ。ところで、朝練帰りの小坂からの情報だ。おまえが女連れで帰寮とはね。あとで詳しく聞かせろよ」
「女?!女がどうしたって?!」
沖田はまだ耳鳴りがするらしくフラフラと立ち上がると、二段ベット横のタンスを乱暴に開けた。
「あと三分。はよせい」
「夏物のブレザーどこいった?」
「しらねーよ。先行くぞ」
ようやく見つけた、ブレザーに袖を通しながら
「女?そんないいことあるわけ…」
とブツブツ言いながら沖田も慌てて後に続いた。
私立武蔵野大学附属高校。
九十年代初頭でも珍しい、都内にある全寮制の高校だ。
二子玉川と成城学園方面を結ぶ、玉堤通りの多摩川側の河原と田園地帯に、中等部と高等部が併設され、都内はもとより全国から学生を集めている。
理系を中心とした総合大学である武蔵野大学の本拠は、こことは別の大井町線の尾山台から歩いて15分。こちらも多摩川沿いに広大な敷地を有している。
80年代に入って女子部が作られる以前は、男子部のみの男子校となっていたが、現在は女子部も設立されていた。
男子部の猿軍団、女子部のお嬢様学校と言われるくらい雰囲気は違っており、何かにつけて男子と女子の区分けがあるため、男子部の男子校風情は相変わらずだ。
実家から通うことも可能だが、当時の学校としては自由な雰囲気のあるこの学生寮で気ままに暮らしたいと思う学生も多く、入寮者は毎年多い。
四限目が終わった昼休み、学生でごったがえす食堂の一角。
吉川とこれまた寮が同室の小坂敦也が、ガツガツと学食名物の大盛りカツ丼を食べているその横で、完全な二日酔いの沖田がラーメンスープだけをすすっていた。
「やべー。実験レポートどうすっかな」
大学部と合同で行われる夏季実験演習を、途中からすっかりほったらかしていた沖田が痛む頭を抱えた。
「ま、自業自得ってやつだね。留年でもすればー?」
興味なさそうに小坂が答え、そんな沖田を横目で眺めつつ吉川が蜆の味噌汁をうまそうにすする。
「で、今朝の話はそれで終わりなのか?俺らが帰った後でなにしてくれてんだか…」
「だから、全然記憶にないんだって」
今日、何度目かのやり取りをくり返し、吉川がつまらなそうに箸を置くと、デザートの牛乳プリンの蓋を開けた。
「ヒロ、今日の稽古どうするの?」
吉川と同郷で幼なじみ、1つ先輩の渡瀬マユミが、すらりと背の高い雰囲気のある女子と一緒に、沖田達の目の前に座った。
男子部、女子部とも食堂の行き来は自由になっており、体育会系の部活をしている学生はボリュームのある男子部食堂、通称「男飯」にくることが多い。逆に、男子部の連中は女子部の雰囲気、どちらかというと動物を見るような目線、に耐えられないのか女子部の食堂にあまり足を運ぶことはなかった。
「あら、まゆみねーさん、めずらしいね、男飯なんて…あーっ!」
沖田がラーメンスープから顔をあげ、マユミの隣に座った女子を指さした。
「なに、もう知り合いなの?手が早いのね」
あきれ顔で言うマユミに向かって沖田が、
「違うって、今朝、二子玉からバスで一緒に来た…」
「今朝はありがとう」
と会釈すると、エリサがマユミの隣にトレーを置いて席に座った。
東欧系の超のつく美人と、学食の油と醤油の香ばしい香りのカツ丼がかなり距離があるような気がするが、エリサは器用に箸を使って食べ始める。
「あ、えーと、沖田と同室の吉川です。って、マジか!こんな美人と帰寮してきたのか!」
「あ、小坂です。陸上と剣道やってます。よろしく」
いつの間にすぐ隣に来た小坂もすかさず割り込んでくる。
「2年に編入してきた、長谷川エリサだ。よろしく」
エリサがもとからそういう性格なのか、まだ日本語になれていないのか、ぶっきらぼうに挨拶を返す。
「で、まゆみはどうして、エリサと一緒なわけ?」
「この子、同室なのよ。二年の部屋が空いてなくてね。一人ってわけにもいかないと思って、寮母に無理矢理頼んじゃった」
マユミがいつものお節介を働いたらしく、三年の寮に引き込んだようだ。
「私は一人のほうが良いと言ったんだけどね…」
「こんな子と同室になるんなんて、めったにないじゃない!エリサも私と一緒の方が良かったでしょ?」
「あ、うん、マユミが一緒だと寂しくはないな」
マユミの勢いに押し切られる形でエリサが答えた。
「で、エリサちゃんは、同郷のお友達とかはいないの?」
吉川がしたり顔で話しかけるのを、マユミが横目で睨んで、
「何考えてんのよ?!」
「いや、ちょっと、下北辺りで合コンでも…」
「ゴウコン?それはいったいなんだ?」
「いいのよ、エリサ。真面目に答えなくて」
そんなやり取りを横目で見ながらラーメンをすすっていた沖田が、ふと学食内のテレビに移ったニュースに目を移した。
九〇年代初頭、ゴルバチョフ政権下、東西冷戦の終結という人類にとっては喜ばしい状況とは反比例に、ソビエト連邦の崩壊と、周辺国の内戦化は当時避けられない状況だった。
ニュースでも日常的にソビエト、東欧諸国の情勢が伝えられていた。
「東も遂に崩壊かぁ。戦争にならなきゃいいけど…」
「戦争はもう起こっている。あの辺りは難民だらけだ」
ドキリとしてエリサを見つめると、じっと画面を見つめるその横画が、同い年とは思えないほど大人びて見えた。
その切実にテレビを見つめる視線に、一瞬息を飲む。
「エリサは、あの辺りの出身だっけ?」
「そう。あの辺り」
沖田に簡単に答え、それ以上の質問を許さないように目伏せると、器用に箸を使ってエリサがカツ丼を食べ始めた。
To be continued.