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【感想】「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」展、あらゆる思考にアートで殴られる至福

国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」展に行ってきた。
乱暴に一言でまとめると、あらゆる思考にアートで殴られるという、至福体験ができるといったところだろうか。


はじめに

後に予定があり鑑賞時間は2時間半程度だったが、少なくとも3時間は見積もっておいた方が良いと思った。
それほどボリューミーな内容となっている。

しかし不思議なのが、2時間半の鑑賞でも疲労感が驚くほど少ないということだった。
通常の美術展ではそれくらいの時間を鑑賞すると多少なりとも疲労が出てしまうが、各アーティストの展示と裏付けられた思考に圧倒されて、疲れている場合じゃない!という状態になった。 

一緒に鑑賞した友人と会場を出た際は軽くハイになりつつも、ぼんやりしていて話がまとまっていなかった。
夢オチ…?

そして国立西洋美術館とアーティストの未来について、自らも一つひとつ思考したくなるような、素晴らしい展示だった。

※以下会場内のネタバレあり。


どの展示も素晴らしく考えさせられが、個人的に以下3名の展示の一部に言及したい。

①小田原のどかさん ー近代の歪みを体現する場で転向/転倒を考えるー


会場には、ロダンが文字通り「転倒」した状態で展示されている。
当初は驚きと奇妙さを覚えるものの、そこに小田原さんの複合的な思考が詰まっていることに、解説文や他の展示資料などから気づくことができよう。

文章、資料、彫刻のない台座…
全てに対するライティングが良すぎる〜
横たわるロダン。台座が向こうに見えることで、
一層自由にも見える不思議。

まず、彫刻は安全面や状態を考慮し、横倒しで収蔵されることがあるという。
そこにある彫刻にとって最も心地良い体勢は、我々鑑賞者の求める体勢と異なるかもしれないのである。

にもかかわらず、美術館は展示をし、我々は鑑賞する。
美術館は資料の保存・保管を大前提の責務とするが、資料の展示を行うことで資料を人々に伝える必要もあるのだから。

美術館が持たざるを得ない「歪み」を、そこに一つ見ることができる。

また、関東大震災直後に被災したロダンを修復する様子を記述した「震災とロダン」が引用され、そこに幾度となく修正されてきた彫刻たちを見ることができる。

地震という鑑賞者も傷つけられてきた現象で、彫刻も例外なく傷つけられてきたこと、一方で展示空間では彫刻の傷は可視化されにくいという「歪み」を見つけることができる。

そして、ブラック・ライブズ・マターで引き倒された彫刻についても言及されており、植民地支配や差別など歴史的彫刻にまつわる「歪み」を感じることもできよう。

このように様々な視点で「転倒」が語られるが、その上でもう一つ思想の「転向」という、ここでは語りきれない重要なテーマが重なる。

幾重もの思考が練られた展示はオーケストラのように論理的でありながら、美しく、じんわりと染み込む。

②鷹野隆大さんー芸術作品を人間の「生」の空間内で見つめ直すー

一番に飛び込んできたのは、IKEAのベッドにクールベの《眠れる裸婦》と裸で横たわった太った男性が並べられているエリアだった(鷹野さんの「ヨコたわる」シリーズより)。

最初は美術館という空間から《眠れる裸婦》がこっそり持ち出されたように感じ、なんとなくドキリとするが《眠れる裸婦》は存外、IKEAのベッドが表彰する日常に溶け込んでいるようにも見える。

名画を高尚なものと認識するのは、美術館という展示空間がそうバイアスをかけているのかもしれない。
日常に飾られた名画からは、作品展示への問いかけや、名画の新しい見方を発掘することができる。

が、そこにもう一つ捻りが入れられている。
先述した通り、太った裸の男性が《眠れる裸婦》並んでいるのだ。
男性はあの時代の西洋画に描かれるようなマッチョではなく、無防備で弱く見える。

そして、男性と女性という性別の描かれ方、西洋美術で排除されてきた裸、男性の需要によって切り取られてきた裸婦など、二つの展示に連なる数々の絵画やジェンダーの歴史を想起させられる。

作品の展示方法、絵画における身体やジェンダーなど、美術における固定概念を疑うという気づきを得ることができ、私は一気に視界が開ける思いがした。

きっと美術鑑賞に慣れた人にとってこそ、鷹野さんの展示は常識をひっくり返すような驚きと同時に、一本取られた!という爽快感を得ることができるのではないか。

③弓指寛治さんー排除されてきたひとびとを美術館にとり込むことを超えてー


鑑賞者がそれぞれ食い入るように見ていたのが印象的だったが、構成的に没入感が非常に高いと思った。

まず、展示室前にある階段には労働者を描いた白黒の絵と、路上生活者との交流前の弓指さんと学芸員の会話が紙で貼られている。


美術館の階段と言えばただの移動通路というイメージを持っていたため、階段ってここまで上手く使えるんだ~!?と単純に空間活用についても度肝を抜かれた。
最早(良い意味で)反則。

「あの、サンヤってどこですか?」という弓指さんの言葉で締められ、まだ路上生活者が集まる山谷を知らず、路上生活者を無視してきたというアーティストと鑑賞者の共感から始まるのである。

序章ともいえるこの空間で、鑑賞者がすでに「サンヤってどこですか?」と初期段階のアーティストと同じ感覚を持ち、没入する土台ができていると言えるのではないか。

「あの」と「サンヤってどこですか?」という言葉が
分かれているところも、
息遣いが感じられて味わい深いです。

また、そんな階段から展示室に入ると、一気に色鮮やかな弓指さんによる路上生活者の絵が現れる。
展示室前では白黒だった絵がカラーとなったこともあり、鑑賞者も弓指さんと共に路上生活者にぐっと近づいたように感じられる。

展示室では弓指さんと学芸員の路上生活者との交流が絵、会話、インタビューなど様々な形で表現されるが、それぞれの表現がぴったりハマっているように見えた。
そして、全てがかみ合っているように思えた。

当たり前ですがもれなく本当のことなので、
来るものがあります。
個人的には、Aさんのシンデレラ城を作っていた話や
老々介護の話で情緒がパンクしました…。

そのような路上生活者と私たちが区切っていた人たちに、名前を付けていくフェーズを経て、最後には上野の美術館のポスターの周りに写る路上生活者の絵が浮かぶ。

この上野で芸術は開かれたものではないことを、路上生活者をもう無視できないどころか肩入れし始めた鑑賞者に容赦なく突きつける。

そして、この会場に路上生活者がいないことを改めて実感させられ、芸術や西洋美術館の役割と排他性について、感情を揺さぶられながら考えることができる展示だった。

最後に

本当にざっくりと感想をまとめましたが、この展覧会は体感することに意義があり過ぎると思っています。
ぜひ足を運んでみてください!

あと、図録で理解度爆上げ&家で2度楽しめるので、そちらもおすすめです。


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