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いとこのエリの死

大切な人が亡くなると、素直に悲しい。
では、、、
やっかいな人が亡くなると、どうなのだろう。

従姉妹のエリが亡くなった。

元々、気性の激しい人ではあったが、責任感が強くて面倒見の良い人であった。頼れるお姉さん、みたいな。
そういう風に接していた時もあった。
人は、変わる。成長する。
いつの間にか、私は。
従姉妹のエリを見下すような、そんな態度をとってはいなかったか?

エリは50代半ばに難病指定の治る見込みのない、ある病気にかかり、独身だったのでそれまで住んでいた東京のマンションを引き払って、沖縄の実家へ戻った。

東京の病院に入院していた時は、私と私の姉が交代で見舞いに行き退院に付き添い、引っ越しも諸々の手続きも、ほとんど私達が面倒をみた。
独身のエリであったが子供好きだったので、私と姉の子供たちがまだ幼い頃、私達姉妹はよくエリに子守りを頼んだものである。彼女はいつも喜んで引き受けてくれた。

子供たちが成長するにつれて、エリと会う頻度は減っていったが、それでも年に2、3回は3人で旅行したり映画を観に行ったり、食事をしたりしていた。

私の姉が郊外に家を建て引っ越し、私が、息子の自立と共に田舎暮らしがしたいと言って埼玉の奥に引っ越したりして、段々と疎遠になった頃。
突然、エリが入院していた東京の病院からの連絡で久しぶりに3人揃っての再会であったのだ。

エリが沖縄に移り住むようになって、その3年後にエリの父親が亡くなり帰省した際、久しぶりに再会をした私たちは、他の仲のいい従妹弟たちとLINEグループを作り、お互いの近況報告をし合っていた。

エリの他の兄弟たちは皆それぞれ家庭を持っていたので、エリの病気を案じながらも彼女が帰って来た事を、特に叔父は喜んでいたようだ。

叔父が生きていて叔母と3人で生活していた頃はまだ良かったが、叔父が亡くなり叔母と2人だけになると、エリは叔母(彼女の母親)を詰るようになった。

病気になったのは、母親のせい。
子供を守れないのに、生むな。
女を捨ててる。
滅茶苦茶である。

私も何度か、叔母を罵るエリを窘めたりした事もあったが、今度は私とエリが口論になり叔母が仲裁に入るという有り様だった。

叔母も時々はエリに言い返す事があり本当に気の強い母娘だと半ば呆れつつ。
エリと叔母の仲の悪さは親戚の間でも有名になっていて、私は沖縄出身の母の実家に住むようになって、おば様たちから、
時間がある時は、ふたりの様子を見に行って欲しいとか、エリをドライブや買い物に誘って欲しいとか、頼まれた。

私が沖縄に移住し始めた数ヶ月は、まだ仕事をしていなかったので、車の運転の練習を兼ねて、エリと叔母を後部座席に乗せて買い物やランチに出かけた。

車の中で、叔母がずっと喋り続けていると、エリは不機嫌になる事が時々あった。
「母さん、さっきからずっと喋っているよ。少し黙ってよ。」
しばらく、車内は静かになるのだが今度はエリが喋り出す。ずっと。
えっ!(・・;)母親を黙らせておいて、自分だって、ずっと喋っているではないか。

この母娘は実に似た者同士であったのかもしれない。お喋りなところ。気が強くてプライドが無駄に高いところ。ちっとも素直じゃないところ。
だから衝突するのだ、きっと。相性の悪い親子なんて、何処にもいるけれど。

時々、従姉妹と2人だけで出かける事もあったのだが、ずっと叔母の愚痴が続き正直うんざりした。
療養生活をしていたので仕事も4、5年していなくて、特にこれといった趣味もなく、コミュニティも避けているようで話題も乏しかったのだ。
お喋りで社交性はある人だと思っていたのでやはり、病気のせいなのか飲んでいる薬の副作用なのか、精神のバランスも崩れていたのだろうと思う。

エリは見た目的には、母親に怒鳴りつけるくらいの元気はあったので、
「家の中で、おばさんとずっと一緒にいるのがいけないんじゃないの?そんなにストレスを感じるくらいなら仕事したら?外に出てみたら?」
と、言ってみた。
「私は、病気なんだよ。」
「だから、ほんの2、3時間だけ働くの。スーパーだったら、短時間の品出しの募集とかあるじゃない?」
「らくちゃんには、私の、病気の人の気持ちがわからないんだよ!」
彼女は突然怒って立ち上がり階段を上って自分の部屋へ閉じ籠った。

それからしばらくはエリの家に行くと、私を避けるように自分の部屋から出て来る事はなかった。夕食の時間もおりて来なかった。

ガンでも何かしらの病気でも仕事している人はいっぱいいると思う。
病気になっても経済的に余裕がない人、身寄りがない人も、いる。そういう人達にくらべたら。エリの場合は、叔父がかなりの財産を遺してくれていたので、何不自由なく叔母と生活出来ていた。恵まれている方ではないか。病気とはいえ、もう少し感謝する気持ちがあってもいいよね、と、彼女の妹や親戚のおば様たちと話したりした。

私は、出産以外で入院したことがないので、まあまあ健康で、病気の人の気持ちなどわかるはずもない。わかろうとも思わない。
結局、苦しみや辛さ、痛みや悲しみは当事者でないと、わからないものだ。
気持ちがわかる、なんて軽々しく言えない。

今年の夏に、急にエリの体調は悪くなり入院した。それでも、1ヶ月ほどで退院出来る予定だった。

それなのに。急変。

彼女は亡くなる1時間前まで看護師と話をしていたらしい。
きっと、話し疲れて、少し寝よう、と。
そう思いながら目を瞑り、そのまま息を引き取ったのではないだろうか。

死ぬ気など毛頭なかったと思う。

最後に会ったのは、亡くなる1週間前。
副作用で顔はふっくらとしていたが、手足は骨と皮だけで痩せ細り起き上がる事も出来なかった。それでも、途切れ途切れに、ずっと喋っていた。
痩せ細った身体を目にした時は、やばいかもしれないと思ったが、まだ、こんなに喋るエネルギーがあるのだから、まだ大丈夫だろうと、安堵した。

相変わらず、私はロクに優しい言葉をエリにかけられずに病室を出た。

エリが入院する前は、体調が余程悪かったのか叔母に当たり散らす事が更にひどくなっていたのだ。
「食事を作っても、『自分で食べたい物を買って来るから作らないでいいと言ったでしょ!』と怒られるし、作らなくても『作ってないの?私に作らせるわけ?』と怒られるから、おばさんは、どうしていいのかわからないんだよ。」と、叔母はしゅんとした。

エリが入院して叔母は1人になったので、従姉妹やおば様たちも含めた新たなLINEグループを作り連絡を取合い、叔母の様子を見に行ったり買い物に付き添ったりして、何となくエリの叔母さまの方に皆、気持ちが寄り添い、もちろん、エリの着替えを病院へ届けたり見舞いもしたが、エリは身内の中で悪者扱いされているような構図が出来上がっていたような気がする。

いくら病気だからと言ってもねぇ、我が儘過ぎるよねぇ、と身内の者はほとんど彼女を非難するようになっていたのだ。

エリが、子供や若者であったのなら、
病気だから無理もないともっと同情できたかもしれない。

60代の娘が80代の母親を罵る。
後に聞いた話だが、エリが病気になって実家に帰って来た時、数百万円の借金も抱えており、泣きながら叔父にすがり全て精算してもらったのだとか。
こういう話は親戚中にすぐに広まってしまう沖縄なのだった。

エリが入院して1人になった叔母は急に老けた。娘にあんなに罵られ怒鳴られていたのに、「寂しい」と、ぽつり。
今まで、叔母は1人になった事がなかったのだ。せつないな、と思う。

エリが亡くなったら、優しくしてあげられなかったこと。
きっと、後悔するだろうなぁと、私は時々、考えたりもしていた。それなのに、最後まで優しい言葉はかけられず、自分も本当に器のちっちゃい人間で、複雑な気持ちなる。

エリの自宅で初七日を終えた夜に、お供えした重箱から取り分けられた総菜をつっつきながら、、、年齢を重ねるという事は、家族や身内がだんだんと減っていく事なんだなぁ、としんみりと考えていた時。
沖縄に移住してまだ再会を果たしていなかった、年の離れた従姉妹の(私の母親は7人姉弟なのである)チカコが仕事を終えて来た。

仏間で手を合わせ線香をあげると、隣の台所で食事をしている私に気づき、
「らくちゃん、久しぶり!」
と、言った。
「ほんと、久しぶりだよ。ふたりの子供のお母さんになったチカコは新鮮だわ。」
と、私も笑った。

「エリが沖縄に帰って来た時はまだ全然元気だったからさあ、うちの子供たちも保育園にまだ入ってなくて、エリにはよく子守りしてもらったんだよ。」
と、チカコが話していると、別のいとこがやって来て、言った。
「チカコ、今、何ヵ月なの?」
「3ヶ月目に入ったところさぁ。まだ、全然わからんでしょう?」
と、チカコはお腹を撫でた。
私は驚いて、
「あなた、おめでたなの?」
と、聞いた。チカコの母親は初七日の前々日までエリが亡くなった事を言えずにいたのだとか。
「3人目も欲しくて、来年は40歳だけど頑張ったさぁ。」
と、陽気に笑う。
来年の夏には、親戚が増えるのか。従姉妹の子供だから、どんな関係なのだ?
それでも、ひとり減り、ひとり増えて。
つながってゆくのね。

子供好きのエリも喜んでいるだろう。そして新しい命の子守りを出来ない事をとても悔しがっているに違いない。残念だったね、エリ。





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