今上天皇

三浦大知の歌声の響は歌詞が間違っているの?


2019年、2月24日、沖縄では県民投票の投票日でしたが、
一方で、天皇陛下在位、三十周年の記念式典がありました。
その中で、沖縄出身の歌手、三浦大知が
天皇陛下が詠まれた琉歌を元にした歌、歌声の響を独唱しましたが
その中で、冒頭のだんじゅかりゆしが、テロップではだんじょかりゆしに
なっていて誤記ではないかという声があがっていました。
しかし、これは決して間違いではないのです。

琉歌の表記と実際の歌では発音が異なる


天皇陛下はおもろそうしの研究者として知られる外間守善から
琉歌の添削を受けている方です。
そして、琉歌の表記と実際に歌う時では発音が違います。

だんじよかれよしの歌声の響見送る笑顔目にど残る

これが、歌になると

だんじゅかりゆしぬ うたぐいぬふぃびち 
みうくるわれがう みにどぅぬくる

このように変化するのであって、決して陛下がうちなぁぐちを
貶めようとしたわけでもなく、日本側の作詞者が
無知な為に、歌詞を間違ったわけでもありません。

出典:
https://mainichi.jp/articles/20180327/ddm/001/070/138000c

歌声の響が生まれた理由


また、元々、歌声の響が歌になったのは
天皇陛下の意向ではありません。

それは、1975年に、まだ皇太子だった今上天皇ご夫妻が
名護市屋我地島の国立ハンセン病療養所「愛楽園」を訪問された時
その事に感激した在園者の方々がご夫妻がお帰りの時に、
自発的に、だんじゅかりゆしを歌ったのが契機なのです。

陛下は、その事に強い感銘を受けられ、
ご自身で習い覚えた琉歌を愛楽園の在園者の方々に贈りました。
それが、

だんじよかれよしの歌声の響見送る笑顔目にど残る
意味:だんじょかれよしの歌声の響きと、
それを歌って見送ってくれた人たちの笑顔が
今も懐かしく心に残っています

こちらの琉歌だったのです。

愛楽園の在園者の皆さんは、陛下の心配りに感激し、
琉歌を口ずさんで懐かしみました。
そして、この琉歌を歌に出来ないだろうかという要望を持ったのです。

そのような要望が天皇陛下に届き、
何とか希望を叶えたいと考えた陛下は
ピアノを弾く事が出来る皇后陛下に作曲を依頼しました。
なので「歌声の響」の旋律は皇后陛下のものなのです。
作詞・作曲を天皇皇后両陛下が行った歌は、
日本広しといえど、歌声の響だけではないでしょうか?

歌声の響き二番の歌詞の誕生


こうして、出来上がった歌の響に
作曲家の山本直純が伴奏や前奏をつけました。
しかし、一番だけでは寂しいと
2番目の琉歌の歌詞を陛下に求めたのです。
この要請に応じて、陛下は二つ目の琉歌を詠まれました。
それが、

だんじよかれよしの歌や湧き上がたん 
ゆうな咲きゆる島肝に残て

こちらの琉歌です。
こうして、完成した歌声の響はCD化されたのです。

ソプラノ歌手、鮫島有美子の要望で市販化


以上の事は、全くPRされる事もなく、
ただ愛楽園の在園者と天皇皇后両陛下の間での交流でしたが、
たまたま、この歌を聴く機会のあったソプラノ歌手の
鮫島有美子が、素晴らしい内容で是非、歌いたいと希望を持ち、
それでレコーディングがなされたのです。

https://www.jiji.com/jc/v4?id=201511ryuka0001

あなたが来てくれて善かった


1975年は沖縄県民ですら、ハンセン氏病について無理解でした。
愛楽園の在園者は、忘れられた存在で寂しく、社会の片隅で
偏見にさらされながら生きていました。
しかし、そんな中で天皇皇后両陛下は、決して愛楽園の在園者の
苦難を忘れる事なく愛楽園を訪れ、その言葉を真摯に聞いたのです。
その時の、在園者の感激がだんじゅがりゆしの唱和になったのです。

あなたが来てくれて善かった、今日はすばらしい日です。

だんじゅかりゆしは、心のこもった感謝の歌でした。

私は不徳にして魂の穢れた人間ですが、
それでも、その時の愛楽園在園者の方々の
気持ちの一端は分かります。
この真心の交流に比較すれば、
だんじゅだの、だんじょだの、
一言半句に拘る事に私は意味を見出せません。

琉球・沖縄の歴史を紹介しています。

http://blog.livedoor.jp/ryukyuhattuken/


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