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偏見をもつべし
偏見をもつべきでないというのは理想だが、事は簡単ではない。
kawausoにしても、この人はきっとかうだろうと偏見を持ってから
一通りの対応対をするがそれが当たった試しはない。
SNSの時代になって、ますますそうなった。
しかし、それが偏見であろうと妥当な評価だろうと、人は他人を価値判断しないと、これと上手く付き合ってはいけないものだ。
我々は頭の中のカテゴリ分けで目安として他人を決めつけるのである。
これは真理だ。
例えば、日本の偉人の伝記は、今はどうだか知らないが昔は人物の都合の悪い部分は適当に割り引いた聖人君子に書くきらいがあった。
特に、大東亜戦争時の陸海軍の軍人の伝記は、どうしてピンからキリまで優秀な人々ばかりなのに、日本は戦争に負けたのか不思議になるくらいに有能エピソードでびっしりである。
これは海外の懐疑主義に満ちた辛辣な突き放した伝記とは大きく違っていた。そもそも日本の伝記はその人が好きでしょうがない人が書くから、
そんな偏見だらけで造られてしまうのだろう。性善説にもほどがある。
しかし、そのような偏見は非常な学習効果があるように思う
そんな美談でまみれた伝記ばかりをインプットされたまま、
まるで正反対の見方を見せられると、衝撃が大きすぎて、
非常に強烈に負の部分を覚えてしまうのだ。
偏見を強固に持っていた分、それを打ち崩す情報が入って来た時に
騙されたという気持ちと共に、その人物に対して徹底的に懐疑的になる。
そして人は懐疑という感情に、いつまでも耐えられないから、
なんとか真実を確かめようとして自ら、出来るだけ公平に
その人物を見極めようとするのである。
これこそ、偏見という強烈な価値観が振子の揺れ戻しから
反対側に振れ、やがて真ん中あたりで着地する劇的な効果である。
逆に、偏見をもつ程覚えていない人や事物は、
いつまでも曖昧模糊とした理解で終るかも知れない。
大体、あれはどう思う?これはどう思う?と質問して
えーわかんなーい、考えた事なーい
という人間ほど話してつまらないヤツはいない。
何の偏見もないヤツは、そもそも何もまともに考えてないヤツだ。
とkawausoは偏見を持っておく
この人はかうだ!この事はかうだ!と決めつけと偏見を持つ事は
その逆カウンターが発生した時に、大きく価値観の変更を迫る
ゆえに偏見は重要なのである。
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