戦後沖縄の電力事情
沖縄戦で焦土と化した沖縄では、
もちろん発電所も送電設備も失われました。
明るい電気の下での家族団らんも、
映画館で映画を見る事も
しばらくは叶わなかったのです。
アメリカ軍でさえ送電船からの電気で
電力需要を賄なっていました。
しかし、逞しい沖縄の人々は米軍からの放出品の
発電機を元に個人が電気を販売しだしました。
全島で300の個人電力業者が創業開始
終戦直後、沖縄の人々は地域関係なく、しまい込んでいた
石油ランプでうす暗い夜を過ごすようになります。
しかし、需要が必要な所には供給が生まれるもので、
1946年末には闇取引で、米軍からの放出発電機を使った
民間事業者が、自分で発電機から電線を引っ張り
一般家庭に電気を供給し始めます。
とはいえ、小さな発電機1個の零細企業ですから、
各家庭に送れる電力はようやく電球を一つ光らせる位
ラジオでもつけようものなら、ヒューズが飛んで
業者に怒られるというような次第でした。
米軍は勝手な電力販売を禁止するが
ささやかながら平和が戻ってきたと喜ぶ沖縄人
しかし、貴重な石油が民間の需要に流れて、
工業の振興が遅れると考えた米軍は闇業者を摘発
発電機を没収して登録制にし工業用に振り分けます。
これにより、一時電気を回復した庶民は、
また石油ランプの生活に戻ってしまいます。
ところが需要のある所には、供給があります。
今度は工業用発電機を保有していた業者が、
余剰電力を闇で民間に売り出したのです。
1949年、この頃の那覇にはアーニーパイル国際劇場
小禄劇場、みなと劇場などが自家発電機を備えて
電気の灯る箇所が出始めていました。
米軍は再び、闇業者を摘発し、見せしめとして
3つの業者の操業を停止します。
これは効果てきめんで、恐れた電力業者は、
一般への電力販売を控えるようになります。
当間重剛、松岡政保の働きかけで電気が許される
しかし、一度、戻った電気を取り上げられた
庶民の不満は大きなものになりました。
映画も芝居も夜は見られなくなり娯楽は奪われ
米軍統治への不満が出てきます。
那覇市は郡島政府に陳情し、工務部長の松岡政保、
経済部長の当間重剛が米軍と折衝します。
「すでに一度、与えた電気を奪うというのは、
住民の間に大きな不満を起こしています。
なんとかならないでしょうか?」
米軍政府も、自分達は電気生活を享受しながら
住民が戦後5年近く経過しても石油ランプ生活というのは
まずいという考えもあったようで、
1949年11月、一日五時間の条件つきで
民間への電力供給を許します。
戦後沖縄史でもとりわけ評判の悪い
松岡政保と当間重剛ですが、
別に時代劇の悪代官なわけでなし
こういう一面もあったのです。
零細電気事業者は消え琉球電力公社の時代に
しかし、1950年代に入ると、徐々に庶民生活にもゆとりが生じて
電球一個ずつしか配電できない零細事業者では、
沖縄全体の安定した電力供給がおぼつかない事態になりました。
とはいえ、300もある電力事業者で正規の電力事業者の規格を
満たす業者は一つもありませんでした。
1953年、米軍は牧港村に牧港火力発電所を建設、
やがて、ここの発電力で米軍の電力需要は賄えるようになり
余剰電力を民間に売る計画が出てきます。
その為に、米軍は最初、群島政府、次には琉球政府に
電力公社を造らせようとしますが、
まだ、それに必要な株式を集める力が琉球政府に無い為に、
琉球電力公社は、アメリカ人の理事長を置いた
米国民政府の持ち物になります。
1972年、琉球電力公社は、復帰により沖縄電力になり
現在に至っているのです。
まとめ
沖縄では、冷戦を睨み、また沖縄の世論を
米軍に繋ぎ止める目的でシーツ准将が赴任し、
米軍が一手に握る石油、電力、運輸、交通のような
事業を民間に開放して効率化するシーツ善政が敷かれます。
電力の公社化も、その一環で行われました。
シーツ善政は、非効率な軍政を緩めて市民生活を向上させますが
一方で沖縄人の政治への参加は依然厳しく制限されたので
それは返って、復帰熱に火をつける結果になります。
琉球・沖縄の歴史を紹介しています。
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