びっくり! 沖縄県民の14人に1人は護佐丸の子孫
訴訟大国アメリカは、弁護士の数が多く、
歴代大統領の半分が弁護士出身であり、
石を投げれば弁護士に当たると言われます。
それを沖縄に当てはめると、石を投げると
護佐丸の子孫に当たるになるでしょう。
今回は、たった一人から推定10万人にまで
繁栄した護佐丸の子孫について
繁栄した毛氏は、阿麻和利により滅ぼされる
毛氏、護佐丸盛春は、山田按司の子として
1390年代に産まれ、1416年の尚巴志の
北山征伐で 城を陥落させる大手柄を立てます。
以後、引き立てをうけ尚巴志の死後も
強大になっていきますが、ライバルの阿麻和利の
計略にかかり、王府に謀反を企む逆賊として
討伐される事になります。
護佐丸の遺児、豊見城盛親生き残る
護佐丸は、王府に抵抗するに忍びないと
抗戦を禁じて、一族に手を掛けて全滅します。
しかし、産まれたばかりの赤ん坊に手をかける事は出来ず
乳母に託して、密かに城から逃がしました。
乳母は南山にまで逃れ、糸満の村長、国吉真元に匿われます。
やがて、阿麻和利の計略は露見し、阿麻和利も王府の
軍に攻められて滅亡しました。
やがて、金丸がクーデターを起こして、尚思紹王統が倒れると
成人した盛親は首里に仕官して雑役係になります。
毛氏は、豊見城、富川、伊野波 上里に分家し繁栄
盛親のいきさつは、尚円も承知していたようで、
忠臣の遺児として、目をかけられ順調に出世します。
やがて豊見城間切、総地頭になった盛親は、
豊見城親方盛親を名乗ります。
彼の子供達は、それぞれ、親方位に上り分家していき
富川殿内、伊野波殿内、上里殿内を開いていきます。
子孫にも、傑物が出現し、とんち小僧として有名な
モーイ親方こと、伊野波盛平、彼の弟で和文学者
国頭盛命、頑固党の領袖、亀川盛武、
最期の三司官、富川盛奎等がいます。
毛氏は首里を牛耳る五大門閥にも名を連ね
15名の三司官を出しています。
そのような名族なので、当然のように勢力が伸び、
護佐丸が人気のある武将である事も手伝い、
毛氏は、琉球処分の時点で111の家譜がありました。
これはつまり、分家の数が111ある事を意味します。
そんなこんなで、あれから140年経過した現在では
父母のどちらかが護佐丸の血を引いている沖縄人は
10万人、そうでなくても数万は下らないのです。
たった一人になった、初代盛親から、数万人って
歴史も粋な事をします。
という事で、結論から言うと、沖縄県民のかなりの数が
先祖を護佐丸に持つという事になりますね。
琉球・沖縄の歴史を紹介